3丁目が見えない理由(先行きの不安)は、1丁目にいるからで、2丁目まで行けば自然と選択肢は狭まる。
「A と B のどちらの選択になるのだろう。どちらにしても嫌だな…」遠くにいたときはそう思っていても、近くに行くと思わぬ選択肢 C や D が現れることもある。
2019-04-04 3丁目が見えない理由(先行きの不安)は、1丁目にいるからで、2丁目まで行けば自然と選択肢は狭まる。峠まで行けば峠の先は自然と分かるし、行かなきゃ道の状態・倒木の有無が分かるわけない。
とりあえず尾根に出て…って当たり前みたいに考えるけど、まぁそこに行く前に滑落するかもしれないし、落石にやられるかもしれない。ずっと山行を続ければ、どのみちいつかは何か起きる。この「山」から生きては出られない…。だったら、のんきに今日の景色を楽しんで、鳥の声に耳を傾けた方がトクじゃね? 甘い広葉樹・苦い針葉樹の匂いをかいで、獣におびえながら「水って何でこんなにおいしんだろ。ただの塩むすびが、あり得ないうまさになる不思議。山って神じゃね?」みたいな。悩むあほうに悩まぬあほう、同じアホなら楽しまなきゃ損々。
生存は手段で目的じゃない。
茶道なんて興味ないのに「お茶の先生のウェブページを見る必要があるな」という気がした。おみくじみたいに「偶然そこにある言葉に、意味を見いだす」のだろう。適当に開いたら「随処作主、立処皆真」「随処楽」と書かれていた。なるほど、そんなカッチョイイ言葉があるのか…。それに引き換え「同じアホなら」というのは、それこそアホな表現だが、まあいい(既にやったことでは後悔しない主義)。
「随処に楽しむ」=飲み水がある・銃弾が飛んでこない…等々の条件が整った上での、ぜいたくな話かもしれない。
「満足な豚より悩めるソクラテス」というが「悩んでいた問題をすっきり解決したソクラテス」はさらに良い。どんな偉大な哲学であろうと、たった10行にも満たないユークリッドの証明の、足元にも及ばない。
「人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり」=江戸時代の僧・月性(げっしょう)の言葉。
2019-04-08 吾輩は猫である。我が辞書に「昨日の失敗」は無い。我が辞書に「明日の食事」は無い。吾輩は今を最大化させる。逆さまに投げ出されても問題ない。事実、世界の正しい上下方向というのは、吾輩の立つ向きのことである。
2019-04-25 クヌースのウェブページに、変な標識の紹介がある(Original)。「危険! この標識は縁が鋭利です。絶対にこの標識の縁に手を触れないでください」というような内容の標識。
この画像自体はネット上では結構有名なんだけど、何年か前「クヌースもこれが気に入ってたのか…」と知って、ほっこりした。
他人の反応によってインスタントに心を満たそうとせず、独りで行くこと。原理的に、自分以上に自分の心が見える者はいないのだから「他人に同意してもらえる」「誰からも独善的・偽善的と見られていない」といったことは「最も厳しい監査・最終報告」ではない。
とはいえ「自分と似た感性の持ち主が、他にもいるんだな…」ってことは、やっぱりちょっと楽しい。
2019-04-26 人はなぜ犬を飼うのか。高確率で、飼い主は悲しい思いをするのに。「忠実なしもべ」を鎖につないで「友」と呼ぶのか…。猫ならまだ分かる。猫は対等、あるいは自分の方が上だと知っている。猫は鎖につながれないし、行くときはエレガントに行く。友にするなら、やはり尊敬できる相手を友にしたい。腰巾着など要らん!
