§1 キリスト教において重要な意味を持つ概念に「聖霊」、つまり「神の霊」というものがある。「聖霊」は、イエス自身が話したアラム語では女性名詞 rūḥā で表現されていたが、後代には男性としてイメージされるようになった。アラム語の一種であるシリア語の聖書の記述の変遷を見ると、状況が一目瞭然だ。
西暦200年ごろ | 西暦400年ごろ | 西暦600年ごろ | |
---|---|---|---|
「風」 | 女性 | 女性 | 女性 |
「聖霊」 | 女性 | 女性/男性 | 男性 |
シリア語の rūḥā は本来 女性名詞で「風、霊」などの意味を持つが、「聖霊」を意味する場合に限っては、時代とともに次第に男性扱いされるようになった。
この変化は単なる文法上の問題ではなく、「神」にまつわるイメージに実質的影響を与えた。シリア学者 Sebastian Brock は、「初期シリア文学における女性としての聖霊」(1990)、「『来たれ慈母、来たれ聖霊』初期東方キリスト教の忘れられたイメージ」(1991)といった文章を書いている(後者は Fire from Heaven に収録されている)。Burkitt の『エワンゲリオン・ダ・ムファルシェ』第2巻(1904)にも、この問題への言及がある。
§2 次のような事柄が興味の対象となるだろう。
この記事では、次の切り口から、この問題を考えてみたい。
§3 ペシタにおいては、大部分の「聖霊」は女性扱いされているが、一部の「聖霊」は男性扱いされている。この不統一な扱いの理由は何か?
《女性だった「聖霊」が数百年かけてだんだん男性扱いされるようになるのだから、中間期において「女性聖霊・男性聖霊」が混在しているのは当たり前のことで、それ自体に深い意味はないだろう。いわば「過渡期の混乱」だろう。》 …そんな予想も成り立つ。
しかし、この問題はもう少し微妙なものだ。
ペシタ福音書では、5カ所において、「古いバージョンでは女性として描かれていた聖霊」が男性的イメージで描かれている。この5カ所の変化のうち少なくとも4カ所は、神学理論や西方からの文化的圧力の結果ではなく、主に「表現上の都合」によるものだと考えられる。しかも、そのうち4カ所においては、意図的ではないにしても結果的に「叙述トリック」が存在している。「聖霊」がいかにも男性的イメージで言及されているが、よく見ると、確定的に男性扱いはされていない。
以下では、オールド・シリアック(推定西暦200年)、ペシタ(推定400年)、ハルケル(616年ごろ)の3種類のバージョンのシリア語聖書のテキストを比較し、「聖霊」について、女性扱いから男性扱いへの変化というトレンドとその意味を確認した上で、ペシタにおける「女性聖霊・男性聖霊」の混在は必ずしもこのトレンドの一部ではないということを明らかにしたい。
§4 キリスト教の原型はアジア(具体的には現在のイスラエルやパレスチナ付近)で生まれ、シリア、トルコ、ギリシャ、イタリアなどに広がった。いわゆる東方(西アジア)に源流を持つ宗教だ。
§5 アラム語は、ヘブライ語・アラビア語などと同じセム語族に属し、紀元前にはシリア・イラク・イランを含む広い範囲で共通語として使われた。キリスト教の教祖として知られるイエスは、このアラム語の1方言を話した。一方、シリア語は同じアラム語の別の方言で、古代東方キリスト教徒の共通語となった言語(西方ではギリシャ語が共通語となった)。具体的に言うと、アラム語のうち、2~7世紀ごろのエデッサ方言を指す(エデッサ=現在のトルコ南東部の都市)。
なぜエデッサ方言(つまりシリア語)が台頭したのか? シリア語が書き言葉として既に確立していたこと、そのため非常に早い時期からシリア語の聖典が作られたということが、一つの理由だろう。4冊の福音書を一つにまとめたシリア語の『ディアテッサロン』は、西暦170年ごろ成立したとされる。
例えば、ブッダの教えに興味があるとすれば、マガダ語・パーリ語などの資料を調べる必要があるだろう。いくら仏教が中国経由で広まったとしても、漢訳仏典からは見えてこない部分があるからだ。同様に、イエスの思想を考えるとすれば、アラム語は無視できない要素だろう。ギリシャ語の正典をギリシャ語のロジックで検討するだけでは見えない部分があるからだ。「聖霊はもともと女性だった」という単純な事実も、その一つかもしれない。
§6 大ざっぱに4種類に分類できる。
† ʾAksnāyā はギリシャ語の ξένος に当たり、文字通りには「外国の、よそ者の」。Φιλό-ξενος は、「よそ者に親切な、客をもてなす」という意味。
§7 「ディアテッサロン」はオリジナルがギリシャ語なのかシリア語なのか結論が出ていないが、オールド・シリアック以降のシリア語版新約聖書は、ほぼ確実に(少なくとも直接的な意味においては)ギリシャ語版を訳したものだ。従って、その解釈においては、原文のギリシャ語版がどうなっているのかという点にも注目する必要がある。
§8 アラム語では「霊」は「風」と表現され、女性名詞だ。「生き=息、霊=息=風」とか「風=目に見えないが物を動かす力=霊」と解釈できるだろう。アラム語のロジックを暗示する描写の例として、「聖霊を与えるために息を吹きかける」(ヨハネ20:22)、「激しい風が吹いて聖霊が降りる」(使徒2:2–4)がある。
ヘブライ語でも「霊」 רוּחַ (rūaḥ) は本来、女性名詞だ(男性扱いされることもあるが、比較的まれ)。創世記の初めの方に「神の霊が水面の上空を漂っている」というような記述があるが、この「漂っている」は女性形の分詞で表現されている。
アラム語での語形は רוּחָא (rūḥā) で、イエス自身はこの単語を使ったのだろう。シリア語では、ܪܘܚܐ (rūḥā) と書かれる。文字システムが違うだけで、本質的な違いはない。これも本来は女性名詞だ。
「霊」は、ギリシャ語では中性名詞 πνεῦμα で表され、ラテン語では男性名詞 spīritus で表される。キリスト教はやがてヨーロッパ中心のものとなり、「聖霊=男性」が常識となった。
§9 「聖霊」は、西暦200年(推定)のオールド・シリアックでは常に女性、616年ごろのハルケル版では常に男性として扱われる。その中間にある400年(推定)のペシタでは、「引き続き女性扱いされている聖霊」が多いが、一部「女性扱いされなくなった聖霊」が存在している。
以下では、4種類の具体例を提示する。
§10 「ヨルダン川でイエスが洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のような姿で天から降りてきて、イエスの上にとどまった」という描写は、4福音書の全てに登場する。ここでは「マタイによる福音書」の第3章16節を見てみよう。
S 200年 |
ܘܰܚܙܐ ܪܘܚܐ ܕܰܐܠܳܗܐ ܕܢܶܚܬܰܬ̥ ܒܰܕܡܘܬ̥ܐ ܕܝܰܘܢܐ ܘܩܰܘܝܰܬ̥ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱ |
---|---|
そして彼は見た ―― 神の霊を ← (霊は)降りた(女性形)、鳩の姿で;そしてとどまった(女性形)、彼の上に。 | |
P 400年 |
ܘܰܚܙܐ ܪܘܚܐ ܕܰܐܠܳܗܐ ܕܢܳܚܬܐ ܐܰܝܟ ܝܰܘܢܐ܂ ܘܶܐܬ̥ܳܬ̥ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱ ܀ |
そして彼は見た ―― 神の霊を ← (霊は)降りる(女性形)、鳩のように;そして行った(女性形)、彼の上に。 | |
H 616年 |
ܘܰܚܙܐ ܠܪܘܚܐ ܕܰܐܠܳܗܐ ܕܢܳܚܶܬ̥ ܐܰܝܟ ܝܰܘܢܐ ܡܶܢ ܫܡܰܝܐ. ܘܳܐܬ̥ܶܐ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱. |
そして彼は見た ―― 神のその霊を ← (霊は)降りる(男性形)、鳩のように天から;そして行く(男性形)、彼の上に。 | |
G | καὶ εἶδεν τὸ Πνεῦμα τοῦ Θεοῦ καταβαῖνον ὡσεὶ περιστερὰν καὶ ἐρχόμενον ἐπ’ αὐτόν· |
表中の S, P, H は、それぞれオールド・シリアック(シナイ)、ペシタ、ハルケルの三つのバージョンを表し、その順序におよそ200年ずつ時代が後になる。日本語訳は、逐語的にシリア語の構造を説明するもので、矢印は関係代名詞を表す。G はギリシャ語版の対応部分を表す。
他の福音書における同じ場面の描写(マルコ1:10、ルカ3:22、ヨハネ1:32)も同様で、P までは聖霊が女性扱いされている。
ただし、マルコ1:10については、オールド・シリアック版は現存しない。P のマルコ1:10では、「降りる(女性形)」は「鳩」にかかるとも読める。
§11 この鳩のような聖霊は、イエスを砂漠へ連れていく。P では、この聖霊は引き続き女性扱いされている。
S 200年 |
ܝܶܫܘܿܥ ܕܶܝܢ ܟܰܕ ܡܠܶܐ ܒܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ ܗܦܰܟ ܡܶܢ ܝܘܿܪܕܢܳܢ ܘܰܕܒܰܪܬ̥ܶܗ[a] ܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ ܘܰܐܦܶܩܬ̥ܶܗ ܠܡܰܕܒܪܐ |
---|---|
で、イエスは、神聖の霊によって満たされて、戻った。ヨルダン(川)から。そして彼を導いた(女性形) ―― 神聖の霊は。そして彼を連れ出した(女性形)。砂漠へ。 | |
P 400年 |
ܝܶܫܘܿܥ ܕܶܝܢ܁ ܟܰܕ ܡܠܶܐ ܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ܂ ܗܦܰܟ ܡܶܢ ܝܘܿܪܕܢܳܢ. ܘܰܕܒܰܪܬ̥ܶܗ ܪܘܚܐ ܠܚܘܪܒܐ܂ |
