このメモは「科学的に明らかにされた(とされる)幸運な人と不運な人の違い」について紹介するものだが、 その前に全然関係ないが、どんなジョークがおもしろいとされるかの国別傾向の一研究、について紹介したい。 どれだけ統計的に有意かは分からないので、話半分に…。
http://www.richardwiseman.com/LaughLab/globe.html
アイルランド、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドでは言葉遊びがからむジョークが好まれた。 アメリカ、カナダでは間抜けが登場するような優越感が絡むジョークが好まれた。 フランス、ベルギー、デンマークなどでは少しシュールなジョークや、死・病気・結婚などの人生上の重要問題を軽妙に扱うジョークが好まれた。ドイツでは特に傾向がなく結果的にどんなジョークでも好まれた。 トータルで受けたのは、こんなようなジョークらしい。
1. 二人の猟師が森に行ったとき、一人が突然倒れてしまった。息をしていないようで白目をむいている。 もう一方の猟師は慌てて救急隊に電話した。「友達が死んじゃった。ど、どうすれば…?」 「落ち着いてください。本当に亡くなっているのですか。まずはそれをはっきりさせましょう」 短い間があって銃声が響いた。「はい、させました。そ、それで?」
2. シャーロックホームズとワトソン博士がキャンプに行った。おいしい夕食を食べ、満足して眠りについた。 数時間後、ホームズが目を覚まし友人を揺り起こした。「ワトソン君、空を見てみたまえ。何が見える?」 「うわあ、星がすごくたくさん見えるね、ホームズ…」「で、そこから君はどういう推理をする?」 ワトソンは少し考えから「そうだね、天文学的に言えば宇宙にはたくさんの銀河があること、 従って無数の惑星が存在する可能性が結論される。 占星学的に言えば土星がしし座に入ったことが観察される。 時計学的に言えば、現在時刻は3時15分ごろと推定される。 気象学的に言えば、明日は晴れると予想される。 神学的言えば、神の偉大さが実感される。この広い宇宙で、われわれ人間は何てちっぽけな存在なんだろう…。 君はどんな推理を?」「寝ぼけるなワトソン、誰かが我々のテントを盗んだんだ!」
またイギリスではこういうのが受けたらしい。
3. 赤ん坊を連れた女性がバスに乗った。運転手は言った。「うわ、こんな醜い赤ん坊は見たことない」 女性はカンカンに怒りながら後部の座席に腰を下ろし、隣の男性に言った。「何、あの運転手…。頭くる」 男性はうなずいた。「運転席に行ってきっちり文句を言ったほうがいいですよ。さあ、そのサルは私が見ていましょう」
確かに分析にあるような要素がいろいろ入っているのが分かる。
さて、この「笑い研究所」を作った Richard Wiseman 教授(心理学)は幸運の研究もしたという。 広告を出して「自分はものすごくついている or いつも運が悪いと思う人」を集め、比較研究を行った。 例えば、被験者に新聞を渡し、写真がいくつあるか数えさせる。 写真の一枚に細工がしてあり、「この文を読んだと実験者に報告してください。50ドル進呈」みたいなことが大きな文字で書いてある。 「幸運」群は高い確率でこの文に気づくが、「不運」群は気づかない。 教授の分析によると、「不運」群は自分のするべき仕事に集中し過ぎており「よそ見」をする余裕がないらしい。
…といったような研究から「幸運になる4つの規則」を帰結、それを実行させると「不運」群が実際に幸運になったという。
こうした「幸運の法則」についてはインチキ宗教のたぐいに堕する危険性を警戒しなければならないし、 「有名な心理学者があなたの生活をハッピーに改善」という題目には強い暗示効果があり、 ダブルブラインドでないと意味がない。よってこの研究自体を是認するわけではないが、 方法と無関係に結論はおもしろいと思うので紹介したい。
繰り返すが、上記を宗教的・神秘的な宇宙絶対法則のように文字通り受け取ってはならない(そんな人はいないと思うが)。 内容自体は必ずしも目新しくないが、それは「いろんな人がそれとなく感じる経験則的なもの」だから目新しくないということだろう。 勘というのは、要するに言語化されていない推論のことで、脳が膨大な過去のデータから帰結したことなのでそうそう的外れではなく、 また言語化する手間を省いていきなり意識に割り込みをかけてきた緊急メッセージなので重要である可能性が高いのだろう。 もちろん誰でも勘違いはあるが、それは「これはまずい」「こうしたらいいのでは」という自分の直感を無視してよい根拠にはならない。 むしろ100%正しくない自分を信用してあげることが大切である。 ラッキーというのはある種の発見・気づきだから、新しいことに対してオープンであることも重要だろう。 またこれはスポーツや演奏・演技などで特に当てはまることだが、自分が失敗しているところをイメージしたり、 自信がなかったり、あがったり、萎縮しては本来できるものも失敗しやすくなるので、ある程度、上記のようなことは言えるだろう。 ただし、くどいようだが「自分が幸福であると強くイメージすれば幸福になれる」といった、 わけの分からないインチキ宗教に陥ってはならない。そういう問題ではない。心に余裕を持つことだ。
