Hardsub では、字幕は画像の一部として初めから固定的に「焼き込まれて」います。 再生する側からみれば通常の動画ファイルそのもので、 字幕なしのファイルとまったく同様に再生できます。
Softsub では字幕は画像の一部として焼き込まれているのでなく、 テキストストリームです。 で、字幕の表示・非表示を切り替えたり、 字幕の色や大きさなどもカスタマイズ可能。 表示する字幕そのもののバージョンや言語を切り替えることも可能。 再生時にそのつど動的に生成される「仮想字幕」なわけです。
以下では、ソフトサブの長所短所、 ソフトサブの再生に必要なフリーウェアやその設定についてメモしときます。
ソフトサブは柔軟、高画質で、生産性、再利用性が高く、 動画を受動的に楽しむことと自分でも何らかの創造を楽しむこととのあいだのかきねを低くしてくれます。 例えば、大阪弁を使うかたなら、通常の標準語の日本語の字幕を大阪弁に書き換える遊びなども簡単にできるでしょう。 また、もっと単純に、字幕の色やフォントを自分好みに設定できます。 もはや字幕作成者の言いなりになる必要は無いのです。
ソフトサブも良いことずくめではなく、いくつかの問題点をかかえています。 発展途上の技術なので、現状、多少不安定な面があること。 再生時に動的に字幕を生成するので、そうでない場合よりCPU負荷が高いこと。 スクリプト形式によっては、すべてのフォントやエフェクトを自由に利用できないこと。 「ソフトサブでは字幕のフォント、色、サイズ、位置などを細かく指定できないことがある」 という全般的な事実は、字幕作成者の立場からは欠点に見られることもあります。 実際には、字幕の大きさなどを再生側で選べるのは、ソフトサブの良いところです。 OGM動画にMuxされたSRT字幕に関しては、現状、SubTitDSレンダラーが貧弱であり、 DVobSubを使った場合、SRT形式の最も単純な純粋テキストストリームになります。 再生側では字幕の大きさや色などを好きにコントロールできるものの、 制作側ではフォント指定ができません(SubTitDSでは指定できるが実用段階でない)。 それ以外の場合、DVobSub を使えば、字幕作成者が字幕のフォントを細かく指定しつつ、 再生側ではそれに従うことも、従わずに無視することも選べます。この場合の「無視」はウェブページでいえば 「ユーザスタイルシートによるスタイル指定の上書き」に似ています。 SSA字幕について言えば、VirtualDub のプラグインを使ってハードエンコできるほとんどすべてのエフェクトが、 そのまま DVobSub の Advanced Renderer でソフトサブとして動的に生成できます。
すべてフリーウェアです(Windows)。
音声が Mux されている動画は、ふつうに再生するだけで映像につれて勝手に音もでますが、 それと同じで、字幕が Mux されてる動画(現時点ではOGM)は、 再生を始めると自動で SubTitDS と DVobSub がオートロードされます。 タスクトレイに表示されるフィルムのアイコンが SubTitDS 、緑の矢印のアイコンが DVobSub 。 これらのアイコンを右クリックしてメニューから字幕を選んだり、字幕の表示非表示を切り替えたり、 音声トラックが複数ある場合には音声を選択したりできます。
また、Mux されていないで字幕スクリプトが別ファイルになっている場合には、 動画と同じファイル名(拡張子だけが違う名称)にするのが分かりやすいでしょう。 例えば、abc.avi という動画(字幕なし)に対する字幕がSSAスクリプトとして存在するとしたら、 そのスクリプトを、abc.ssa という名前にして、abc.avi と同じフォルダに入れておきます。 でもって abc.avi を再生すれば、DVobSub が自動でロードされて、再生される動画面のさらに上に、 abc.ssa が再生されます(要するに、字幕なしの動画が動的に字幕つきに見えるようになる)。
緑の矢印のアイコンをダブルクリックすると、DirectVobSub (auto-loading version) のプロパティというダイアログがでるので、 Text Settings という場所で、デフォルトで使いたいフォントの種類や色などを設定できます。 日本語の字幕を再生するには、日本語のフォントにして「日本語」を選ぶ必要があります。 Outline と Shadow は通常、オンにしたほうが見やすいと思いますが、場合によってはオフのほうがすっきりするかもしれません。 Advanced Renderer をオンにすると、例えばSSAスクリプトならSSAスクリプトとして、 字幕の文字だけでなくスタイルも反映されます(つまり上のフォント設定は上書きされる)。 Advanced Renderer をオフにすると、つねに DirectVobSub 自身のフォント設定が優先されます。 config dialog を開いて、SSAのひとつひとつのスタイルごとに上書きすることさえ可能です。
