IT関連の調査・動向予測で有名なアメリカのフォレスター社は2日、 消費者が求めているのはネット経由でのAVファイル共有であり、 ニーズに合わない物理的なCD等の販売は今後5年間で激減するとの予測を発表した。
同社によると、アメリカの全人口の20%は音楽をダウンロードしており、その半数は以前よりCDを買わなくなったという。 2008年までの今後5年間のうちに、音楽の総売り上げの実に33%は(iTunesのような)合法的オンライン販売となり、 物理的なCDの売り上げは1999年のピーク時に比べて30%落ち込むと予測している。
すなわち、CDの売り上げが落ち込んでいるのは違法コピーがどうこう以前に、 もはや時代遅れでニーズがないからであって、コピープロテクトをかけようがかけまいが、 物理的な小売りに見込みはなさそうだ。 うっとうしく、ユーザのハードウェアに損傷を与える可能性さえあるコピープロテクトは、 むしろみずからの没落をいっそう加速させるだけだろう。
Forrester Researchはまた、オンデマンドの映画配給が2005年までの累計で14億ドルの売り上げになる、 と大胆な予測を示す一方、物理的なDVDやVHSの売り上げは8パーセント減少するとしている。
「物理メディアから(ウェブへ)のシフトによって、音楽産業の没落は停止し、 映画産業は新しい収入源を得るが、CD小売店などは大きな打撃をこうむるだろう」 と、フォレスター社の首席アナリスト Josh Bernoff は語った。 「要するに、まもなくエンターテイメント産業は激変する」
Study: CDs may soon be as final as vinyl
CD小売店がつぶれることで、音楽ファンはもはや小売りや物理的流通の人的・物的コストを負担しなくてよくなるから、 良質の音楽が安く手に入るようになり、しかもアーティストの収入も増えるとみられる。 フォレスターは今後5年のことを言っているが、より長期的には、 一次創作者のアーティストとその作品を支持するファンだけが残り、中間のものはすべて透明に消え失せるであろう。 なぜなら、技術の進歩によって、もはや大資本のちからがなくても、従来のそれを上回る創作が個人ベースまたは個人ベースのゆるい創作集団において―― スタジオと楽器メーカーは苦境に" href="http://www.hotwired.co.jp/news/news/Culture/story/20031006202.html">可能になるからだ。例えば、現在日本で販売されている軽音楽のレベルだと、 その99%まではすでにアマチュアでも機材があれば作れると言われている。
現在の通常の印税(5~10%)から考えると、メディアの総売上が10分の1に激減しても、 中間が消えればアーティストの収入はかえって増える。そのくらい今は中間の「無駄」がひどい。 ファンも消費者に対して銃口を向けるような音楽業界などでなく、 自分が敬愛するアーティストに直接支払いたいと望むだろう。
言い換えれば、今の産業構造では「食っていけない」アーティストも、今の水準の10分の1のファン数で「食っていける」ようになる。ユーザとアーティストの間に寄生する大勢を養えるだけの「大物」しか世に出られなかったことが20世紀の音楽の不幸であったかもしれない。そのような少数の「ドル箱的なミュージシャン」だけでは、 多様な好みの消費者において顧客満足が低いが、 にもかかわらず、独占の弊害で、「売れない」マイナー系のものだと、すぐに廃盤にされるなど、 音楽に対して安易にむごい仕打ちがつづいてきた。 そろそろ年貢の納め時だろう。
フォレスターの予想通り、さしあたっては小売りを切り捨ててオンライン販売に移ることによって、 延命を図るのかもしれない。だいぶ前からDRMという伏線を張ってきたマイクロソフトは、 最近P2Pにも露骨な関心を見せている。 罪のない小売店がさびれるのは可哀想だが、 竹馬やミシンやオート三輪の売り上げが減ったのと同じで、 時代の変化でニーズがなくなったのだから仕方ない。
郵便制度や交通の発達で飛脚や早馬がなくなったように、 ネットが発達したから物理的販売がすたれる。それだけのことだ。
フォレスターの予測「CDの売り上げは30%減の大幅下降」とシンクロするように、 米ユニバーサル・ミュージック・グループ(UMG)はCDの価格を約30%下げた。 もはや物理CDに従来と同じだけのニーズも価値も存在しない、という明白な事実を認めた形だ。