最も恐ろしい敵は内側にいる。けれど、それは自分自身なので、心掛け一つで完全に支配できる相手でもある。この世で最も恐ろしい相手を味方に付けるとき、それは最良の友となるだろう。(バガバド・ギーター6:5/6)
君は山が好きか。山屋なら、山で死ねれば本望だろう。そうだろう、病院のベッドなんかより、ずっといい。
君は人生が好きか。人生が好きなら、人生で死ねれば本望だろう。それとも貝やミノムシとして死にたいか。
君は人生が嫌いか。嫌いなら、それが終わればうれしいだろう。大丈夫、心配しなくても、君の人生の打ち切りは既に決定している。
何も深遠なことなどない。普通に論理的に考えて、どの道筋でも問題ない。
2019-04-21 佐藤郁郎先生のコラム「閑話休題」は、最も尊敬しているコンテンツの一つ。メインテーマは高次元幾何学らしく、ちんぷんかんぷんだが、裾野は広く、数論的な話題も多い。「ハイジのブランコ」の研究まである。2019年3月末の www.geocities.jp
終了でこのサイトが消滅することを残念に思っていたが、上記のように新しい場所に移転していた。ちなみに aoTuV のページも www.geocities.jp
にあったが、こちらも存続している!
このサイト(妖精現実)の記事のうち「13日は金曜になりやすい」と「3次方程式の奥」の一部は、佐藤先生のコラムに触発されたもの(それぞれ作成メモ、この部分を参照)。数学のレベルでは足元にも及ばないけど「自分自身のために自分自身で手探りする」書き方について、精神的影響を受けた。他人に説明したくて書いているのではなく、他人に説明するというスタイルによって考えを整理する。その理想は玲瓏にして些の陰翳をも留めざる所にある
という高木の言葉は、いつも自分の中にある。例えば「13日は金曜になりやすい」ことを示すだけなら方法はいくらでもあるが(☆)、そうなる理由を透明に見通せるような視座が得られない限り、数学として美しくない。
(☆)ボーナス・クイズ 「13日は金曜になりやすいこと」を検証するコードを JavaScript 3行以内で書け。(解答例はこのコーナーの末尾に)
コンピューター上で何かするとき、必要なくても Don Knuth's Home Page を開いておくことがある。クヌースのページが開いているというだけで、身が引き締まる。「時間を無駄にしてはいかん。他人の悪口を言ったり、虚栄心に浸ったりしている場合ではないぞ」と。明恵(みょうえ)の自問「あるべきようは…」に近い感覚かも。
クヌースは間違いを指摘されると、不愉快がるどころか、逆に謝礼を払う(昔は物理的に小切手を郵送したらしい)。クヌースはタイプセットに関心があるあまり、フォントの外形が気になって、文書の内容が頭に入らないことがあるらしい。どちらの感覚も、よく分かる。例えばカラオケ字幕で、漢字2文字に平仮名3文字のルビが乗る場合、タイプセッターから見るとルビの割り付け・色変化タイミングが最重要事項で、歌詞の内容や背景の映像は、割とどうでもいい。
(☆)ボーナス・クイズの解答例(3行のJavaScriptソース) クリックで実行(要JavaScript)
for( var c = [0,0,0,0,0,0,0], m = 0; m < 400*12; ++m ) ++c[ new Date( 0, m, 13 ).getDay() ]; alert("400年ごとの「13日」の曜日分布\n日\t月\t火\t水\t木\t金\t土\n" + c.join(",\t"));
「核融合には燃料が必要。燃料を使い果たせば反応は止まる」という当たり前のことを言い換えると「いつかは終わるから今輝いている」。
巨大な星の壮絶な最期は、超新星の誕生。
それは「長い時間をかけて、星の中で作られた原子たち」を宇宙にばらまくこと。究極の共有。「アンパンマンのマーチ」のようでもある。「時は、はやくすぎる。光る星は消える。だから君はいくんだ、ほほえんで」
2019-04-09 ほとんどすべてのウェブページが「広告メディア」に成り下がってしまった。主要な検索エンジンは「ターゲティングのためのスパイ装置」に。ユーザーは「情報の媒介者」から「お金の媒介者」に。今の人は「物心ついたとき、既にこうだった。世界とはこういうもの」と認識しているのだろう。予感は10年以上前からあった。1営利企業が「世界の形」を定義する恐ろしい世界。