何でも新しいことを試してみればいいということではないが、 試してもみないで、どうせ駄目だと決め付けて、いつも同じ現状維持というのもつまらない。 1%しかあたりがないがらくたの山に対してオープンであれば、100分の1の幸運に巡り合えるが、 「不運」群の意識ではその同じ行動が99%失敗するに決まっている=無駄な努力なのだ。
この記事自体、上記実験のパロディーになっている。 「何が世界で一番おかしいジョークか、の認識の文化による違い」という題を見て「話半分の軽い読み物だな」と読み飛ばすと、 実際の内容が幸福論であることに気付かない。
仕事で手ひどい裏切りに遭って、 先行で投資した資金の回収の目処も立たずに、 もうホントに生きてるのがイヤになって、 ボロボロ泣きながら寝ちゃったのね。
んで、酔っぱらって泣き寝入りして、うとうと目が覚めかけたとき、 飼ってる猫2匹が「私が死んだらどうするか」について 相談してる声が聞こえてきちゃったのよ。
「お水がもらえないと困る」 「うん、お水はね~」 「ごはんはお皿にあるからいいけどさ」 「あるもんね」
……確かに寝る前に皿にカリカリを山盛り入れたけどさ、 おまいら、それ食べたらなくなるってわかってる?
「おまいらさ~」 と起き上がって文句を言おうとしたら、 2匹とも慌てて毛づくろいを始めたのには笑った。
猫には「今日」しかないって、ホントなんだなって思ったら、 落ち込んでるのがバカバカしくなって、開き直って仕事して今に至る。
以前、2006年10月の改変コピペを見たが元ネタは上記2006年7月のもののようだ。 "Vyh/iR45" というIDで検索できる。 潜伏性の(あんまり繁殖しない)コピペだが、それでも低い頻度で確実にコピーされている。 色っぽい。
「今日」しかない猫が特別なのでなく、過去や未来を意識するのが人間特有なのだろう。
人間様の強力な言語能力も、何も考えない猫よりは多少高等かもしれないが、 「全体」から見るとまだまだ抜け穴だらけだ。 過去の経験から予想される未来の可能性しか意識できないからだ。 例えば、
…眠っている間に、オオウツボカズラが強い風にあおられ飛んできて、 飲み込まれてしまいませんでした。 わたしは何て幸せなのでしょう。
と感謝しながら目覚めることも、
…今日、一日、神様の恵みにより、 間違えてスベスベマンジュウガニを食べてテトロドトキシン毒で煩悶せずに済みました。 わたしは何て幸せなのでしょう。
と感謝しながら眠りにつくこともない。
オオウツボカズラ Nepenthes rajah は巨大な食虫植物。動物も捕食する。
(画像もパブリックドメインです。)
なぜ? 無限の推論能力があるコンピュータなら、上記の危険性についても評価するだろう。 猫が明日の心配をしないように、 人間は巨大ネペンテスやスベスベマンジュウガニの心配をしない。
「可能性としてありうること」の広大な海から見ると、人間が思い悩むことはもともと限定的で、
あしたのことまで考えない猫と五十歩百歩でしかない。
起きたかもしれない
人間の言語は無限やランダム性についてはそれほど強力でなく、よく「パラドックス」が生じる。 自然が逆説的なのではなく、それを処理する側が有限なのだ。
ある人が山を歩いていると、凶暴な虎に出くわした。 慌てて走って逃げたが、がけに追い詰められてしまった。 命からがら、つたを伝ってがけを降り始めるが、途中で足を滑らせ、宙ぶらりん。 つたの付け根のほうでは、二匹のねずみが横穴から現れ、何やらかじり始めた。 よく見ると、つたには大きなノイチゴが実っていた。 その人は片手を伸ばしてノイチゴをちぎり、口に放り込んだ。
ある人のコメント。「二つの可能性がある。(1) どんな逆境にあっても悟った人は今を生きるのだ。 (2) その人は現実逃避をしている。 …この二つは対極的なようだが、同じ結果をもたらす。」
http://www-usr.rider.edu/~suler/zenstory/cliffhanger.html
ある人が旅客機に乗っていると、 深刻なエンジントラブルが発生して機は操縦不能になった。 そのまますぐ墜落するわけでもなく、 機内は比較的落ち着いていた。 各乗客用の端末のスクリーン(その機にはそういうサービスがあったのだ)からメニューを選択し、 ヘッドフォンをつけ、旧作しかなかったが適当にアニメを選んで見始めた。 思ったとおり墜落中でも映画は見れるのだった。 「墜落して駄目かもしれないし、結局助かるかもしれないが、自分が悩んだところで結果は変わらない。 そんなことより何か見よう」