で、イエスは、神聖の霊で満たされて、戻った。ヨルダン(川)から。そして彼を導いた(女性形) ―― 霊は。荒れ地へ。 | |
H 616年 |
ܝܶܫܘܿܥ ܕܶܝܢ ܟܰܕ ܡܠܶܐ ܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܐ܆ ܗܦܰܟ ܡܶܢ ܝܘܿܪܕܢܳܢ. ܘܡܶܬ̊ܕܒܰܪ[b] ܗ̱ܘܐ ܒܪܘܚܐ ܠܡܰܕܒܪܐ. |
で、イエスは、神聖な(男性形)霊で満たされて、戻った。ヨルダン(川)から。そして導かれていった。霊によって砂漠へ。 | |
G | Ἰησοῦς δὲ πλήρης Πνεύματος ἁγίου ὑπέστρεψεν ἀπὸ τοῦ Ἰορδάνου[*], καὶ ἤγετο ἐν τῷ Πνεύματι εἰς τὴν ἔρημον |
[a] ܕܰܒܰܪܬ̥ܶܗ Pa. とも読める。 [b] mettəḇar。ܡܶܬܕܰܒܰܪ mettabbar とも読める。 [*] α は長いらしい(p. 116)。
§12 マリアが聖霊によって身ごもる話はマタイ1:18以下にもあるが、S, C, P において、その部分では聖霊の性別が特定されていない。ルカ1:35でこれが明らかになる。「私は処女だから妊娠するはずがない」という趣旨のことを言うマリアに対して、天使がこう答えている。
P 400年 |
ܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ ܬܹܐܬ̥ܶܐ. |
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神聖の霊が、来るだろう(女性形)。 | |
H 616年 |
ܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܐ ܢܹܐܬ̥ܶܐ ܥܠܰܝܟܝ̱܆ |
神聖な(男性形)霊が、来るだろう(男性形)。貴女の上に。 | |
G | Πνεῦμα ἅγιον ἐπελεύσεται ἐπὶ σέ |
S, C ではこの部分のテキストが残っていないが、オールド・シリアックでは「聖霊」は常に女性なので、この部分も女性だったと考えられる。このことは、『フィリポによる福音書』(3~4世紀ごろ)に書かれている疑問「いまだかつて、女性が女性によって身ごもる などということが あったろうか」からも明らかだろう。
つまり、マリアを受胎させる聖霊はペシタまでは女性扱いだが、616年ごろの H では男性扱いに変わった。実は、この変化は、508年ごろの Ph で起きたとみられる。このタイミングは、5世紀の神学論争と同期している。この事情については次の章で扱う(§§15–16)。
§13 エルサレムの人シメオンの聖霊も、ペシタにおいて女性扱いされている(ルカ2:25)。ただし、後続する2:26においては、ペシタでは性別を特定しないニュートラルな表現が使われている。少数ながら、このように「オールド・シリアックでは女性扱いだったが、ペシタでは中性的になった聖霊」の事例もある(他の例は、マルコ13:11、ヨハネ20:22、Cと比べたルカ11:13)。聖霊の告げた内容はこの記事と関係ないので《中略》としてある。
S 200年 |
ܘܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܬܐ ܐܝܬ̥ ܗ̱ܘܳܬ̥ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱ 26 ܘܰܐܡܝܪ ܗ̱ܘܐ ܠܶܗ ܡܶܢ ܗܝ[c] ܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܬܐ ܕ |
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そして神聖な(女性形)霊がいるのだった(女性形)。彼の上に。26 そして言われていた、彼に。彼女(つまり)神聖な(女性形)霊から。《中略》と。 | |
P 400年 |
ܘܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ ܐܝܬ̥ ܗ̱ܘܳܬ̥ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱. 26 ܘܰܐܡܝܪ ܗ̱ܘܐ ܠܶܗ ܡܶܢ ܪܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ܉ ܕ |
そして神聖の霊がいるのだった(女性形)。彼の上に。26 そして言われていた、彼に。神聖の霊から。《中略》と。 | |
H 616年 |
ܘܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܐ ܐܝܬ̥ ܗ̱ܘܐ ܥܠܰܘܗ̱ܝ̱. 26 ܘܺܐܝܬ̥ ܗ̱ܘܐ ܠܶܗ ܓܶܠܝܳܢܐ[d] ܡܶܢ ܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܐ܆ ܕ |
そして神聖な(男性形)霊がいるのだった(男性形)。彼の上に。26 そして彼にはあった ―― 啓示が。神聖な(男性形)霊から。《中略》と。 | |
G | καὶ Πνεῦμα ἦν ἅγιον ἐπ’ αὐτόν· 26 καὶ ἦν αὐτῷ κεχρηματισμένον ὑπὸ τοῦ Πνεύματος τοῦ ἁγίου |
[c] または ܗܳܝ。 [d] 原文 の ܓܠܝܠܐ を ܓܠܝܢܐ と読んだ。
§14 以上のように、「聖霊」は通常、ペシタまでは女性扱いされていて、それより後では男性扱いに変わる。ただし、ペシタの段階で既に男性扱いされている「聖霊」も存在している。例えば:
S 200年 |
12 ܪܘܚܐ ܕܶܝܢ ܕܩܘܕܫܐ ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܗܳ⸢ܝ⸣ ⸢ܫܳܥܬ̥⸣ܐ ܡܶܕܶܡ ܕܬܹܐܡܪܘܢ |
---|---|
12 で、神聖の霊が、君たちに教えるだろう(女性形) ―― そのときに。物事を ← それを君たちは言えばいい。 | |
P 400年 |
12 ܪܘܚܐ ܓܶܝܪ ܕܩܘܕܫܐ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܗܳܝ ܫܳܥܬ̥ܐ܂ ܡܶܕܶܡ ܕܘܳܠܶܐ ܕܬܹܐܡܪܘܢ ܀܀ |
12 というのも、神聖の霊が、君たちに教えるだろう(男性形) ―― そのときに。物事を ← それを君たちが言うと適切である。 | |
H 616年 |
12 ܪܘܚܐ ܓܶܝܪ ܩܰܕܝܫܐ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܳܗ̇ ܒܫܳܥܬ̥ܐ ܗܳܢܶܝܢ ܕܙܳܕܶܩ ܠܡܹܐܡܰܪ܀ |
12 というのも、神聖な(男性形)霊が、君たちに教えるだろう(男性形) ―― そのときにおいて。事々を ← それを言うべきである。 | |
G | 12 τὸ γὰρ ἅγιον Πνεῦμα διδάξει ὑμᾶς ἐν αὐτῇ τῇ ὥρᾳ ἃ δεῖ εἰπεῖν. |
どうして一部の「聖霊」だけが先行して P で男性扱いになったのか? それがこの記事のテーマだ。
§15 5世紀半ば、キリスト教の教会は、教義上の解釈をめぐっていくつかのグループ(宗派)に割れてしまった。シリアの教会は三つに分裂した。あまり面白い話ではないが、説明上必要なので、要点を記す。
ミアフィシティズムは、「二つのものが一つになっている」という点において、「単純に一つだけ」という狭義の単性論とは区別される。アルメニア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会も、西シリアと同じ立場らしい。
西シリアは「二つの性質が一つに融合している」と考えたため、非標準とされた。東シリアは「二つの性質が緩やかに結び付いている」という解釈において、異端とされた。「二つの性質が密接に結び付いている」が標準とされたのだった。
もし科学者がこの話を聞いたら、「証明も反証もできない宗教上の問題だ。信仰は自由なので話し合って好きに決めてください」と言うかもしれない。実質的にどれもほとんど同じ意味なのに、こんなことで争って「異端」扱いが起きることについて、内心顔をしかめるかもしれない。疑似科学的表現を使うと、「イエスの人間性と神性を結び付ける結合エネルギーはどのくらいか」という問題において、西シリアモデルでは結合定数が大き過ぎ、東シリアモデルでは結合定数が小さ過ぎるとされたのだった。1994年、東シリアとバチカンは、「対立は、おおむね誤解に基づくものだった」として、一応の和解を果たしている[Vatican]。論争の本質は、「埋められない深い溝」ではなかった。
この問題は、「マリアはキリスト(救世主である人間)の母か、それとも神の母か?」という別の形式的問題とも結び付いた。イエスの「人間としての性質」が明確に分離可能なら、「マリアは人間としてのイエスを産んだ」という解釈が成り立つ。「人間としての性質」が全く(あるいは明確には)分離不可能なら、そのような解釈は成り立たず、「マリアが産んだのは人間ではない=マリアは神の母」となるだろう。
§16 400年ごろの P では古来の「女性聖霊」の多くが残っているが、616年ごろの H ではすべて「男性聖霊」に変わっている。508年ごろの Ph についてはテキストが現存しないが、引用されている断片から判断すると、「女性聖霊がマリアの上に降りる」という部分(ルカ1:35)は、Ph において「男性聖霊」に変更されているようだ[p. 203]。
400年ごろには「女性」だったのに、なぜ500年ごろには突然「男性」に変わるのか?