OGM に Mux されているSRT字幕の場合、Advanced Renderer がオンでもオフでも結果は同じですが、 CPUリソースがきつい場合はオフにしたほうが軽くなります。 また、Misc タブにある Pre-buffer subpictures をオンにすると、 少し未来の字幕をあらかじめレンダリングしてバッファリングするので再生がスムーズになります。 DVobSub の結果を見ながら字幕スクリプトを編集するような特殊な作業の場合、 未編集の未来の字幕がバッファリングされると混乱の原因になるので、オフにして、 さらに Auto-reload subtitle files after detecting modification をオンにすると良いでしょう。 スクリプトの変更をリアルタイムに反映する真に動的な字幕になりますが、 かなりCPUパワーを食うので、通常はバッファリングを有効にしたほうが良いです。
DVobSubはSRT、SSA以外にもいろんな形式の字幕スクリプトをサポートしてます。 未対応の形式でも適当なツールを使えば、 たいがい対応形式に変換できるはずなので、いろいろ試してみてください。
おことわり: So You Want To Learn Japanese というエッセイを翻訳する予定でしたが、 なぜだか翻訳担当者が途中で逃げてしまい、ほかに英語が分かるスタッフがいなかったため、やむをえず、 分からない部分は想像で補っててきとーに訳しました。 そんなわけで多少、間違っているかもしれません。
http://www-unix.oit.umass.edu/~thoureau/japanese.html
https://web.archive.org/web/20021004195329/http://www-unix.oit.umass.edu:80/~thoureau/japanese.html
日本料理店でちょっと食事をした。アニメを見た。留学生のホストファミリーになった。 日本人のガールフレンドがいた。 そんなこんなで、きみのちっぽけな脳みその片隅に妙なひらめきが浮かんだというわけだ。 ふむ、日本語を勉強してみるのも悪くないかもしれないなぁ。 ゲームが翻訳できちゃうじゃん。マンガもだ。アニメだって。 日本人のガールフレンドができるかもしれないぞ。 日本語を知っていれば友だちにも尊敬される。 ひょっとしたら将来、日本に行ってアニメを制作できたりして……。 へへ、悪くないな。
で、きみは図書館に行ってだ、 「猿でも分かる 5 秒で分かるこれで分からないヤツは逝って良し、超カンタン、楽ラク日本語入門」だの 「あほうのための詳細!完全日本語自学マニュアル」 といった題名の本を見てみたと。 きみがすでに知っている単語があった! そうだマンガか日本人の女の子かアニメか何かから教わったやつだ。 そしてさらに新鮮でおもしろそうな新たな知識が書いてある。 きみは思う。 「お、もしかして……もしかしてだけど、将来、日本語関連の仕事ってのもいいかもしれないなぁ。 日本語を専攻したりして。素晴らしいプランかもしれないぞ。 じゃないか?」
違います。
アニメを何本見たにせよ、何人の日本人の女の子とつきあったにせよ、どんな本を読んだにせよ、 ハッキリいって、きみは日本語を知らない。 それだけではない。 このとんでもない言語を専攻するなどというのは、決して楽しいことではない。 というか、正気のさたではない。 ホロコーストという単語はラテン語の「ホリ」と「コースム」から来ていて、 その意味は「日本語を専攻しようとして」ということなのだ。 なんとなく分かったきただろうか。
そんなわけで、 あまりにも大勢の悲惨なホロコースト犠牲者を見るのにたえかねて、 これ以上多くの人が血迷わないように、この本当にためになる日本語学習アドバイスを書くことにした。 というか日本語学習を思いとどまらせるためのアドバイスなのだ。
これは極めて明白と言えよう。
学習書やらオンライン入門やら友だちやらが何と言おうと、 日本語は絶対に簡単ではない。シンプルではない。 そもそも正気でない。 日本語の成り立ちをご存知だろうか。 五十音表をでたらめな角度で壁に貼って寿司を二三個放り投げ、ぶつかった場所の音で単語を作ったのだ。