Urban Dictionary というサイトをご存じでしょうか。 ウィキペディアみたいな、でもそれよりずっと砕けた(適当な書き込みも多い)新語辞典という感じのもの。 fred ressler というハンドル名の人の投稿を偶然見て、妙に心引かれた。 はっきり言って少し電波系なのだが…。
https://rd.vern.cc/author.php?author=fred+ressler (https://www.urbandictionary.com/author.php?author=fred+ressler)
この人は、ネタでなく本気で、言葉を純粋な記号に近いものと捉えているのかもしれない。 というのも定義している言葉の例文で、しばしばその言葉の実際の用例ではなく、その言葉自体について書いているからだ。 例えるなら、
「花: 花とは漢字の1つで、日本語では名詞として働く。用例: 花は草冠の漢字だ。」
どんな人なのかと検索してみたら、 「心霊現象ではないが光線の具合で天使のように見える写真など」を撮る写真家。 活動内容が辞書の投稿内容と符合してるので同一人物に間違いなさそうだ。 ますます「へええ」という感じ。
© Fred Ressler, from Henry Boxer Gallery presents Fred Ressler
http://www.outsiderart.co.uk/ressler.htm
コナン・ドイルの愛した妖精写真を連想する方も多いと思う。 だがそれと違って「霊的写真」でないことが前提だ。 意図されたものではないこの作用を、人の心と世界の間で起きることの象徴と捉えているようだ。 実際にそのパターンが在るわけでなく、人が勝手に「そのように見える」と思うものだから、人の心を離れて存在するものではない。 そのパターンの実相は世界の揺らぎ・たゆたい・渦であり、世界を離れて存在するものでもない。 こうした発想自体は別の意味で霊的とも言えるが。
この写真家は、空目で見るのは動物の姿より圧倒的に人間の姿が多いことを指摘し、 人間の脳が動物より人間に関心があるからではないかと示唆している。 天然のロールシャッハ・テスト。 その考えを延長するなら「妖精写真」に執着したドイルは「人間と精霊は際立って対照的な存在だ」と感じていたのだろう。 妖精を「人間と不連続な、特別に魅力的なもの」だと考えたからこそ、それが撮影されたことに意味を見いだしたのだろう。 「本物の心霊写真」の方が面白いと思う人は「生と死を対立する概念だ」と捉えているのだろう。 空目は、何らかの対立概念を映す像ではない。 何の像でもない。 単に光の加減や偶然のいたずら、心のいたずらだ。
fred ressler が Urban Dictionary に投稿した項目のうち、 電波っぽさが低く、深遠とも言えるものを幾つか紹介しよう。
1. Pareidolia
空目とは、顔・人物・形を、通常それと無関係のはずのパターンの中に見出す現象。 人が、雲・木目・大理石模様・煙・陰など何らかの非均質な領域の中に、 顔や人物や形があるように感じるものである。 同様の現象は聴覚領域でも発生する。 ホワイトノイズや逆再生した録音を聞いて、実際には存在していない言葉やメロディーが知覚されることがあり、 空耳と呼ばれる。
11. wordist
言葉信者とは、言葉に絶対的な意味があると信じる者のこと。 言葉原理主義とも言われる。 言葉や、言葉の音や、言葉のイメージを愛するとき、 人々はしばしばその言葉や言葉が表現する観念のために喜んで人を殺したり命を捨てたりする。 言葉は全て互いを定義し合う際限ない循環論法であり、 絶対的な意味を持つ言葉などない。 それに気付かないでいる言葉信者は、反辞書を読み、現在の原理主義的戦争から世界を脱出させるのを助けるべきだ。
(用例) エディは「愛する」「母国」に「奉仕」することを「誇りとする」ほどの「言葉信者」だった。
21. solipsis
唯象とは、今ここで作られた新語で、宗教、科学に続く第三の主要パラダイムを指す。 唯象論によれば、全「世界」には、陰陽的に働く個我・宇宙我のバイナリーな意識が存在するのみである。 […非常に長いので中略…] デカルトの思想は、渦をそれが発生している川と切り離して見るようなものだ。 唯象論によれば、われわれはそのように「世界」に埋め込まれた渦である。 「世界の外」があるわけではないから、デカルトの主張と異なり、われわれはどこからか世界の「中へ」生まれてくるのではない。 デカルト主義的二分法科学が説くところと異なり、現在の形状を維持できなくなったとき物は「死ぬ」わけでもなく、 それが来た元の流れへ帰るにすぎない。 物は世界の外から来るわけでなく、物は世界の中から去るわけでもない。