もちろん5世紀の神学論争と同期しているとみるべきだろう。5世紀以降の2回の聖書改訂は、いずれも東シリアではなく西シリア文化圏で行われた。従ってその背景には、上記のミアフィシティズムがあった。三位一体の教義もあるので、「イエスの性質は一つで、父なる神・聖霊と同じ。従って、聖霊を女性扱いするのは不適切」と判断されたのだろう。
「マリアは女性聖霊によって身ごもった」という描写は、それ自体、論争の原因になる。実際、グノーシス文献『フィリポによる福音書』(3~4世紀ごろ)には、こう書かれている[Philip 18]。「マリアは聖霊によって身ごもったと言う人がいるが、彼らはどうかしている。自分が何を言っているのか分かっていないのだ。一体いまだかつて、女性が女性によって身ごもる などということが あったろうか(=そんなこと、あるわけない)」
「聖霊」は男性だと再解釈すれば、こうした“異端的”主張をシャットアウトして、問題を一挙に解決できるように見える。
シリア語圏(特に西シリア)において5世紀ごろから「聖霊は男性」という方向に変化するのは、大筋においては、こうした背景に基づくことだろう。神学論争の直接の影響もあっただろうし、直接関係ない部分についても、おおむね西方の論理やイメージの影響を受けた結果といえるだろう。「聖霊」はギリシャ語では中性名詞なので、シリア語への翻訳者は「これをはっきり女性扱いするのは不適切ではないか」と感じたかもしれない。
§17 しかし、この大きな流れが明らかであるからといって、ペシタの「男性聖霊」も自動的に同じ文脈で解釈できるとは限らない。
ペシタは遅くとも410年代には成立していたと考えられる。従って、ペシタにおける「男性聖霊」の存在は、エフェソ(431年)・カルケドン(451年)の神学論争とは直接関係ない。「直接関係ないにしても、西方の影響だろう」というのが素直な予想かもしれないが、ペシタの状況には、そう簡単に割り切れない問題が含まれている。
§18 例えば、「尋問されたときの心配は要らない」という教えに関連して、ペシタでは「聖霊」の扱いが統一されていない。ほぼ同じ文脈の「聖霊」が、マタイ10:20では女性扱いされ、ルカ12:12では男性扱いされている(平行するマルコ13:11では、性別が特定されていない)。
S 200年 |
20 ܠܐ ܗ̱ܘܐ ܓܶܝܪ ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܡܡܰܠܠܝܢ. ܐܶܠܐ ܪܘܚܐ ܗ̱⸢ܝ⸣ ܕܰܐܒܘܟܘܿܢ ܡܡܰܠܠܐ ܒܟܘܿܢ܁ |
---|---|
20 というのも、君たちが話すのではなかった。そうではなくて、霊なのだ(女性形)、君たちの父の。君たちを使って※1話す(女性形)のは。 | |
P 400年 |
20 ܠܐ ܗ̱ܘܐ ܓܶܝܪ ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܡܡܰܠܠܝܢ܉ ܐܶܠܐ ܪܘܚܐ ܕܰܐܒܘܟܘܿܢ ܡܡܰܠܠܐ ܒܟܘܿܢ. |
20 というのも、君たちが話すのではなかった。そうではなくて、君たちの父の霊が、君たちを使って※1話す(女性形)。 | |
H 616年 |
20 ܠܘ ܓܶܝܪ ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܐܝܬ̥ܰܝܟܘܿܢ ܗܳܢܘܿܢ ܕܰܡܡܰܠܠܝܢ܆ ܐܶܠܐ ܪܘܚܐ ܕܰܐܒܘܟܘܿܢ ܗܰܘ ܕܰܡܡܰܠܶܠ ܒܟܘܿܢ. |
20 というのも、君たちであるわけじゃなかった ―― それらの話す者たちは。そうではなくて、君たちの父の霊。あの者(男性形)だ ← 君たちを使って※1話す(男性形)。 | |
G | 20 οὐ γὰρ ὑμεῖς ἐστε οἱ λαλοῦντες ἀλλὰ τὸ Πνεῦμα τοῦ πατρὸς ὑμῶν τὸ λαλοῦν ἐν ὑμῖν. |
※1 または「君たちの中で」。
S 200年 |
12 ܪܘܚܐ ܕܶܝܢ ܕܩܘܕܫܐ ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܗܳ⸢ܝ⸣ ⸢ܫܳܥܬ̥⸣ܐ ܡܶܕܶܡ ܕܬܹܐܡܪܘܢ |
---|---|
12 で、神聖の霊が、君たちに教えるだろう(女性形) ―― そのときに。物事を ← それを君たちは言えばいい。 | |
P 400年 |
12 ܪܘܚܐ ܓܶܝܪ ܕܩܘܕܫܐ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܗܳܝ ܫܳܥܬ̥ܐ܂ ܡܶܕܶܡ ܕܘܳܠܶܐ ܕܬܹܐܡܪܘܢ ܀܀ |
12 というのも、神聖の霊が、君たちに教えるだろう(男性形) ―― そのときに。物事を ← それを君たちが言うと適切である。 | |
H 616年 |
12 ܪܘܚܐ ܓܶܝܪ ܩܰܕܝܫܐ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܳܗ̇ ܒܫܳܥܬ̥ܐ ܗܳܢܶܝܢ ܕܙܳܕܶܩ ܠܡܹܐܡܰܪ܀ |
12 というのも、神聖な(男性形)霊が、君たちに教えるだろう(男性形) ―― そのときにおいて。事々を ← それを言うべきである。 | |
G | 12 τὸ γὰρ ἅγιον Πνεῦμα διδάξει ὑμᾶς ἐν αὐτῇ τῇ ὥρᾳ ἃ δεῖ εἰπεῖν. |
「何らかの教義的基準によって、ペシタでは女性聖霊・男性聖霊を使い分けている」としたら、こんなことはあり得ないはずだ。
もちろん、こじつけの説明はできる。「聖霊が君たちに教える」というルカの表現はヨハネ14:26の用語法と同じで「約束された新しい聖霊の導き」を指すが、マタイ版は「聖霊」ではなく「父の霊」の話だ…と。しかし、そのような説明は納得のいくものではないだろう。
§19 「オールド・シリアックでは女性だったがペシタ福音書では男性的になった聖霊」は5事例だが、そのうち4事例はヨハネ14~16章に集中しており、男性名詞「守護者」と女性名詞「霊」の交錯というパターンを持っている。
Sebastian Brock は、ペシタ福音書で聖霊が男性になったのは2カ所だけ(ルカ12:12、ヨハネ14:26)だと書いているが、これは文字通りの「聖霊」だけをカウントしたものだろう。下記の「真実の霊=守護者」も実質的に「聖霊」なので、それを含めて少しでも可能性がある場所をカウントすると、5カ所になる。
§20 ヨハネの4事例においては、イエスの言葉であるとして「僕はこの世を去るが、代わりに君たちに聖霊※2を送ろう」という趣旨のことが繰り返し記されている。ヨハネは、この聖霊を指して παράκλητος(そばに呼ばれた者)という独特のギリシャ語表現を使った。シリア語では ܦܰܪܰܩܠܹܝܛܐ と呼ばれる※3。便宜上「守護者」と訳しておく。
※2 厳密に言うとオールド・シリアックでは「守護者=聖霊」とは明示されていないが、本質的な違いはない。一般に、「守護者」は「聖霊」であり(ヨハネ14:25–26)、「真実の霊」だとされる(ヨハネ14:16–17)。
※3 ܦܪܩܠܛܐ などとも書かれる。
ギリシャ語でもシリア語でも「守護者」は男性名詞だが、それを「霊」と言い換えた場合、ギリシャ語では中性名詞、シリア語では(本来は)女性名詞となる。文法上の性が異なる「守護者」と「霊」が同格に置かれることによりやや複雑な状況が生じ、結果的に、ヨハネ14~16章の4カ所において、ペシタでは「聖霊」が男性扱いされたと解釈できる可能性が生じている。
§21 ヨハネ14:16で「守護者」が初登場し、後続する14:17でそれは「真実の霊」だと説明される。
S 200年 |
16 ܘܶܐܢܐ ܐܶܒܥܶܐ ⸢ܡܶܢ⸣ ܐܳܒܝ̱ ܕܰܢܫܰܕܰܪ ܠܟܘܿܢ ⸢ܐ̱ܚܪܹܢܐ⸣ ܦܰܪܰܩܠܹܝܛܐ ⸢ܕܢܶܗܘܶܐ⸣ ܥܰܡܟܘܿܢ ܠܥܳܠܰܡ. 17 ⸢ܪܘܚܐ ܕܰ⸣ܫܪܳܪܐ ܕܥܳܠܡܐ ܠܐ ܡܶܫܟܰܚ ܠܰܡܩܰܒܳܠܘܬ̥ܳܗ̇ ⸢ܠܐ ܓܶܝܪ⸣ ܚܙܳܗ̇ ܘܠܐ ⸢ܝܰܕܥܳ⸣ܗ̇ ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܕܶܝܢ ܝܳܕܥܝܢ ܐ̱ܢ̱ܬܘܿܢ ܠܳܗ̇. ⸢ܕܰ⸣ܠܘܳܬ̥ܟܘܿܢ ܥܳܡܪܐ ⸢ܘܰܠܘܳ⸣ܬ̥ܟܘܿܢ ܬܶܗܘܶܐ |
---|---|
16 そして僕は願おう、僕の父に ―― (父が)送るようにね、君たちに別の守護者を ← (守護者は)いるだろう(男性形)、君たちとともに世々。17 真実の霊 ← 世は彼女を受け取ることができない。というのも、(世は)彼女を見なかった、そして彼女を知らなかった。で、君たちはね、知っている ―― その彼女を ← 君たちのところに彼女は住んでいて、そして君たちのところに彼女はいるだろう。 | |
C 200年 |