われわれは下っ端といえどもミューズのかんなぎであり、ウェブページはムーサイの「プチ」神殿。神聖な場所に泥棒が侵入しようとするなら、神殿の管理者はこれに抵抗しなければなるまい。たとえ蟷螂(とうろう)の斧(おの)であろうとも。DuckDuckGo を(できれば .onion で)使ってほしい。G に取り込まれてしまって脱出不能な人は、せめてオランダの startpage.com を(ixquick 時代と比べると、あまり信用できないが…)。
startpage.com
は G のプロキシのようなもの。G を直接使うよりは、ましかもしれないが、お勧めはできない。
2019-04-10 何年か前、ニューヨーク版ペシタのスキャン全ページに社名ロゴが入っているのを見て、ますます G を信じられなくなった。例えばの話「永谷園」が著作権切れ図書のスキャンを提供したとして、聖書の全ページに「永谷園のさけ茶づけ」などという宣伝を書き込むだろうか。別に宗教心がなくても、常識の問題として、普通の日本人なら考えもしない行為だろう…。しかもスキャンの品質がひどい。
G のシリア語関係はいつもこんな感じで、悲しくなる…。何でも広告媒体・金儲けの道具、という嫌な世界。宗教の是非はともかくとして、ギーターや仏典や聖書の上に、わざわざコーヒーカップを置いたりするものではない。
バチカンのオンライン図書館もウォーターマークを入れている(サマリタン・タルグムの例)。パブリックドメインの人類共有の資産に、著作権マークを入れる不条理・執着心にうんざりするし、実用上もウォーターマークの下の文字が読みにくい。「情報を道具として、人間の側から支配しようとすること」を不遜と感じる。人間より長生きしている珍しい資料に対して、もう少し敬意を払ってもいいのでは…。
2019-04-03 中心があるものは信頼性が低い。全てが文字通りのチラ裏(広告・儲け主義のおまけ)に成り下がることはともかくとして、中心は脆弱性。そこが落ちれば全てが落ちる。そこが画一化(情報統制)すれば全てが検閲される。明確な思想があったわけではないが、昔から直感的に大手検索エンジンの類いをよけてきた。出会う必然があれば必ず「偶然」出会うに決まっている。むしろそういうものは、中央経由では出会えない気がする。
多数派にとっては多数決(?)の結果のランキングが価値観にぴったり合って、便利なんだろうけど…。
探しているものは言葉(の外形)ではないから、キーワードでは検索できない。
何の役にも立たないことに熱中できるのは、素晴らしい。
2019-05-03 素因数分解の“手法”の進歩のため、2010年ごろから「もうRSA1024ビットでは安心できない。RSA2048以上に移行するべきだ」といわれてきた。暗号学の文脈では、数学の進歩がセキュリティーを脅かす悪いニュースのようなニュアンスで語られることもあるが、もし仮に巨大整数がサクサク分解できるようになれば、数学的には夢のように素晴らしいニュース。その素晴らしさに比べれば、RSAが壊れることなど、取るに足りない小さな代償。RSAが終わったら楕円曲線暗号に移行すればいいだけで、大したことではない。
「素因数分解がPではない」という予想は根強いが、実際にはまだ何も証明されていない。素数性判定がPだと確定したのは2002年。素因数分解については、まだどっちに転ぶか分からない。素数愛好家としては「Pではない」と証明される日まで「Pかもしれない・Pであってほしい」と願う。素朴に、素因数分解が速くできないより、できた方がいい! 裏を返せば、間接的な意味では「RSAが終わる日」を待ち望んでいる。とすると、素数好きとしては RSA2048 じゃなく Ed25519 を使うのが「信仰上の正しい立場」なのかも(笑)。
「楕円曲線で因数分解」は M149
すなわち 2149 − 1 を自力分解したときのレポート。「自力」といってもコンピューターの力を借りているが、スクリプトはゼロから自作した。既存ツールを使えば45桁の整数 M149