3. philosophy
哲学とはとても単純だ。もしその者が余剰エネルギーを持たないなら、その者は何もできない。 もしその者が余剰エネルギーを持つなら、その者は次の5つのことのいずれかを、外的または内的存在に対して行う。
それと今ここで相互作用する。
将来相互作用するかもしれないものとして、それを脇に置く。
それをリサイクルする。
それを「処分」する。
それを「無視」する。
9. undictionary
反辞書とは辞書の反対の物で、 aからzに至るあらゆる言葉と概念(「言葉」と「概念」を含む)のそれぞれについて、 それが真の意味を持たないこととその理由について記述した書物。 人がいわゆる他者によって人生を束縛され[ることをやめ]、機械であることを免れたいとき、反辞書は大変役立つ。 いわゆるカルマに従う限りにおいて、 反辞書はどのような議論・どのような束縛をも打ち破ることができる。 唯一存在するかもしれない時間と場所である今ここで、反辞書は編集を始められた。 周知の通り、 「時間」、「空間」、「言葉」、「考え」、「人生」、「命」、「死」などの観念によってわれわれは束縛され、 われわれの行動は形骸化してしまった。 (それらは、形骸化をもたらす観念の代表例にすぎない。) 反辞書が完成され普及すれば、われわれはプラトンの洞窟を出て人生を生きることを開始できる。 忘れないでください、言葉とは指し示す「ゆび」のようなものであることを。 言葉は最初に行くべきところを示すだけで、内在的な意味を持たないことを。 人は「もの」自体以外の何ものをも指し示すことができず、 指し示されるところのその「もの」とはその意味であり、 その意味を表すのに通常用いられる言葉ではない。
(用例) エディは反辞書で「宿題」という言葉を調べ、 先生にそれが実際には存在していないことを示した。 彼がいかに賢いか分かったので、先生は彼に学位を与え、彼は年6時間の仕事に戻ることができた。 どの時代にも、これが中流存在のあるべき姿だったのだ。 反辞書の意味、さらには通常辞書以上の意味が認められれば、まさにそうなるだろう。
10. meaning
あらゆる物は、それ自体のうちに意味を持ち、それ自身を表している。 あらゆる物は、生きて話す「神」であり、それは言葉を話すか否かによらない。 これを「言葉」と混同してはならない。 言葉は無意味で際限ない循環論法であり、他の言葉の意味に依存した、おおまかで偏った意味しか持たない。 本来そのものに内在しているものからこそ、意味が現れる。 物は宇宙の中へ生まれてくるのではない。 その物自体の中へ折り畳まれているものを、この唯一の存在であり無限次元である仮想的世界で繰り広げるのだ。 (あらゆる物は世界の中にあり、世界はあらゆる物の中にある。) あらゆる物はその意味を表しており、 少なくとも過去500億年にわたって続いてきた道を表している。
用例: 「エドウィナはろうあ者だったが、その行動によって、または行動の不存在によって、 彼女が眠っているときですら、彼女の意味は理解することができた。」 「『人生』とは人生自身の意味であり、『世界』とは世界自身の意味である。 『人生の意味』『世界の意味』といった基本的な問いに誰も答えられないのはそのためだ。」
現時点(2009年2月)で24項目しかなく、 最新は2008年9月、最古は2006年9月。一番最後の書き込みでは「上唇と鼻の間の部分の皮膚」を意味する新語を定義している。 実用上、まるで役立たない言葉と言えよう。 それを定義することは「言葉は空虚である」ことを示すパフォーマンスともいえる。
言葉を記号的に捉える人は、言葉を手段と割り切り冷徹に使うため、 言葉を情緒的に捉える人より、かえって玄妙に響くことがある。 アンドロイドは人間より語彙が豊富だろう。 人間の慣用と関係なく、単に論理的に最適化された表現を使うため、 時として人間には、逆に、ポエジーがある不思議な言葉遣いに思われるだろう。 言葉を信じていないからこそ、それを道具として使える。 「美しい言葉を使いたいから文を書く」といった感性とは対極的だ。
引用されている写真は、Fred Ressler の著作物です。 引用されている Urban Dictionary の項目は fred ressler の著作物であり、 その使用権等は Urban Dictionary, LLC社にも非排他的にライセンスされています。 そのためこの記事は完全にはパブリック・ドメインになりませんが、 本文についてはパブリック・ドメインとし、 翻訳部分の権利が存在する場合はこれを放棄し、放棄できない地域においてはこれを無償で供与します。 (2009年3月3日)