16 ܘܶܐܢܐ ܐܶܒܥܶܐ ܡܶܢ ܐܳܒܝ̱ ܕܰܢܫܰܕܰܪ ܠܟܘܿܢ ܐ̱ܚܪܹܢܐ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ ܕܢܶܗܘܶܐ ܥܰܡܟܘܿܢ ܠܥܳܠܰܡ. 17 ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ ܗܳܝ ܕܥܳܠܡܐ ܠܐ ܡܶܫܟܰܚ ܠܰܡܩܰܒܳܠܘܬ̥ܳܗ̇ ܠܐ ܓܶܝܪ ܚܙܳܗ̇ ܘܠܐ ܝܰܕܥܳܗ̇ ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܕܶܝܢ ܝܳܕܥܝܢ ܐ̱ܢ̱ܬܘܿܢ ܠܳܗ̇. ܘܰܠܘܳܬ̥ܟܘܿܢ ܥܳܡܪܐ ܘܰܒܟܘܿܢ ܗ̱ܝ |
16 そして僕は願おう、僕の父に ―― (父が)送るようにね、君たちに別の守護者を ← (守護者は)いるだろう(男性形)、君たちとともに世々。17 真実の霊。あの者(女性形) ← 世は彼女を受け取ることができない。というのも、(世は)彼女を見なかった、そして彼女を知らなかった。で、君たちはね、知っている ―― その彼女を。そして君たちのところに彼女は住んでいて、そして君たちの中に彼女はいる。 | |
P 400年 |
16 ܘܶܐܢܐ ܐܶܒܥܶܐ ܡܶܢ ܐܳܒܝ̱܉ ܘܰܐ̱ܚܪܹܢܐ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ ܢܶܬܶܠ ܠܟܘܿܢ܇ ܕܢܶܗܘܶܐ ܥܰܡܟܘܿܢ ܠܥܳܠܰܡ. 17 ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ. ܗܰܘ ܕܥܳܠܡܐ ܠܐ ܡܶܫܟܰܚ ܠܰܡܩܰܒܳܠܘܬ̥ܶܗ. ܡܶܛܽܠ ܕܠܐ ܚܙܳܝܗ̱ܝ̱܂ ܘܠܐ ܝܰܕܥܶܗ. ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܕܶܝܢ ܝܳܕܥܝܢ ܐ̱ܢ̱ܬܘܿܢ ܠܶܗ. ܕܰܠܘܳܬ̥ܟܘܿܢ ܥܳܡܰܪ܂ ܘܰܒܟܘܿܢ ܗ̱ܘ. |
16 そして僕は願おう、僕の父に。そして別の守護者を彼は与えるだろう、君たちに ―― (守護者が)いるように(男性形)、君たちとともに世々。17 真実の霊。あの者(男性形) ← 世は彼を受け取ることができない。なぜかというと、(世は)彼を見なかった、そして彼を知らなかった。で、君たちはね、知っている ―― その彼を ← 君たちのところに住んでいて(男性形)、そして君たちの中にいる(男性形)。 | |
H 616年 |
16 ܘܶܐܢܐ ܐܰܦ̊ܝܣ ܠܰܐܒܐ܆ ܘܰܐ̱ܚܪܹܢܐ ܦܰܐܪܰܐܩܠܹܝܛܐ ܢܶܬܶܠ ܠܟܘܿܢ܇ ܐܰܝܟܰܢܐ ܕܰܢܩܰܘܶܐ ܥܰܡܟܘܿܢ ܠܥܳܠܰܡ. 17 ܗܰܘ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ. ܠܗܰܘ ܕܥܳܠܡܐ ܠܐ ܡܨܶܐ ܠܡܶܣܰܒ. ܡܶܛܽܠ ܕܠܐ ܚܳܙܶܐ ܠܶܗ ܘܠܐ ܝܳܕܰܥ ܠܶܗ. ܐܰܢ̱ܬܘܿܢ ܕܶܝܢ ܝܳܕܥܝܢ ܐ̱ܢ̱ܬܘܿܢ ܠܶܗ܆ ܡܶܛܽܠ ܕܰܠܘܳܬ̥ܟܘܿܢ ܡܩܰܘܶܐ ܘܰܒܟܘܿܢ ܢܶܗܘܶܐ. |
16 そして僕は説得しよう、その父を。そして別の守護者を彼は与えるだろう、君たちに ―― (守護者が)君たちとともに世々とどまる(男性形)ようにして。17 あの(男性形)真実の霊。あの者(男性形) ← それを世は受け取ることができない。なぜかというと、(世は)その彼を見ない、そしてその彼を知らない。で、君たちはね、知っている ―― その彼を。なぜかというと、君たちのところに彼はとどまっている、そして君たちの中に彼はいるだろう。 | |
G | 16 καὶ ἐγὼ ἐρωτήσω τὸν πατέρα καὶ ἄλλον παράκλητον δώσει ὑμῖν, ἵνα μένει [μένῃ] μεθ’ ὑμῶν εἰς τὸν αἰῶνα, 17 τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείᾱς, ὃ ὁ κόσμος οὐ δύναται λαβεῖν, ὅτι οὐ θεωρεῖ αὐτὸ οὐδὲ γινώσκει αὐτὸ· ὑμεῖς δὲ γινώσκετε αὐτό, ὅτι παρ’ ὑμῖν μένει καὶ ἐν ὑμῖν ἔσται. |
§22 問題になる部分について、ギリシャ語版の構造は次の通り。ただし、《男性》と《女性》はシリア語における文法上の性であり、ギリシャ語ではそれぞれ《男性》と《中性》に当たる。
この構造から明らかなように、もしギリシャ語からシリア語に正確に翻訳すると、「永遠にとどまる」という部分については「《彼が》とどまる」となる。一方、「守護者」を「霊」と言い換えてからは、それを《彼女》と呼ぶ必要がある。オールド・シリアックでは、まさにそのように表現されている。特に C では「あの者《女性》」が挿入され、これによって、「真実の霊」が(単に「守護者」と同格の補足説明ではなく)「世は」以下の話の主題であることが、明確になっている。 ―― これらは正確な翻訳ではあるが、結果的に、「実質的に同じ対象(守護者=真実の霊)がいったん男性扱いされ次に女性扱いされる」という微妙なぎこちなさが生じている。
§23 ペシタではこの問題が回避され、「守護者」の男性イメージで全体が統一されている。それを実現するために、ペシタでは、次のように ܗܰܘ 「あの者《男性》」が挿入され、「真実の霊」の話をする代わりに「あの者《男性》」の話をしている。
「あの者《男性》」は直前の「真実の霊」を受ける、とも解釈できる。その場合、ここ以下において「真実の霊」が男性扱いされていることになる。しかし、「あの者《男性》」はその一つ前の「守護者」を受ける、とも解釈できる。その場合、「真実の霊」が男性扱いされたことにはならない。どちらの解釈が適切かというのは、この1例からは結論できない。ヨハネには、似た記述が4例あるので、全例を検討してから再びこの問題を考えることにしよう。
§24 一方、ハルケルでは、「真実の霊」の前に形容詞的に ܗܰܘ 「あの《男性》」が置かれ、疑問の余地なく「聖霊」が男性扱いされている。
§25 ところで、S の表現の一部は「彼女」とも「彼」とも解釈できる。例えば、ܝܕܥܗ は P のように ܝܰܕܥܶܗ「彼を知った」と読むこともでき、それだけでは ܝܰܕܥܳܗ̇「彼女を知った」である保証がない。しかし、並列されている ܚܙܗ は ܚܙܳܗ̇「彼女を見た」と読むしかない。ܥܡܪܐ と ܬܗܘܐ も明らかに女性形だ。ܝܕܥܗ のようなケースについても、C では女性語尾を表すドットが付いている[p. 508脚注17]。従って、オールド・シリアックで「真実の霊」が女性扱いされていることについては、疑問の余地がない。
§26 14:26で、再び「守護者」と「霊」が同格に置かれる。
S 200年 |
26 ܗܝ ܪܘܚܐ ܕܶܝܢ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ ܕܰܢܫܰܕܰܪ ܠܟܘܿܢ ܐܳܒܝ̱ ܒܫܶܡܝ̱ ܗܝ ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ ܟܘܠ ܡܶܕܶܡ. ܗܝ ܬܰܥܗܶܕܟܘܿܢ ܟܘܠ ܡܐ ܕܳܐܡܰܪ ܐ̱ܢܐ. |
---|---|
26 で、彼女。霊。守護者 ← 僕の父が僕の名で君たちに送るであろう。彼女がね、君たちに教えるだろう(女性形) ―― 全てのことを。彼女がね、君たちに思い出させるだろう(女性形) ―― 僕が言う全てのことを。 | |
C 200年 |
ܐܳܒܝ̱ ܒܫܶܡܝ̱. ܗܝ ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ ܟܘܠ ܡܶܕܶܡ ܕܳܐܡܰܪܢܐ ܠܟܘܿܢ. |
(一部テキスト欠落)僕の父が僕の名で[送る者]。彼女がね、君たちに教えるだろう(女性形) ―― 僕が君たちに言う全ての事柄を。 | |
P 400年 |
26 ܗܘ ܕܶܝܢ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ ܕܘܚܐ ܕܩܘܕܫܐ: ܗܰܘ ܕܰܡܫܰܕܰܪ ܐܳܒܝ̱ ܒܫܶܡܝ̱܉ ܗܘ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܟܽܠܡܶܕܶܡ. ܘܗܘ ܢܰܥ̱ܗܶܕܟܘܿܢ܂[e] ܟܽܠ ܡܐ ܕܳܐܡܰܪ ܐ̱ܢܐ ܠܟܘܿܢ. |
26 で、彼。守護者。神聖の霊。あの者(男性形) ← 僕の父が僕の名で送る。彼がね、君たちに教えるだろう(男性形) ―― 全てのことを。そして彼がね、君たちに思い出させるだろう(男性形) ―― 僕が君たちに言う全てのことを。 | |
H 616年 |
26 ܗܘ ܕܶܝܢ ܦܰܐܪܰܐܩܠܹܝܛܐ ܪܘܚܐ ܗܰܘ ܩܰܕܝܫܐ. ܗܰܘ ܕܰܢܫܰܕܰܪ ܐܰܒܐ ܒܰܫܡܐ ܕܝܠܝ̱܆ ܗܘ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܟܽܠܗܶܝܢ. ܘܢܰܥ̱ܗܶܕܟܘܿܢ[e] ܟܽܠܗܶܝܢ ܗܳܠܶܝܢ ܕܶܐܢ ܐܳܡܰܪ[f] ܠܟܘܿܢ܀ |
