「花じゃないよ 花でも ボクでもないよ」というでまかせの言葉を落ち着いて分析してみると、 「この文は、それ自体が華やかな美文ではない」 「それ自体に価値のある感動的なものではないし、作者の話(日記・身辺雑記など)でもない」という意味なのかもしれない。 「花じゃないよ 花でも ボクでもないよ」とタイプしたのは自分の指なのだが、 よく意味が分からない。だってボクでないんだもの。だけど、何となく「花粉のようなものかもね」とタイプしたくなった。
「きゃぁ! あ、あなた…花?!…は、花がしゃべったの?」
「花じゃないよ」
「………花の精…みたいなもの?」
「花の精じゃないよ」
「花に住んでる妖精さん?」
「ボクじゃないよ」
「?」
「うつくしさはそれを見る目のなかにあるんだ。かなしみがそれを感じるこころのなかにあるように」
作品ができあがる前や公開の途中で、あまりに強いフィードバックがあると、 たとえそれがファンの熱烈な支持であっても、 作者が混乱して、ストーリーや作品の結末に悪影響を与えることがある。
独りで作っている場合や、そうでなくてもある一人が大きな発言力を持っている場合に起きやすい。
本当にしっかりしている作者なら、結末を予想されようがテーマを誤解されようが、 何が起きようと予定通りに進めるのが基本だろう。 途中で思い付きで変えるのは危険が大きいし、 必要があれば次作以降で補っていくこともできる。
ネットで情報が濃密にやりとりされるようになると、完結前に予想されてしまい、 しかも予想されてしまったことが自分にも分かるようになる。 ファンの反応に動揺して物語を変えてしまうようなナーバスな作者というのは、 ファンがどんな反応をしているかとても気にしてチェックしていたりする。 意外性・独創性が個性の証し、自分の存在の証しなのだと誤解して、 偶発的なファンの反応をトリガーに物語を変更するという主体性の揺らいだ行動を見せる。
それはあまり責められない。 そういう分野にかかわること自体、多感で、普通に社会にとけ込めない結果なわけだし、 後から振り返れば「次回作以降で考えれば良かったこと」かもしれないが、 デビュー作や若い時期の最初の大ヒットだったら、とても強い思い入れがあるだろう。
社会と「普通」に交われない者が作品を通じてならつながれると思うところに、 既にもろさの構図があるわけだが、 ネットの発達でファンの反応がリアルタイムで分かるようになると、 たとえそれが好意的なものであっても、 結果的には作り手や作品にとってネガティブな作用をしてしまうことがある。 ネット時代の前でも、動揺させるようなフィードバックが耳に入れば同じことだが、 今はその確率は大幅にアップしただろう。
このメモは、いろいろな事柄に当てはまる内容だが、 書いた直接のきっかけは、 『エヴァンゲリオン新劇場版 REBUILD OF EVANGELION(仮題)』の制作が発表されたこと(2006年9月)だった。 「内容はやさしくなる」「わざわざ難解な語句を撒き散らすようなテクニックはもうつかわない」といった発言を伝え聞くにつれ、 一見何の脈絡もないようだが、ミンキーモモのことを連想していた。
首藤は「もし、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の3部目が実現したら、多分、あっと驚くハッピーエンドにする用意がある」と、 書いている。 「3代も続けば…優しいファンタジーでなければ、やっていけない」とも(2006年6月)。 若さに任せてかなり無茶もやったが、最終結論はどちらも「やさしく」という方向性らしい。 良い意味での円熟としてプラスに受け止めるべきだろう。
エヴァも空モモも、歴史的に重要なことは確かなのだが、 主観的に好きか嫌いかというと、複雑な感じがする。 空モモ(や最後二つのOVA)が名作であることは間違いないが、 葦プロの作品からどれか一つだけ残せみたいな尋ね方をするなら、 一瞬の迷いもなくモモはごみ箱に捨てられる。