など「ひよっこ」。とはいえ、全部自力でやろうとすると、その分解はそれなりに難しい(ピー・マイナス・ワン法では分解しにくい性質を持つ)。その最小素因数「ハロロたん」は 866 から始まる20桁の整数で、フルネームは「ハロロ・コロニ・ロハコロロニハニ・イハサイコイ」。この分解ができたときには無上の喜びを味わった。しばらくすると、なぜか変なツンデレ・モードが発動。「べ、別に、あんたを分解したくて楕円曲線法を実装したんじゃないんだからね。任意精度演算ライブラリを作り過ぎちゃって、もったいないから、ついでに分解しただけなんだから…。勘違いしないでよね!」
M149
との出会いについては「割れるものなら割ってみろ!」と「成果」参照。
2019-05-04 ECC という言葉には、二つの意味がある。「楕円曲線暗号」(Elliptic Curve Cryptography)と「ECCメモリー」(Error-Correcting Code memory)。一方、ECM は「楕円曲線法」(Elliptic Curve Method)という因数分解の方法。楕円曲線を使う点は同じでも、ECC と ECM は別分野。楕円曲線暗号(ECC)はセキュリティー=「戸締まり」の道具。楕円曲線法(ECM)は逆に「金庫破り」の道具ともなり得る(素因数分解されると困る暗号系から見れば)。
楕円曲線というと「楕円積分みたいな難しい(初等的ではない)分野?」とも思えるが、実際の群演算は、整数のような加減乗除にすぎない(楕円曲線プチ入門)。このサイト(妖精現実)には、楕円曲線暗号(ECC)と楕円曲線法(ECM)の両方の記事がある。
画像は Xeon マシン(2015年ごろの比較的安物だが…)上で、GP/PARI を使い M149
を分解した出力例。このジーオン機は、いっちょまえにECCメモリーを積んでいる(この ECC は楕円曲線暗号という意味ではない…紛らわしいね)。0.3秒未満で分解完了しているが、最近のマシンなら、当然もっと速いはず。速いマシンの持ち主は GP/PARI をインストールして試してみよう!
何? 「おれさまの高性能マシンでは、M149
ごときではベンチにならない」? ほほお、言ってくれるじゃないか。じゃあ、試しに M1249
でも素因数分解してみたら… (ヒント: 現在の地球人の技術では無理。)
1200ビットがサクサク分解できた日には RSA1024 が崩壊してネットは大騒ぎになるけど、数学的な意味では、やっぱりできるようになってほしい。 → 「宇宙人の先生・地球人の生徒」の例え
2019-05-08 昔、数論は「実用上何の役にも立たない純粋数学」だった。何の役にも立たないことに熱中できるのは、素晴らしい。「何かの役に立つこと」は「その何かのための手段」つまり「ツール」にすぎないが、利害を離れてそれ自体に熱中するとき、私たちは確かに「今」を生きている。「明日の準備」でも「昨日の片付け」でもない「今日そのもの」を。初期化処理でもクリーンアップでもない「人生の本体」を。
やがて数論には、RSAやECCのような「実用上の応用」が生じ、気高い「数学の女王」に世俗的役割(オンライン・ショッピング、ネット・バンキング等々)が与えられた。数論は、卑近な悪事(クレジットカード情報の盗聴など)にも応用し得る「ツール」となった。
暗号学は面白いけど、同時に、数論の純粋さがちょっと汚されたような気もする…。最近の“手法”の進歩には、むしろ「数論本来の優雅さとは正反対のもの」が感じられる。「何台ものコンピューターで延々と計算して、無理やり破ってやる」「お金が絡むから血眼になってやってる」みたいな…。暗号学はあくまで数論の一つの応用例で、数論そのものではない。
女王は、人間の思惑とは無関係に、超然と君臨するのだろう。そういう意味では「整数の素因数分解は多項式時間ではできない」という否定的解決も悪くない。「困難だと思っていたら、こんな巧妙でエレガントなアルゴリズムが…」となればもちろん大喜びするが、逆に「いくらマシンが進歩しても、事実上、人間には手が届かない」と証明されるなら、そのときはそのときで「別の種類の深い感動」があるだろう。
笑うことができる数論
泣くことができる数論
人間の数論
(新居昭乃風に)