26 で、彼。守護者。あの(男性形)霊 ―― 神聖な(男性形)。あの者(男性形) ← 父がこの僕の名で送るであろう。彼がね、君たちに教えるだろう(男性形) ―― 全ての事々を。そして君たちに彼は思い出させるだろう ―― 何であれ(僕が)君たちに言う[f]それら全ての事々を。 | |
G | 26 ὁ δὲ παράκλητος, τὸ Πνεῦμα τὸ ἅγιον ὃ πέμψει ὁ πατὴρ ἐν τῷ ὀνόματί μου, ἐκεῖνος ὑμᾶς διδάξει πάντα καὶ ὑπομνήσει ὑμᾶς πάντα ἃ εἶπον ὑμῖν. |
[e] 西方言では、naʕheḏḵṓn の ʕ が脱落(Nöldeke, §37)。ニューヨーク版ペシタでは nʕaheḏḵṓn。 [f] ページの余白には ܐܶܡܪܶܬ̥「言った」とある(ギリシャ語の直訳に当たる)。
§27 ギリシャ語に準拠した場合のシリア語の構造は次の通り。
§28 ペシタでは、前項同様、「あの者」を挿入することにより全体を男性イメージで統一している。「あの者」は直前の「聖霊」を受けるとも解釈できるが、「聖霊」の女性イメージを断ち切るための表現とも解釈できる。
§29 対照的に、オールド・シリアックでは全体を女性イメージで統一している。それを実現するために、「守護者」と「霊」の順序が変更され、全体が「霊」の話となっている。さらに、「守護者」の直後で「あの者《女性》」を挿入し、「守護者」の男性イメージを断ち切っている。
ギリシャ語原文と比べて実質的な意味の違いはほとんどないものの、かなり大きな構造の変更だ。「語順を入れ替え、原文にない代名詞を挿入してでも、全体を女性イメージで統一しよう」という明確な意図が感じられる。
§30 これらの処理の結果、オールド・シリアック、ペシタのいずれにおいても、前記14:17のイメージ(女性または男性)が継続し、より広い範囲においてイメージの統一が図られている。
§31 15:26で再び「守護者=真実の霊」の話になる。
S 200年 |
26 ܡܐ ܕܶܝܢ ܕܶܐܬ̥ܐ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ ܕܰܡܫܰܕܰܪܢܐ ܠܟܘܿܢ ܡܶܢ ܠܘܳܬ̥ ܐܳܒܝ̱ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ ܕܡܶܢ ܩܕܳܡ ܐܳܒܝ̱ ܢܳܦܩܐ ܗܘ[g] ܢܰܣܗܶܕ[h] ܥܠܰܝ |
---|---|
26 で、来た(男性形)ときにはね ―― 守護者が ← (守護者を)僕は送る、君たちに、僕の父のところから。真実の霊 ← 僕の父の前から、彼女は出て来る。— 彼はね、証拠をもたらすだろう(男性形)。僕に関して。 | |
P 400年 |
26 ܡܐ ܕܶܝܢ ܕܶܐܬ̥ܐ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ: ܗܰܘ ܕܶܐܢܐ ܡܫܰܕܰܪ ܐ̱ܢܐ ܠܟܘܿܢ ܡܶܢ ܠܘܳܬ̥ ܐܳܒܝ̱܂ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ: ܗܰܘ ܕܡܶܢ ܠܘܳܬ̥ ܐܳܒܝ̱ ܢܳܦܶܩ܉ ܗܘ ܢܰܣܗܶܕ ܥܠܰܝ. |
26 で、来た(男性形)ときにはね ―― 守護者が。(つまり)あの者(男性形)が ← (彼を)この僕は送る、君たちに、僕の父のところから。真実の霊。あの者(男性形) ← 僕の父のところから、彼は出て来る。— 彼はね、証拠をもたらすだろう(男性形)。僕に関して。 | |
H 616年 |
26 ܐܶܡܰܬ̥ܝ̱ ܕܶܝܢ ܕܢܹܐܬ̥ܶܐ ܦܰܐܪܰܐܩܠܹܝܛܐ܆ ܗܰܘ ܕܶܐܢܐ ܐܶܫܰܕܰܪ ܠܟܘܿܢ ܡܶܢ ܐܰܒܐ܆ ܗܰܘ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ܆ ܗܰܘ ܕܡܶܢ ܐܰܒܐ ܢܳܦܶܩ܆ ܗܰܘ ܢܰܣܗܶܕ[h] ܡܶܛܽܠܳܬ̥ܝ̱. |
26 で、来るであろう(男性形)そのときにはね ―― 守護者が。(つまり)あの者(男性形)が ← (彼を)この僕は送るだろう、君たちに父(のところ)から。あの(男性形)真実の霊。あの者(男性形) ← 父(のところ)から彼は出て来る。— あの者(男性形)は、証拠をもたらすだろう(男性形)。僕のために。 | |
G | 26 ὅταν δὲ ἔλθῃ ὁ παράκλητος ὃν ἐγὼ πέμψω ὑμῖν παρὰ τοῦ πατρός, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείᾱς, ὃ παρὰ τοῦ πατρὸς ἐκπορεύεται, ἐκεῖνος μαρτυρήσει περὶ ἐμοῦ· |
[g] または ܗܰܘ。 [h] Peal ܢܶܣܗܰܕ または Pael ܢܣܰܗܶܕ とも読める(「証言するだろう」)。ペシタでは Aphel ܢܰܣܗܶܕ。Otto Klein は全部 Aphel としている。
§32 ギリシャ語に対応する構造は次の通り。
オールド・シリアックでは、ほぼこの通りに、表現されている。その結果、14:16–17と同様、「守護者=彼」と「霊=彼女」が並列され、若干ぎこちない。
§33 理論上、オールド・シリアックでは全体を女性イメージで統一することもできたはずだ。つまり、14:26のように「守護者」と「霊」を入れ替えて「守護者」の後ろに「あの者《女性》」を挿入すれば、「守護者」が男性であることを隠すこともできただろう。なぜそうしなかったのか?
14:26の場合、ギリシャ語では「守護者、つまり父が送るであろう聖霊だが、彼が」となっていて、S では「霊、つまり父が送るであろう守護者だが、彼女が」となっている。これは実質的に、ὁ δὲ παράκλητος, τὸ Πνεῦμα を τὸ δὲ Πνεῦμα, ὁ παράκλητος と読み替えることに相当し、隣り合っている「守護者」と「霊」のスワップに当たる。一方、15:26の場合、同じことをやるとしたら、ずいぶん離れている「守護者」と「霊」を入れ替えることになる。翻訳上、同格で連続する2語を反転させるくらいは許容範囲でも、通常、何語も離れている単語を入れ替えることはしないだろう。
§34 ペシタでは、これまで同様「あの者《男性》」を挿入することで、全体を男性イメージに統一している。
§35 最後に、16:13–15で「彼(守護者)が来たとき」の話が比較的長く続く。オールド・シリアックとペシタの間で、「彼・彼女」の対立が最も鮮明な部分だ。
S 200年 |
13 ܡܐ ܕܶܐܬ̥ܳܬ̥ ܕܶܝܢ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ ܗܝ ܬܕܰܒܰܪܟܘܿܢ ܒܟܽܠܶܗ ܫܪܳܪܐ. ܡܶܛܽܠ ܕܠܐ ܬܡܰܠܶܠ ܡܶܢ ܪܶܥܝܳܢ ܢܰܦܫܳܗ̇ ܐܶܠܐ ܟܘܠ ܕܬܶܫܡܰܥ ܗܰܘ ܬܹܐܡܰܪ ܘܥܰܠ ܟܽܠ ܡܐ ܕܳܐܬ̥ܶܐ ܬܣܰܒܰܪܟܘܿܢ 14 ܘܗܝ ܬܫܰܒܚܰܢܝ̱ ܡܶܛܽܠ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܬܶܣܰܒ ܗܝ ܘܰܬܣܰܒܰܪܟܘܿܢ 15 ܕܡܶܕܶܡ ܕܺܐܝܬ̥ ܠܳܐܒܝ̱ ܕܝܠܝ̱ ܗ̱ܘ ܡܶܛܽܠ ܗܳܢܐ ܐܶܡܪܶܬ̥ ܠܟܘܿܢ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܬܶܣܰ⸢ܒ⸣ ܘܰܬܣܰܒܰܪܟܘܿܢ |
---|---|
13 で、来た(女性形)ときにはね ―― 真実の霊が。彼女はね、君たちを導くだろう(女性形)。全ての真実の中へ。なぜかというと、彼女は話さないだろう、彼女自身の考えからは(=自分勝手には)。そうではなくて、彼女が聞くであろう全てのこと、それを彼女は言うだろう。そして来たる(=将来の)全てについて、君たちに彼女は告げるだろう。14 そして彼女はね、僕に栄光をもたらすだろう(女性形)。なぜかというと、僕のものから取るだろう(女性形)、彼女はね。そして君たちに彼女は告げるだろう。15 僕の父にある(=父に属する)物事は、僕のものだ、と。このため、僕は言った、君たちに。「僕のものから取るだろう(女性形)。そして君たちに彼女は告げるだろう」と。 | |
P 400年 |
13 ܡܐ ܕܶܐܬ̥ܐ ܕܶܝܢ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ܉ ܗܘ ܢܕܰܒܰܪܟܘܿܢ ܒܟܽܠܶܗ ܫܪܳܪܐ. ܠܐ ܓܶܝܪ ܢܡܰܠܶܠ ܡܶܢ ܪܶܥܝܳܢ ܢܰܦܫܶܗ. ܐܶܠܐ ܟܽܠ ܕܢܶܫܡܰܥ ܗܰܘ ܢܡܰܠܶܠ. ܘܰܥܬ̥ܝ̈ܕܳܬ̥ܳܐ ܢܰܘܕܰܥܟܘܿܢ. 14 ܘܗܘ ܢܫܰܒܚܰܢܝ̱ ܡܶܛܽܠ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܢܶܣܰܒ܂ ܘܰܢܚܰܘܶܝܟܘܿܢ. 15 ܟܽܠ ܡܶܕܶܡ ܕܺܐܝܬ̥ ܠܳܐܒܝ̱܂ ܕܝܠܝ̱ ܗ̱ܘ. ܡܶܛܽܠ ܗܳܢܐ ܐܶܡܪܶܬ̥ ܠܟܘܿܢ܉ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܢܶܣܰܒ܂ ܘܰܢܚܰܘܶܝܟܘܿܢ ܀ |