「さあ深く深呼吸して、腹筋の準備はいいかな。君の人生で最大の笑いを爆発させたまえ! UMGがCDを値下げしたぞ」 と、英Registerの論説は浮かれているが、 単純な値下げの話ではない。 ユニバーサルの決断を「英断」のように見る向きを激しく笑うのだ。 相手は、これまでCDの価格を不当につりあげてきた張本人だからだ。 だから、ユニバーサル社長の言葉「音楽にはお金を払うだけの価値があることを認識していただきたいと思っている」にも、 「そちらの言い値で売りつけていたくせに」というツッコミが入る。 彼らがこれまで不当に価格をつりあげてきたこととと、 今回のことで業界全体が値下げに向かう可能性が出てきたことの「リーダーシップ」ぶりは、 英断というより「最高のコメディー」だ、とRegisterは断じる。 「そんなわけで、もし君が卑劣な行為を行っているなら ―― これはファイル交換のことだぞ、音楽業界のことじゃないからな ―― 安くなったことだし、CDを買ってみてはいかがですか」と皮肉たっぷりの結び。
たしかに、ベルリンの壁はくずれたし、ソ連もなくなったし、 Aiboも生まれた。CDが値下げしようが消滅しようが、そんなに驚くことではないのかもしれない。 消費者のほうだが「まだ高すぎる。そのさらに半額(USD5)なら買ってもいい」 「5ドルじゃ安すぎるだろ」 「良質のCDなら10ドルはまあまあいい」 「いや5ドルでちょうどいい」などなど、けっこうシビアだ。
Universal to slash US CD prices | Universal's CD price cut comedy gets five stars
http://www.neowin.net/comments.php?id=13405&category=main
違法コピー対策とかそういうこと以前に、 流通を省いて大幅にコストダウンした(しかし利益率はほぼ同じ)オンライン販売にシフトする都合上、 現在の価格設定で物理小売りすると割高感がつのってどのみち商売にならないから、 というふしがある。
「蚊に刺されるとかゆい理由」が蚊の唾液のせいであることはよく知られている。
しかし、ここで当然の疑問が起きる。なぜ蚊は相手をかゆがらせないように進化しなかったのか。
蚊の唾液には血液の凝固を阻止する物質が含まれている。 血を吸っているときに血液が空気に触れて固まっては困るからだ。 高度に進化をとげた「血液の凝固因子」(傷ができて出血すると、 自動的に止血・自己修復アルゴリズムが起動される)をハックするような物質を作れるなら、 アレルギー反応が起きにくく(つまり相手をかゆがらせず)血を吸えるように、 もうひと進化しても良いのでないか。 そうすれば蚊は安心して血を吸えるし、血を吸われるあなたからみても、 アレルギー反応が起きないということは、腫れないし、 赤くならないし、かゆくならないのだから、お互い良い話にも見える。
実際、蚊のなかにも、刺されるとひどくかゆい種類と、そうでないのがいるのだ。 また、動物のなかには、相手をかゆがらせないで血を吸うものもある。 これも種類によるのかもしれないが、ヒルはかゆくないらしい。 となると、蚊がかゆいのは、絶対に必然的なことでもない、と言わなければならない。
ここで、さらなる疑問がわき起こる。
じつは、すでにハックされているのではないか? かゆくならない蚊は存在するが、 かゆくならないゆえに霧箱のなかを透明につきぬけるニュートリノのように、 人間に知覚されていないのではないか。ステルス蚊だ。
この思考実験によって、かえってステルス蚊は栄えられないことが予想される。 もし相手に意識されないと、血を吸い放題なので、ごく一時的には大繁殖できるはずだが、 そうなってはついには相手を全滅させてしまい、血が吸えなくなって、自分も滅んでしまう。 無限に一方的に大繁殖ということは、物理世界では不可能だ。 (人間だって100万匹の蚊にたかられまくれば失血死するだろう。 あるいは100匹くらいでも、のべ100万匹が交替で24時間血を吸ったら。 もしステルス蚊だと、そうなっても人間は刺されていることがなかなか分からない。)