日本人はこのような日本語は簡単だといううわさを広めて、ばかなガイジンを惑わそうとしているが、その手に乗ってはいけない。 単に簡単でないというだけではない。 おそらくこれは通常人間が出会いうる最も学習困難な言語であろう。 三種類の完全に異なった書き言葉――そのどれかひとつだけを取り出してもまったく意味をなさない――、 むだの多さ、 理解困難な「ていねいさレベル」、 これ以上なくめちゃくちゃな文法構造。 こういったことで、日本語というのは、その誕生の瞬間から今日にいたるまで、 かわいそうなガイジンの魂をくだいてきたのである。 もう少し詳しく説明してみよう。
日本語を書き記すシステムというのは、 互いにまったく無関係な、とんでもなく分かりにくい三種類の要素で構成されている。 ヒラガナというくねくねした文字、 カタカナというかくかくした文字、 そしてカンジ――これは約400万種類の文字であって、世界最凶の悪夢である。
ヒラガナというのは、日本語の単語を音節単位でつづるのに用いられる。 これもたくさんの種類があって、似ている音でもぜんぜん違う形をしており、 似ている形でもぜんぜん違う音であり、まったく支離滅裂である。 ヒラガナは、目が見えないくちがきけない耳も聞こえない日本人がなんとか文字を書き留めるためにでっちあげたものであるが、 これを発明したヨリムシ皇太子は、ただちに撲殺刑に処せられた。 しかしあまり心配しないでほしい。 「実生活では」ヒラガナはあまり使われていない。
カタカナというのは外来語を謎な日本語ふう発音で書き記すのに用いられる文字である。 この発音はとても謎なもので、本来は英語の単語であってもほとんど原形をとどめていない。 とは言え、ひとつ覚えておくと日本語を読むときに助けになることがある。 カタカナで書いてある部分は実はだいたい英語なのだ。 カタカナはどれもそっくりな文字で、日本人自身も違いがよく分からないありさまなので、 あまり心配しても仕方ない。 「実生活では」カタカナはあまり使われていない。
カンジは中国から盗んできた文字である。 日本は中国を侵略するたびに(これはかなり頻繁であった)新たに数文字を盗んできた。 結果として、現在、推定400億万ジゴワットのカンジが存在している。 カンジというのは、数個の「書き殴り」から構成されており、 これらの書き殴りを常に正しい順序で書かないと教師に殴られるというシステムになっている。 これらの「書き殴り」のひとつひとつが意味を帯びている。 「馬」とか「女」とかである。 のみならず、カンジは結合されて、新しい単語を発生させる。 例えば「太陽」という意味のカンジと「ライス」という意味のカンジをつなげると「日本とアメリカ」という意味の単語が得られる。 ありえなさすぎる。 「800」に「ルーフ」をつけると「ベジタブルショップ」になり「801」に「穴」をつければ「メアリースー」という意味になる。 さらに、カンジはどのような位置にあるかによって、異なる仕方で読まなければならない。 カンジの読み方は、きみの年齢や季節によっても異なるのである。 ヨーロッパの最初の入植者が日本に来たとき、 日本の学者たちはこうした日本語の正書法を世界標準に採用すべきであると提案したが、 この提案が数年後、第二次世界大戦のひきがねとなった。 とは言え、心配しないでほしい。 カンジは決して「実生活では」使われることはないからだ。 ほとんどの日本人はカンジを読むことをとうの昔にあきらめてしまって、 現在では、ポケモンをプレイすることに時間を費やしている。
ていねいさのレベル――専門用語ではケイゴホウというのだが――これは、 日本古代の絶対服従文化ならびに階層社会に根ざしている。 このようなシステムが有用であろうということは多くのアメリカ企業も認めるところであるが、 しかしこのシステムを良いと思っている人は実は誰一人としていない。
だれに話しかけるかによって「ていねいさのレベル」は大いに変化しなければならない。 この変化は多くのパラメータに依存する――すなわち、話者の年齢、話しかける相手の年齢、時刻、星座、血液型、性別、 ポケモンのタイプ、フシギダネの立場についての見解などである。 「ていねいさのレベル」の実例をあげてみよう。
どうして最後の行のようになるのかというと、 それは要するに「ていねいさのレベル」が人知を超えた謎なシステムであるということなのだ。 理解しようなどと思わずに、 いさぎよく覚悟を決めて、 人見知りする小さい子のようにできる限りおどおどと、 だれかにいきなりぶたれないことを神に祈りながら残りの人生をすごすのが得策というものであろう。