13 で、来た(男性形)ときにはね ―― 真実の霊が。彼はね、君たちを導くだろう(男性形)。全ての真実の中へ。というのも、彼は話さないだろう、彼自身の考えからは(=自分勝手には)。そうではなくて、彼が聞くであろう全てのこと、それを彼は話すだろう。そして未来の事々を、君たちに彼は知らせるだろう。14 そして彼はね、僕に栄光をもたらすだろう(男性形)。なぜかというと、僕のものから彼は取るだろう、そして君たちに彼は示すだろう。15 僕の父にある(=父に属する)全ての物事は、僕のものだ。このため、僕は言った、君たちに。「僕のものから彼は取るだろう、そして君たちに彼は示すだろう」と。 | |
H 616年 |
13 ܐܶܡܰܬ̥ܝ̱ ܕܶܝܢ ܕܢܹܐܬ̥ܶܐ ܗܰܘ܇ ܗܰܘ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ܆ ܢܗܰܕܶܝܟܘܿܢ ܒܟܽܠܶܗ ܫܪܳܪܐ. ܠܐ ܓܶܝܪ ܢܡܰܠܶܠ ܗܘ ܡܶܢܶܗ܆ ܐܶܠܐ ܟܽܠܗܶܝܢ ܕܶܐܢ ܢܶܫܡܰܥ ܢܡܰܠܶܠ. ܘܗܳܢܶܝܢ ܕܳܐܬ̥ܝ̈ܳܢ. ܢܰܘܕܰܥ ܠܟܘܿܢ. 14 ܗܰܘ ܠܝ ܢܫܰܒܰܚ. ܡܶܛܽܠ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܢܶܣܰܒ ܘܡܰܘܕܰܥ ܠܟܘܿܢ܀ 15 ܟܽܠܗܶܝܢ ܗܳܠܶܝܢ ܕܺܐܝܬ̥ ܠܰܐܒܐ ܕܝܠܝ̱ ܐܝܬ̥ܰܝܗܶܝܢ. ܡܶܛܽܠ ܗܳܕܶܐ ܐܶܡܪܶܬ̥ ܠܟܘܿܢ܇ ܕܡܶܢ ܕܝܠܝ̱ ܢܳܣܶܒ[i] ܘܡܰܘܕܰܥ ܠܟܘܿܢ܀ |
13 で、来るであろう(男性形)そのときにはね ―― あの者(男性形)が。あの(男性形)真実の霊。君たちを彼は導くだろう。全ての真実の中へ。というのも、話さないだろう(男性形)、彼はね ―― 彼からは(=自分勝手には)。そうではなくて、何であれ彼が聞くであろう全ての事々を、彼は話すだろう。そして来たる(=将来の)あれこれを、彼は知らせるだろう、君たちに。14 あの者(男性形)は、僕に栄光をもたらすだろう(男性形)。なぜかというと、僕のものから彼は取るだろう、そして彼は知らせる、君たちに。15 父にある(=父に属する)これら全ての事々は、僕のものなのだ。このことのため、僕は言った、君たちに。「僕のものから彼は取る[i]、そして彼は知らせる、君たちに」と。 | |
G | 13 ὅταν δὲ ἔλθῃ ἐκεῖνος, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείᾱς, ὁδηγήσει ὑμᾶς εἰς πάσαν [πᾶσαν] τὴν ἀλήθειᾰν· οὐ γὰρ λαλήσει ἀφ’ ἑαυτοῦ, ἀλλ’ ὅσα ἂν ἀκούσει λαλήσει, καὶ τὰ ἐρχόμενα ἀναγγελεῖ ὑμῖν. 14 ἐκεῖνος ἐμὲ δοξάσει, ὅτι ἐκ τοῦ ἐμοῦ λήψεται καὶ ἀναγγελεῖ ὑμῖν. 15 πάντα ὅσα ἔχει ὁ πατὴρ ἐμά ἐστι· διὰ τοῦτο εἶπον ὅτι ἐκ τοῦ ἐμοῦ λήψεται καὶ ἀναγγελεῖ ὑμῖν. |
[i] ここは未来形ではなく現在形(分詞)になっているようだ。2個目の λήψεται を λαμβάνει と読んでいるらしい。ハルケル版のラテン語訳では、どちらも未来形になっている。
§36 16:13から読み始めると、P では「真実の霊」が男性扱いされているように見える。しかし、ギリシャ語版では、この部分の主語は一貫して ἐκεῖνος(彼=守護者)であり、 τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας(真実の霊)は挿入句にすぎない。16:7で「僕が行かなければ守護者は来ない。僕が行けば僕は彼を送る」と言い、続いて16:8で「やって来ると彼は…」と言い、その流れで16:13では「彼が来たときには…」と言っている。そこに挿入句が入って「彼、つまり真実の霊だが、彼が来たときには」となっている。
この部分に関して、ペシタ以降は、単にギリシャ語原文をそのまま素直に訳したものだ。一方、オールド・シリアックは比較的自由度の高い翻訳であり、原文では繰り返し「彼」という表現が使われているにもかかわらず、訳文は「真実の霊=彼女」の話となっている。シリア語としての流れが重視されたのだろう。その結果、オールド・シリアックとペシタを比べると、「彼女」から「彼」へ大規模な改訂が行われたように見える。
ギリシャ語原文の側にも若干ぎこちない点がある。具体的に、ギリシャ語版では、主語「守護者」が明示されずに単に「彼」と呼ばれる一方、「守護者」と同格の「真実の霊」は挿入句として明示されている。結果として、「彼」の話なのに目に見える主語は「真実の霊」だ。シリア語側で考えると、「真実の霊」は女性名詞なので、それを生かすなら「彼女」の話に変更する必要がある(オールド・シリアックではそうなっている)。逆にギリシャ語原文の言い回しを生かすなら、シリア語では本来女性である「真実の霊」を男性形と並べる必要がある(ペシタではそうなっている)。どちらにしても、多少の無理が生じる。
§37 ヨハネ4事例においては、確かにオールド・シリアックで女性的だったものがペシタで女性扱いされなくなっている。しかし、これらの事例においては、神学的な意図によって「聖霊」が男性扱いされたとは言い切れない。その根拠として、次の三つの論点が挙げられる。
論点1: 代名詞の不統一を解消することは翻訳の問題であり、神学の問題ではない。
原文では「守護者」と「真実の霊」は実質的に同じ対象だが、そのまま素直にシリア語に訳すと、前者は「彼」、後者は「彼女」になる。そのようにすることは、翻訳としては正確でも、普通の読者の観点から見てぎこちない。
オールド・シリアックでは、これを「彼女」に統一することで、不自然さをなくそうとしている。その目的のため、場合によっては、かなり自由度の高い翻訳上の選択を行っている。語順変更(14:26)や、原文が「彼」なのに「彼女」で通す処理(16:13以下)だ。それでも、許容される翻訳の自由度には一定の限界があり、完全には「女性イメージ」に統一されていない。
一方、ペシタでは代名詞を「彼」に統一することにより、この問題が回避されている。基本的に、全体は「守護者」の話としてまとめられ、「真実の霊」は単に「守護者」の別名として言及されている。このアプローチなら、翻訳の忠実性もあまり犠牲にならない。「真実の霊」が女性であることに触れないようにするだけでいい。結果として、ペシタでは全体が「男性イメージ」で完全統一されている。
要するに、ペシタで行われている処理、つまり「霊」の女性扱いを回避することは、神学的な理由を持ち出すまでもなく「翻訳上の工夫」として合理的に説明できる。
特に、ヨハネ16:13以下は本来が男性形であり、オールド・シリアックの女性扱いの方が変則的だ(§36)。ペシタでは、積極的に男性扱いしているというより、オールド・シリアックの変則的な取り扱いを中止したにすぎない。
論点2: 神学的に説明しようとすると、矛盾が生じる。
神学的な理由により男性扱いしたのだとしたら、イエス自身の聖霊やマリアを妊娠させる聖霊が真っ先に男性扱いされそうなものだが、そうはなっていない。
神学的には説明しにくい事例が、複数存在する(§18, §45)。
論点3: ペシタ以前は「霊=女性」が常識。それに反する言葉遣いには抵抗があったはず。
ヨハネ4事例において、ペシタでは、確かに「霊」が女性であるという表現は回避されているが、一方、「霊」が男性であると断定できる表現も使われていない。ハルケル版が「聖霊」を露骨に男性扱いするのと対照的に、ペシタではどっちつかずの表現に終始している。ペシタの翻訳者は、「彼」と「彼女」の不統一を解消したかっただけで、積極的に「霊」を男性扱いしたかったわけではないようだ。
「霊」を「彼女」と呼ぶのを控えることと、「霊」を「彼」と呼ぶことは意味が異なる。ハルケルの態度は後者だが、ヨハネ4事例において、ペシタの態度は前者だ。
§38 Sebastian Brock は「ペシタのヨハネ14:26では聖霊が男性化した」としているが、本当にそう言い切れるのだろうか? オールド・シリアックの
において、 ܗܳܝ が直後にあるからという理由で ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ が女性扱いされたと主張する人はいないだろう。当然、 ܗܳܝ は前半の ܗܝ ܪܘܚܐ を受けている、と考える。それではなぜ、ペシタにおいて、
の ܗܰܘ 一つによって ܕܘܚܐ が男性扱いされたことになるのか? ܗܰܘ は前半の ܗܘ ܦܰܪܰܩܠܹܛܐ を受けている、と考えることも十分に可能であり、むしろその方が自然ではないか?