何万年だか何億年だかの蚊の進化の歴史のなかでは、 ステルシーな蚊も突然変異などで生まれたかもしれないが、 長期的には栄えず、淘汰されてしまうと想像できる。 「見える」ことによって、すなわち相手をかゆがらせ、怒らせ、自分を殺そうとさせることによって、 エリートだけが生き残れるシステムなのだ。 もし、のろのろしていても、のほほんといつまでも血を吸っていられるような世界だったら、 その蚊たちは、別の原因で自然の厳しさに耐えられない。 のほほんとしているところを、蚊を捕食するほかの虫や生き物にひとのみにされてしまうだろう。 万一そうならなくても、相手がかゆがらなければ、結局、吸血対象がだんだん滅んで減少してしまうから、 自分も滅んでしまう。
蚊のせいでかゆくなることは、あなたにとっても、蚊自身にとっても、 滅びないで済むための良い道なのだ。ヒルのような避けやすいものと違い、 どこからともなく空気経由で侵入できる蚊であればこそ、それが「悪い」性質を持っていることは、 それ自身のためであり、あなた自身のためでもある。
同様の議論によって「蚊取り線香は、あまりきかない」ことが示される。 もし蚊取り線香によって蚊をパーフェクトに撃退できるくらいなら、 蚊取り線香は存在していない。
蚊にも、わりとのんびり夢中になって血を吸うやつ、 ほんのわずかの「叩き殺してやる」とう殺意を察知して退避する神経質なやつ、 そのほかいろいろいる。すでに述べたように、ある確率で必ず叩き殺されることは、 蚊自身のためである。もちろん個体の話ではなく 「蚊の遺伝子上を何億年にも渡ってつなわたりしている固有ミームが生存し続けるには」ということだが。
蚊に上記のような個性が存在することも、背理法によって説明できる。
もし蚊の遺伝子がすべて単一のアルゴリズムによって蚊を動かすとすると、 その蚊全体に対して「有効な対策」が一意に定義されてしまう。 例→「蚊というものは、右手をひらひらさせて注意を引いておいて左から叩くと、必ず死ぬ」
このように一意な対策があれば、あなたは容易に迷惑な蚊をやっつけることができる。 したがって、蚊は滅ぶ。しかし現実に蚊は滅んでいない。 これは矛盾であるから、蚊に対する一意の対策が存在するという仮定はあやまっており、 したがって蚊は個性を持たなければならない。
ある蚊は、あなたの攻撃パターンをたくみにかわすが、べつの人の攻撃パターンには弱い。 べつの蚊は、あなたの攻撃パターンで簡単に撃墜できるが、べつの人の攻撃パターンには強いかもしれない。 このように、いろいろいることで、人間がそれぞれ創意工夫をこらして個性的な攻撃をしかけてきても、 一定確率で、どれかの蚊は生き残れる。
このことを人間に適用するとどうなるか。
同じ一つの価値観だけで「良い」人間ばかりを作ろうとすると、 人間は滅ぶ。いろいろな価値観があり、あなたからみて「生理的に受け付けない」人が存在することは、 人間自身のためである。そうでなければ、あなたも含めてすでに全員滅んでいる。
もし「○○主義」は絶対に良く「○○主義」は絶対に許せない、といった絶対的な考え方がすべての人間の脳を支配するようになると、人類は滅ぶ。
あなたは、この説に納得がいかないかもしれない。 「だから、そうなのだ。」
あなたが普通と違う変なヤツ、 標準の価値観に照らして無価値なヤツであるとしても、心配はいらない。 むしろ、あなたのような存在によって、人類は保たれているとさえ言えるのだから。
蚊に刺されるとかゆいわけを蚊中心で説明したが、 さらに、人間中心の視点を交えることで、核心をつくことができる。
すなわち、人類と蚊類の進化のなかでは、蚊に刺されてもかゆくならない人間も存在したが、
そういう吸血生物などに無頓着な人間は伝染病などにかかる確率が高いので、
滅んでしまった。また、蚊が進化して、人間にかゆみを与えないようになろうとするたびに、
人間も進化して、蚊の血液凝固因子・
これはECMとECCMに似ている。
人間の血液には、空気にふれると固まる凝固因子がある。
しかし蚊はそこをハックしてくる。すなわち、血液を実際には体外に吸い出し、空気に触れさせながら、
空気に触れているという情報をうまく隠すか、あるいは、空気に触れると凝固するアルゴリズムそれ自体にハッキングをしかけてくる。情報戦なのだ。だが、人間も負けてはいられない。
ハッキングを完全に防ぐことはできないが、ハッキングされたことを事後的に検出するアルゴリズムを持っている。