日本語の文法構造は「興味深い」ものではあるが、 言い換えるなら「分かりにくい」「めちゃくちゃな」「とんでもない」「ひどい」ものである。 このことをしっかりと認識するために、英語と日本語の違いを観察してみよう。
このように、日本語の文法というのは、 気が弱いかた、心臓の弱いかたには決しておすすめできる代物ではない。 のみならず、日本語では「私」「彼ら」「彼女」といった代名詞に相当する言い方がないので――ないわけではないのだが、これらの表現は不自然でとんでもなく侮辱的なのである――「ちょっと殺人してみただけですよ」といっても「彼が殺人した」のか「わたしが殺人した」のか謎のままである。 つまり、だれがだれを殺そうがそれを表現する文は同じなのである。 そういうわけで、日本語を話すときには、「コンテクスト」によって真意を推測しなければならない。 「コンテクスト」とは「こんがらがる」という意味のドイツ語である。
日本人にとって、ガイジンが日本語を話そうとすることほどおもしろいことはありません。 こころの準備をしましょう。
たいていのアメリカ人にとって、日本人のイメージとは、ていねいで礼儀正しく、その場の雰囲気にあわせる人々であろう。 (日本人と言われて中国人をイメージする人も多いかもしれない。) しかし、どこからどこまでが事実で、どこからどこまでが単なる先入観なのかをきちんと区別する必要がある。
もちろん、一億人もの人々をひとつの型にあてはめようとすることは、あまりにも無責任であるし、 わたしはそのようなことをするつもりはない。 したがって断言するのだが、すべての日本人は、例外なく、英語を「話す」ことができるし、服装にこだわるし、背が低いのである。
まず日本の学校教育というものは、中央政府によって管理されているのであるが、 これは言うまでもなく中立的なものである。 例えば最近の日本の歴史教科書の題名は 「鬼畜米英が神聖なる我が国土を狙う――大日本帝国は神風によりこれを撃退――第二次世界大戦のあらまし」 といった具合だ。 この一元管理された教育システムのため、 すべての日本人は同じ英語教育を受けている。 すなわち、基本を繰り返し練習するような幼稚なことはせず例外ケースばかりテストに出して頭がこんがらがったり、 「あれ?」「やっぱり」「げっ」といった簡単な表現を学ぶ時間を惜しんで難しい単語を何千何万も記憶したりする。 そんなわけで、日本の子供は、だれでもすぐに国際社会に適応できる豊かな英語力を持っているのである。
第二点として、すべての日本人はきちんとした服装をしている。 日本人は整然とした秩序を好むのである。 ネクタイピンが曲がっていたり、ボタンがひとつはずれているのを発見すると、 日本人の大脳には特殊な興奮シグナルが発生し、 間違いを根絶するまで収まらない。 小型ケータイ電話で殴られるであろう。 日本人は風呂に入るときに脱いだ服、 つまりあとは洗濯機に放り込む以外の用途があり得ない衣類まで、わざわざかごのなかに畳んでいれたりする。 だらしのない服装は日本社会では許されない。 Tシャツに小さいしみがあったりするだけでアウトだ。 デザイナーイングリッシュと呼ばれる謎な英語がTシャツに大きくプリントされていたりするのは、 主としてこのような服のしみを目立たなくするためである。
最後に、日本人はみな背が低い。 ある意味ちょっとおもしろい。 けれど日本人は靴にも大変こだわるので、靴のおかげでまともな身長に見える。 実際の背丈は、どちらかといえばドワーフやホビットのたぐいに近い。 以上で正しい日本人像がお分かりいただけたことと思う。
日本文化も「興味深い」と呼びうるものであるが、 言い換えれば「理解しにくい」のであって、場合によっては「危険」である。 かれらの文化は「グループ内/グループ外」というコンセプトに大きく依存しているが、 ここにおいて、日本人全体は大きな「グループ内」であり、 きみは「グループ外」の存在である。 このような疎外感にくわえて、 日本文化の特色としては、さまざまなマンガがあげられる。 非常に多岐に渡るジャンルのさまざまなマンガや商品が、24時間年中無休で売られている。 日本人はまたかわいいモンスターや、年輩者といっしょに風呂に入ること、自殺などを好む。
日本の食品は「エキゾチック」とも呼びうるものであるが、 たいていの人にとっては「気色悪い」というべきであろう。 日本の食品には長い伝統があって、当時、お米を食べ飽きた人々が、 食べられるものなら何でも食べようと海底に生えている雑草からお隣さんまで調理してみたのがその起源である。 例えばナットーというのは、恐らく豆の一種であると思われるが、電池のような味がする。 またポッキーというのは糖衣をほどこした棒状の食品であって、おがくずやイチゴの味がする。