「聖霊が女性から男性に変わる」ことは重要な歴史的事実だが、その事実を重視するあまり「ヨハネ4事例もそうだ」と最初から決めてかかることは適切ではない。Brock は知識が豊富なあまり、つい先読みし過ぎているのではないだろうか…。
§39 ペシタ福音書の「男性的聖霊」5事例のうち、唯一説明困難なのは、「ルカ12:12の聖霊がなぜ男性扱いなのか」という点だ。
§40 一応、指摘できる事柄はある。シリア語で「霊(心)において出る」は「弁解しようとする、謝罪する」などの意味の慣用句だが(Nöldeke, §243)、それが直前の12:11で使われているのだ。
P 400年 |
ܠܐ ܬܹܐܨܦܘܢ ܐܰܝܟܰܢܐ ܬܶܦ̊ܩܘܢ ܪܘܚܐ܂ ܐܰܘ ܡܳܢܐ ܬܹܐܡܪܘܢ. 12 ܪܘܚܐ ܓܶܝܪ ܕܩܘܕܫܐ ܢܰܠܶܦܟܘܿܢ ܒܗܳܝ ܫܳܥܬ̥ܐ܂ ܡܶܕܶܡ ܕܘܳܠܶܐ ܕܬܹܐܡܪܘܢ ܀܀ |
---|---|
君たちは心配しないでいい。どのように心において出ればいいか(=弁解すればいいか)と。あるいは、何を言えばいいかと。12 というのも、神聖の霊が、君たちに教えるだろう(男性形) ―― そのときに。物事を ← それを君たちが言うと適切である。 | |
G | μὴ μεριμνᾶτε πῶς ἢ τί ἀπολογήσησθε ἢ τί εἴπητε· 12 τὸ γὰρ ἅγιον Πνεῦμα διδάξει ὑμᾶς ἐν αὐτῇ τῇ ὥρᾳ ἃ δεῖ εἰπεῖν. |
つまり同じ「霊」という単語が、短い間隔で2回繰り返されている。このような文脈が、何らかの影響を及ぼした可能性はないか?
二つ目の「霊」と一つ目の「霊」が同じ対象を指すと受け取られ、「(君たちの)心が教える(から心配は要らない)」と解釈されると、意味が正しく伝わらない。一つ目の「霊=君たちの心」は不安や混乱を感じる主体そのもので、この「霊」は、「聖霊」とは関係ないシリア語の慣用句にすぎない。一方、二つ目の「霊」は、「聖霊」を表している。この場合、「霊・心」を表す従来の女性名詞(一つ目の「霊」)と対比的に、「(君たちの心とは別の)彼が教える」とすれば、言いたいことが鮮烈に伝わる。
ܬܶܦ̊ܩܘܢ や ܬܹܐܡܪܘܢ から ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ になると、接頭辞が t-, t-, t- なので「主語が変わった印象が弱い」ということもあるかもしれない。接頭辞が t-, t-, n- なら、主語が変わったことが鮮明になる。
もっとも、これらは、こじつけの説明だ。なぜ ܬܰܠܶܦܟܘܿܢ と言わないのか、明確な説明はできない。神学論争より前のおおらかなペシタ福音書でも、この1カ所だけは、西方の「聖霊=男性」イメージが忍び込んでいるのかもしれない。
ルカ12:12については、「孤立的な事例」としておくのが穏当だろう(5事例のうち、この1事例を除く4事例については、神学とは別の説明が成り立つ)。
§41 「ペシタ福音書における女性聖霊・男性聖霊の混在」は、一見すると西方の神学の影響の結果のようだが、実際にはそうとも言い切れない。恐らく、神学とは関係ない内部的な理由でこうなっているだけで、見掛け上、それがたまたま大きな変化の方向性と一致しているにすぎない。ルカ12:12に関しては西方の影響である可能性があるものの、ヨハネ4事例に関しては「聖霊が男性扱いされている」という前提自体が、あやふやだ。
§42 「もともと女性だった聖霊が、男性扱いされるようになる」というのは文化人類学の観点では重大なイベントだが、その重大さに心を奪われると、言語レベルの意図せぬ「叙述トリック」に足をすくわれる危険がある。
「トリック」の本質は、「文法上の性が異なる二つの名詞が同格に置かれている場合、その後ろの述語は二つの名詞のどちらに対応するか曖昧だ」という点にある。
ギリシャ語版でも、ヨハネ16:13において、この「トリック」が表面化している。ある人々はこれに引っ掛かって(あるいは意図的にこれを利用して)、「ὅταν δὲ ἔλθῃ ἐκεῖνος, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὁδηγήσει の ἐκεῖνος は Πνεῦμα を指す(そして Πνεῦμα が男性扱いされている)」と主張しているが、その解釈はギリシャ語としてあり得ない。
「真実の霊」を本当に男性扱いしたいのなら、ヨハネは *ὁ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας と書くこともできた。しかし、いくらコイネーが崩れているといっても、それは非常識だろう。宗教的観念が重要だからといって、そのために言語の文法を無視することは通常考えにくい。
§43 一方、その「常識的にはあり得ないこと」を実行したのがハルケル版の特異性であり、シリア語の ܗܰܘ ܪܘܚܐ ܕܰܫܪܳܪܐ は、ギリシャ語で言えばまさにそういうことだ。この「異常性」はハルケル版特有の問題ではなく、ピロクセノス版から継承されており、古典末期シリアにおける神学の方向性を暗示している。そして次の苦い結論を示唆している。すなわち、西方からの文化的圧力(言い換えれば異端視されることへの不安)は、間接的にシリア語自体の文法をねじ曲げるほど強烈だった、と言えるのではないか…。
「本来のシリア語の言葉遣いは、異端であるどころかイエス自身の言葉遣いと一致している」ということを思うとき、この観察はほろ苦い。
しかし、そのほろ苦さに酔って「ペシタにおける変化もこの大きな流れの一部だ」と無意識に仮定してはならない。そのような解釈は、間違った前提に基づく不正確な議論につながる。
§44 最後に、次のことを強調する必要があるだろう。
「神の霊」が男性か女性かというのは、本質的に意味のない問いだ。「神の霊は黒人か白人か?」とか「神の霊の血液型は何か?」というようなものだ。「霊」に遺伝子があって表現型があるというのなら話は別だが、そういうものでもないだろう。
定義上、神は完全であり、厳しさを持つと同時に限りない慈しみを持ち、愛と美を兼ね備える…とされる。その前提からすると、「神」に関して、伝統的な意味で「女性的」と表現されるような面が全く無いと主張するのは不当だろう。逆に「女性聖霊」をことさら強調することも、的外れだろう。老子の言葉を借りれば「大制不割」だ。
イエス自身のアラム語では「聖霊」は女性名詞であり、キリスト教の正典であるギリシャ語においては「聖霊」は中性名詞だが、後代の神学者はそれを男性扱いすることを選択した。そのこと自体は本質的な問題ではない。問題は、そのことが潜在的な罪悪感・喪失感と結び付く可能性だ。
もしかすると、そうした「潜在的罪悪感」や「喪失感への反動」が心理的妨げとなって、ペシタをストレートに見ることが難しくなっているのかもしれない。
§45 仮にペシタの女性聖霊・男性聖霊を教義論的に解釈するとしたら、旧約以来の「神話的」聖霊が女性、イエスが約束した「新しい」聖霊(「別の」守護者)が男性…という解釈が考えられる。この解釈を使うと、「マリアやイエスが授かった聖霊が女性である一方、ヨハネが記述した聖霊が男性である」という点をうまく説明できるようにも見える。
しかし、この解釈では、ヨハネ7:39の「聖霊」がペシタにおいて女性である理由を説明できない。これは「まだ与えられていなかった新しい聖霊」についての記述なので、上記の解釈が正しいなら男性扱いされるはずだが、そうなっていない。
S 200年 |
ܥܕܰܡܐ ܓܶܝܪ ܠܗܰܘ ܙܰܒܢܐ ܠܐ ܐܶܬ̥ܝܰܗܒܰܬ̥ ܗ̱ܘܳܬ̥ ܪܘܚܐ ܡܶܛܽܠ ܕܠܐ ܩܰܒܶܠ ܗ̱ܘܐ ܝܶܫܘܿܥ ܫܘܒܚܶܗ |
---|---|
というのも、かのときまでは、与えられて(女性形)いなかった(女性形) ―― 霊は。なぜかというと、受けていなかった ―― イエスは。彼の栄光を。 | |
P 400年 |
ܠܐ ܓܶܝܪ ܥܕܰܟܹܝܠ ܐܶܬ̥ܝܰܗܒܰܬ̥ ܗ̱ܘܳܬ̥ ܪܘܚܐ܉ ܡܶܛܽܠ ܕܠܐ ܥܕܰܟܹܝܠ ܐܶܫܬܰܒܰܚ ܗ̱ܘܐ ܝܶܫܘܿܥ ܀ |
というのも、まだ与えられて(女性形)いなかった(女性形) ―― 霊は。なぜかというと、まだ栄光を与えられていなかった ―― イエスは。 | |
H 616年 |
ܠܐ ܥܕܰܟܹܝܠ ܓܶܝܪ ܐܝܬ̥ܰܘܗ̱ܝ̱ ܗ̱ܘܐ ܪܘܚܐ ܩܰܕܝܫܐ ܍ܝܺܗܝܒܐ܌. ܡܶܛܽܠ ܕܝܶܫܘܿܥ ܠܐ ܥܕܰܟܹܝܠ ܐܶܫܬܰܒܰܚ ܗ̱ܘܐ܀ |
というのも、まだ存在して(男性形)いなかった(男性形) ―― 与えられる(男性形)神聖な(男性形)霊は。なぜかというと、イエスは、まだ栄光を与えられていなかった。 | |
G | οὔπω γὰρ ἦν Πνεῦμα Ἅγιον, ὅτι Ἰησοῦς οὐδέπω ἐδοξάσθη. |
§46 「最初に言葉があった」の《言葉》という単語も、ペシタで女性扱いから男性扱いに変わった。