「おとなになることに(未来に)希望を持たせる」というテーマの空モモで、主人公が「自殺」し(事故だが、 魔法を使えば助かったのに積極的に助かろうとしなかった)、その転生を前提に「希望」の物語が続いていくところ、 つまり、生きる希望の物語なのに、結果的には自殺を前提とする自己矛盾に陥っているところに、 最大の違和感がある。現実で強く生きるテーマを名目としつつ、 本質的には「不適応者につかの間の逃避世界を与えるが、現実への適応力は与えず、むしろ逆効果」の世界である。
このイメージは、モモのマニアが、 4浪のすえ旧阿部倉トンネルで自殺した伝説的事件(切り刻んだモモの絵を自分の周りにばらまいて)によって、 補強される。ふと、モモが「自殺」しなかったら、この人も生きたのではないか、と思ったりもする。 何年前かにこの事件を最初に聞いたときから繰り返し思うのは、 「葦プロの別のアニメのファンだったらこうはしない」ということだ。
こうしたことは、あくまで偶発的な結果(おもちゃの売れ行き不振による打ち切り通告)であり、 首藤は悪くない。当時、不利な条件下で最善を尽くしてのことだろう。 打ち切りで頭に来て(反発もあって)主人公を殺してしまったとしても、 「作品世界が無理やり打ち切られるなら、それは作品の死である」というのは、若い自然な感性だ。 それだけ作品を愛していたということだ。
庵野にせよ、首藤にせよ、作者が一人であるか、一人のスタッフに主導権が集中するとき、 作品は、その一人の心理の揺れを鋭敏に反映して不安定な「暴走」をしやすい。 そのような不安定性は、作者の内面の不安を精密に反映したという意味で異色作あるいは傑作ともなりうる。 不安定性の上に立脚する微妙な名作だ。 テッテ的、好き勝手絶頂な「めちゃくちゃ」「暴走」「不合理」「割り切れなさ」なら爽快だが、 必要以上に「社会学的」な理屈をつけようとすると、破綻する。
首藤は最大限の創造性を発揮している。 だが、後の、例えばようこは、もっと自由にめちゃくちゃだから、それは当時の最善であっても、 (若い優秀な創作者だから当然だが)まだまだこれから発展する途上のものだった。
こういう場合において、続編を作りたいというのは、 突き詰めると「名作だから」というより「失敗作だったから」ということになる。 しかし、それは必ずしも悪い意味ではなく、激しい光を放つ新星のように現れた異色作が、 斬新性を保ったままカドが取れ、オリが除かれ、透明に熟成していくさまを目撃する機会を与えてくれる可能性もある。 逆に、失敗作を修正しようとして、失敗に失敗を重ねる結果になることもありうる。
作者を不安定にさせる大きな要因の一つはもちろん評価でありフィードバックである。 作品をけなされて良い気持ちになる人はまずいない。 ネットの発達でファンの反応が伝わりやすくなった現在、作品にとっては吉と出るか凶と出るか半々の、 大きな未知数ができたと言えよう。 人間は「誰が何と言おうと、たとえ誰も読む人がいなくとも、 予定通りにこの世界を完成させなければならない」と誓えるほどに透徹できるのだろうか、 できるべきなのだろうか。そうした境地は確かに素晴らしいものではあろうが、 作品の魅力には背後にある人間の弱さが関係することも多いはずだ。 力強さは弱さの中でこそ発揮される。揺れながらも手探りで正しい方向を模索し続けるその心細さが強さだ。 だから、上記のような微妙な作品でも、 問題があるとしてもそれも含めて全体的に好きと言えないこともないのである。
それでも、作者の言い訳を読んで初めて納得できるような部分というのは、作品としてはやはり失敗なのである。 例えば、カジラはどう考えても間抜けである。 この場合の運命とは、打ち切りを通告されたひどさもさることながら、 突然また継続が決まったときに「嫌です。あの作品は既に完結しました」と拒絶できなかった力関係の弱さなのだ。
不満があるから作り直すのも一つの立場なら、 不満を拡大させないために、どんなオファーを受けても無理な続編は作らないというのも一つの見識だろう。 とはいえ不満は創造の母であり、あまり「潔すぎる」のも問題である。 蒸留作用が本物かどうかは、泥の中を通過してなお透明であることによってこそ、分かるものだろう。 作者と作品は、どちらの方向にも絶対的な主従関係にはなく、相互的なものだ。