このような多様な食品の存在にもかかわらず、 日本人たちは混乱を避けるために、すべての食品を同じ味付けにしている。 お茶からお菓子にいたるまで、実際にはアジノモトの味しか存在していない。
アニメの世界は現実では、ありません。 日本語学習者は、そもそも、現実の女になど興味がないはずです。 この意味が納得できないのであれば、今すぐ立ち去るべきです。
言語の習得をなにか生やさしいこととでも勘違いしているのか、 アメリカでは多くのクズ人間がなまはんかな気持ちで日本語クラスに迷いこんでくるが、 この人たちを見ていると巨大な彗星が地球に衝突して人類が滅んでほしいという気がしてくる。 どの日本語クラスにも必ず三種類の廃人が存在する。 アニオタ、知ったかクン、まよいこんださん。
アニオタは、おそらく最も標準的な日本語学習者であろう。 また最も迷惑なクラスメートとも言うべきである。 手遅れになる前にこの人々を識別することは比較的、容易である。 毎日同じエヴァンゲリオンのシャツを着てきたり、アニメグッズを持っていたり、 メガネをかけていたり、よく意味の分かっていないアニメ語を頻発したり、 名前に -chan をつけて呼び合うようなら、まず間違いないであろう。 -nyo や -nyu や -gema はさらに致命的であり、 uguu などと言うのは最悪であるが、 「大統領チャンだス」などと言うレベルに達すると逆に尊敬に値する。 いずれにせよ、このような人々を見かけたら、用心深く、なるべく距離を置くことが肝心である。 かれらは人間関係を渇望しており、 きみを会合やアニメショウやコンベンションやコミケといった謎な世界に誘うだろう。 つきあうときみ自身の時間が浪費されるばかりか、 「これエンコしれ」だの「リップしれ」だの言われて貴重なCPU時間まで奪われる。 現実の人間などとつきあうのは面倒で、時間の無駄としか言いようがない。 かれらの特徴は結局、日本語の単位を落とすことである。 これ以上なく最悪最凶のクラスメートだ。
知ったかクンは通常、日本人のガールフレンドなりボーイフレンドなりを持っていて、 この「インサイダー情報」によって突然、日本ツウになったような顔をしているが、 現実には日本について書かれたまじめな本を一冊も読んだことがない。 この人々は勝ち誇ったような冷笑をうかべ、 教師に質問されると聞かれていないことまでべらべらと答え、 質問の意味を勝手に解釈し、 さらに教師にからむことから容易に識別できる。 (典型的な会話例。学生「オハヨウの意味は何ですか」 教師「グッドモーニングです」学生「おや、ぼくのガールフレンドの言ってたことと違うな……」) かれらはいつも間違っており、 日本食について長々としゃべり、 いつも間違っており、 余計なことまで「ちなみに」などと言うがそれは間違っており、 結局、日本語の単位を落とす。 これはアニオタの三倍ほど始末が悪い。
まよいこんださんは次のいずれかの理由で日本語のクラスをとっている。 a) なんとなくおもしろそうだと勘違い。 b) 日本語は意外に簡単そうだと勘違い。 c) 何でもいいから単位が足りないので。 このような学生はまったくひさんの一語につきる。 かれらは授業時間の最初から最後まで、あおざめた顔をしているであろう。 日本語はとても難しくとてもついていけないからだ。 もちろんこの人々は、結局、日本語の単位を落とす。 アニオタと知ったかを合わせた以上にどうしょうもないクラスメートである。 彼らとつきあう価値はゼロである。
日本語クラスの学生の多くは頭が良く、ユーモアのセンスがあり、勉強熱心であるが、 きみのクラスにはなぜかそのような人々は一人もいない。
もし日本語の言語としての難しさ、日本人の国民性の壁、ヲタなクラスメートといった問題を克服できるのであれば、 あるいは日本語学習は楽しく、やりがいがあると思われる。 ただし断言はできない。 なぜなら、現時点までにおいては、歴史上ひとりもこの境地に達していないからである。 とは言え、うむ。きみは、たぶん違うかもね。
原注: このエッセイには重要な真理がたくさん入っているとは言うものの、 全体としてはジョークですから、ジョークとして受け取ってください。 自分自身、日本語専攻で、けっこうまじめに勉強したりもしてます。 わたしは日本語が好きですし、みなさんにも試してほしいと思っています。 ただ、まじめな話、大変なので覚悟は必要です。 楽しい語学学習を!