C 200年 |
14 ܘܡܶܠܬ̥ܐ ܦܰܓ̥ܪܐ ܗܘܳܬ̥ ܘܰܐܓܢܰܬ̥ ܒܰܢ ܘܰܚܙܰܝܢ ܫܘܒܚܶܗ |
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14 そして言葉は、体となった(女性形)。そして影響力を及ぼした※4(女性形)、僕たちの中で。そして僕たちは見た。彼の栄光を。 | |
P 400年 |
14 ܘܡܶܠܬ̥ܐ ܒܶܣܪܐ ܗܘܐ ܘܰܐܓܶܢ ܒܰܢ ܘܰܚܙܰܝܢ ܫܘܒܚܶܗ |
14 そして言葉は、肉となった(男性形)。そして影響力を及ぼした※4(男性形)、僕たちの中で。そして僕たちは見た。彼の栄光を。 | |
H 616年 |
14 ܘܗܘ ܡܶܠܬ̥ܐ ܒܶܣܪܐ ܗܘܐ ܘܰܐܓܶܢ ܒܰܢ ܘܰܚܙܰܝܢܰܢ[j] ܠܫܘܒܚܐ ܕܝܠܶܗ |
14 そして彼(つまり)言葉は、肉となった(男性形)。そして影響力を及ぼした※4(男性形)、僕たちの中で。そして僕たちは見たんだ。彼のその栄光を。 | |
G | 14 Καὶ ὁ Λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεᾱσάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, |
※4 または「そして宿った」。 [j] ܚܙܰܝܢ の別形。
もともと《言葉》はシリア語では女性名詞だが、P と H の上記の箇所では男性扱いされている。神学上の理由により、ギリシャ語の男性名詞 Λόγος に合わせた…というのが第一印象だろう。実際、後代には神学理論に従って、キリスト教の Λόγος に当たる《言葉》が男性扱いされるようになる。
しかし、この部分では、神学上の問題とは別に、言語上の問題も生じている。《言葉》という女性名詞が「神」などを指す「彼」と併置され、男性名詞「神」と同格となっているため、その《言葉》をあくまで女性として擬人化すると、同じ対象が「彼」になったり「彼女」になったりしてしまう。ヨハネ14~16章における「霊」の記述と同様、読む人を混乱させる原因になる。従って、この部分についても、ペシタに関する限り、神学的な理由で男性扱いしたのか、それとも単に表現の統一のために男性扱いしたのか、どちらとも断定しにくい。ただし、ヨハネ4事例の「霊」と違い、この《言葉》は、文法上、曖昧さなく男性扱いされている。
ヨハネ4事例でも、この事例でも、「本来女性名詞だったものが女性扱いされていない場所」に「文法上の性が異なる名詞の同格構造」が共通して存在している。これは偶然ではないのかもしれない。
§47 Burkitt[p. 44] によると、《言葉》が女性名詞であることは、宗教的イメージにも一定の影響を与えた。実際、『トマス言行録』シリア語版には、「あなたがたに平和があるように。なぜなら、あなたがたは、万物を支配する女主人である《言葉》に従ったからだ」という表現がある[p. 208]。
古代東方のキリスト教徒は、こういうイメージを持っていたことになる: 「初めに言葉(女性)があった。彼女(言葉)は神であった。世界は彼女によって作られた。彼女が形を取って、イエス・キリストが生まれた」。このイメージは、マリアを妊娠させる聖霊が女性であること、イエスが受ける鳩のような聖霊が女性であることとも整合性を持つ。現在の「主流派」からすればこのイメージは「異端的」だが、この彩りこそ、アラム語本来の(つまりイエス自身の言葉の枠組みとなる)言語感覚だった。
「どちらが良いか」という問題ではないが、思想史上の興味の対象となるだろう。
§48 アラム語圏の「女性聖霊」のイメージを端的に示す例は、『トマス言行録』ギリシャ語版だ。次のような記述が見られる。
特に④と⑦において、「母なる聖霊」というイメージが明確に言語化されている。④は、S. Brock のエッセーの題名にもなっている。⑪の後半は、恐らく後代に定型句が付加されたのだろう。そういう目で見ると①自体、取って付けたような感じがしないでもない。
⑤は、直訳的には「男性的なものの経済(オイコノミアー)」。この「経済」は、神の統御や霊的な交わりを表す(economy)。ルカ2:26では χρηματίζω(商談をする)の受動態、つまり「商談を受け取る」という表現が「(神からの)警告・啓示を受ける」という意味で使われているが(§13)、そういうことも「神の経済」の一部といえるかもしれない。シリア語版では単純に「祝福の交わり」となっている。
⑦の正確な意味は分からないが、もしかすると「七つ」は単に「多数、完全、森羅万象」という意味で、「森羅万象の母よ、この若者たちのハートも居心地良い場所だから、そこにも宿っておくれ」という意味かもしれない。または、「七つの家」は「天界」で「第八」は「地上」なのかもしれない。
最終的には西方の「男性聖霊」が東方の「女性聖霊」をほぼ上書きしてしまうのだが、『トマス言行録』ギリシャ語版では、逆にアラム語のイメージがギリシャ語に入り込んでいるところが面白い。
§49 シリア語版の対応する部分は次の通り。
[k] 末尾の t は軟音(Nöldeke, §126)。ただし、ロンドン版ペシタでは硬音。
ギリシャ語版にあった④の「来たれ、慈しみ深き母」が抜けているのが分かる。S. Brock によれば、もともとあった女性的イメージが、後から不適切とされ削減されたのだという。もっとも、女性イメージを削除する「検閲」にしてはずいぶん大ざっぱで、⑦の「母」はそのままだし、聖霊を女性として召喚していることは依然として明らかだ。
この他、翻訳には表れない隠れた女性的イメージとして、②の「包み込む優しさ」は直訳では「子宮」となる。
§50 「女性聖霊」のイメージの一つの源泉として、旧約聖書の『
『シラ書』24章でも、知恵(女性)が自分を「私」と呼んでいる。彼女は言う[Sirach]。「私は母。美しい信愛の。恐れの。知識の。そして聖なる希望の。私の中には、生命と真実のあらゆる恵みがあり、 私の中には、生命と高潔のあらゆる希望があります」
『知恵の書』では、神から与えられる女性的な「聖霊」として「知恵」が描かれる。「知恵の霊は人を愛する」(1:6)。「私は呼び掛け、私に知恵の霊が来た」(7:7)。「彼女は神の力の息(または気)」(7:25)。「誰があなた(神)の計画を知るでしょう、もしあなたが知恵を授けなければ。いと高きから聖霊を送らなければ」(9:17)。
「知恵の女神」のようなイメージは西方においても太古から存在しているが、ユダヤ・キリスト教的にはそれは「異教の神」なので、この種の要素は意図的に抑圧されたのかもしれない。
§51 「聖母マリア」のイメージは、シラ書のロジック「母なる知恵」、シリア語のロジック「母なる聖霊」と似ており、そこには歴史に埋もれてしまったリンクがあるのかもしれない。例えば、イエスがアラム語において「僕の母は知恵だ」といった詩的表現を使ったのが、変化してこうなったのかもしれない。
実際、オールド・シリアック版マタイ11:19において、イエスは言う。「知恵(女性)は、彼女の息子たちによって正当化される」と。文脈を考えるとイエスは自分自身を「知恵(女性)の子」と呼んだことになり、(少なくとも言葉のあやとしては)「僕の母は知恵だ」が含意される。
§52 聖霊が「鳩のように降りる」という描写も、伝統的な意味において優美で女性的であり、ここにはアラム語の「霊=風=空中を動く=鳥のように」というロジックが感じられる。
§53 ヨハネが記述した「守護者」は、東方においても西方においても、しばしば「慰める者・心地よさを与える者」と説明される。このイメージにも「母性的」なものが感じられる。
この「守護者」は、繰り返し「真実の霊」と呼ばれている。なぜ「聖霊(神聖な霊・神聖の霊)」といういつもの呼び方ではなく「真実の霊」なのか? もちろん確定的な答えは出せないが、「真実」は意味上「知恵」に通じる。「真実」も「知恵」も、ギリシャ語において女性名詞だ。微妙ではあるが、ここにも「女性聖霊」あるいは「知恵の女神」のようなニュアンスが感じられる。
§54 この記事のシリア語テキストは、原則として下記のうち [*] 印の4種類の文献による。ペシタ以外については、原文に母音記号はない。
dukhrana.com
) // 2014年4月以降、オールド・シリアックも表示可能dukhrana.com
) // ペシタの語彙データベースcal.huc.edu
) // アラム語大辞典bibleapps.com
) // ギリシャ語新約perseus.tufts.edu
) // ギリシャ語・ラテン語この記事は、引用部分・画像も含めて完全にパブリックドメインになるように構成されている。聖書のテキストは、全て著作権が切れた古い文献に基づく。
Tahoma
, Verdana
, Meiryo UI
)。
ܫܡܳܝܐ を ܫܡܰܝܐ に修正。biblehub.com
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