彼女がこちらのレーダーをあざむく
蚊がこのアレルギー回路を回避すべくECCCM(ハッキングを事後的に検出する回路へのさらなるハッキング)を使おうとすれば、人間はECCCCM(それをさらに見抜くアルゴリズム)を使い……というふうに、 進化の時間における人間と蚊の情報かく乱戦は、 続くのだ。情報戦に負けた蚊のグループ・負けた人間のグループは滅びる。 結果として、エリートの人間とエリートの蚊だけが残っている ―― 互いに高度のハッキング能力をそなえた。
蚊に刺されてかゆくなるということは、人間のほうが一枚上手で 「ばれないように侵入して血液を盗もうとはさせない!」という情報戦における勝利なのだ。
個々の人間と蚊は、それぞれをつかさどる遺伝子が戦争をするための、 使い捨て兵器である。
人間は、高度な情報戦だけに頼らず、 化学的・生物学的対応(血液の凝固やアレルギー反応)ではなく、 手で蚊をたたきつぶすという物理的レイヤーを使うことによって、最終的な勝利をおさめようとする。 だが、蚊の物理レイヤーもあなどれない。 人間の脳がそれぞれ空間で速度ベクトル・加速度ベクトルを持っている手・足・蚊などに関する多体問題を ―― いわば非線形二階微分方程式のマトリックスを毎秒1万回のペースで ―― 超超高速で数値積分しながらリアルタイムで運動を補正しながらくりだす恐るべきてのひらを、 彼女もこの問題専用に最適化された静粛性・低視認性・敏捷性・高機動性のボディ、 文字通り命がけで進化させてきた危険回避アルゴリズムにより、 巧みにかわそうとする。
蚊の動きは画一ではあり得ない。常にある確率で、人間にとって予測がつかない回避行動をとる。 しかし、蚊の回避は完全ではあり得ない。常にある確率で、人間によって撃墜される。 この緊張感ある絶妙なバランスによって、両方が存続する。
蚊と人間のあいだの「愛」は、戦闘妖精とジャムの間の「愛」なのだ。
このたとえを人間世界に適用するとどうなるか。
あなたのまわりで、あなたにとってガンのようないやーな人が存在することは、 あなたにとって、きわめて良いことなのである。 そのいやーな人がいやーな感じを与えなくなったら、そいつも、あなたも、おしまいってことだ。
あなたのまわりにいる、いやーなやつ。 もし、あなたがそいつを撃退できたなら、それは、あなたの滅びの日だ。
アメリカが自分に対して不安をいだいているのも当然の生物学的本能だろう。 物理世界のすべてをうまくコントロールすることによって、自分が滅びつつあることを遺伝子が警告しているからだ。
音楽産業もそうだ。音楽の流通を一元的に管理できた、とにんまりした時点で、 彼らの滅びは始まっていた。
だが、逆に考えると、このゲームをおもしろくするため、 RIAAもなくてはならないコマだった。 彼らがいなければ、P2Pも進化しなかっただろう。 中央共有サーバから、ナプスターのようなカタログサーバへ、 グヌーテラのような分散系へ、さらにフリーネットのような「人間が見えない」系へ。
この進化ゲームのためには、 常に一定確率で逮捕されたり賠償請求されてひどい目にあうやつがいる、 という緊張感が大切だったのだ。
米4大レーベル( Universal, Warner Music, SonyBMG and EMI North America )は、 iTunes での新曲の販売価格を値上げしたかったが、 1曲99セントの定額を固持しようとする強気な Apple との交渉で敗北寸前だ。
2005年には「1曲99セントは長く続かない」と公言するレコード会社幹部もいた。 かれらは、古い曲はもっと安くしてもいいから、ヒット曲を高く設定したがった。 だが Warner の幹部が「固定価格ではわれわれのアーティストにとって不公平だ」と言うと、 Apple の Steve Jobs は「欲ばりめ」と一蹴。レコード会社もトーンが変わり、 「固定価格で行くしかないかも…」。
Apple の支配力の大きさに驚かされる。 つまり「嫌ならどうぞ iTunes から撤退なさってください」ということで、 相手がまずそれができないと読んでいるのだろう。
レコード会社の漏らした次の一言が印象的だ。
Where in life does the retailer set the price of the content?
商品の価格を決める小売りなんてあるか!
これを読んで思ったのは、「それが普通ではないのですか」である。 実際に販売する小売業者が実売価格を決める。当たり前のことではないか。 おまえたちが価格を押しつけられると思っていたのなら、それが間違っていたのだ、と。
と同時に、こうも思った。 Apple よ、次はおまえを抜く番だ。アーティストとファンが直接交渉して値段を決める時代が来るぞ。と。
冷徹に割り切れば、
(X) “高い信頼”のシステム = 高いコスト =「払うことを強制するためのDRMの技術ライセンス料と運営コスト、
必要に応じて強制執行する法的コスト」+「それを実行する中間管理者のコスト」
(Y) “低い信頼”のシステム = 低いコスト =「ファンとアーティストの間のあやふやな関係に依存」
この二つを比較して、損益を予想すると、
それぞれを最適化した場合、最終的に、
1%未満の超人気作品は(X)システムの方がアーティストの利益が多く、
99%以上の中間的~マイナー(マニアック)な作品は(Y)システムの方がアーティストの利益が多い、と考えられる。
ソフトはすべて無料にして広告でもつければいい、などという意見もあるようだが、そこまで簡単な話でもあるまい。 またそうした意見に対して、 「社会に出て働くようになれば、物作りやサービスには多大な労力がかかる事、製作者・提供者に当然の報酬が支払われるべき事は身に染みてわかるでしょう」などというコメントがあったが、それも容易に否定できる:
客を乗せて人力車を実際に引いてみてください。 人力車の運転手がどんなに大変な仕事だか、身にしみて分かるでしょう。 だから、人力車の運転手の努力を無視する自動車や新幹線など発明してはいけないのです。 ——そう言うのに等しいからだ。 「今の社会」だけを前提に、良い方向に変わっていける可能性を頭から否定することは、 ばかげている。 JASRACの渉外職員がどれだけすンごい「労力」を費やしているとしても…。
媒体(作品)に広告をつけるのではうまくいかない点について。 テレビ番組が成り立つのは、放送、例えばアニメに広告がついているから、ではない。 「テレビ番組に広告が付いている」のではなく、「テレビというインフラが広告配信に使える」のだ。 Flashを例に具体的に言うと…
多くのユーザーは、ブラウザにFlashのプラグインをインストールしている。 Flashムービーなどを見て楽しむためだ。 そうやって楽しむ個々のFlashムービーには通常、広告などついていない。 しかしFlashプラグインというチャンネルは、広告配信にも使える。 実際、多くのユーザーはFlashの広告を見ることになる。 だから、Flashプラグインが普及すると、それが広告に使えるので、 結果的にFlash技術の開発元、作成アプリ、作成代行などに金が入り、 対コストで有意に広告効果があれば広告主も儲かるのだが、それが成り立つためには、 個々のFlashムービーに広告がついている必要はない。 むしろ個々のFlashムービーに必ず広告がついていたら、Flashは人気が出ない。 おもしろいFlashを見る目的と考えさせておいて(錯覚させておいて)、 見たい対象には広告などついていないが、 同じチャンネルで広告配信をしていて不可避的にそれにさらされる、という構造がキモだ。
テレビ放送も、自分はCMカットする、録画しておいてCMなんか早送りして見ない、ということが許容されていなければ——例えば、作品自体に広告がセットされていれば——人気が出ない。 Flashでもテレビでもその他成功するメディアは「おいしいところだけ取られてしまう使い方」を許容しているから、 そういう「うまい利用をしよう」と思うユーザーを引きつけ、 かつ、その上を行くことで(あるいは偶然に頼ることで)、ユーザー平均では十分に、 広告を見せている。頭がいいと思っているユーザーは「自分はふだんは広告をうまく除去している。 うまくやっている。まあたまに“失敗”して広告を見せられてしまうくらいは、いいだろう。 それでも自分の方がトクをしているのだ。それにコマーシャルも案外おもしろいしね」と計算するが、 トータルでは、それで収支が合っている。
だから、現行のシステムは(X)でなく(Y)ではないか。 微視的な効果を絶対的に確保する広告強制・課金強制ではなく、 信頼性の低い偶然に頼ることで、より巨視的に効果を挙げている。
逆に、強力なDRMを使おうとしたケースでは、高い確率で全体が失敗する。 DRMが破られるのでなく、その情報伝達チャンネル全体が受け入れられないで、全体が失敗する。 DRMが失敗するのでなく、アプローチ自体がダメなのだ。 Appleが今のことろ成功しているのは、DRMが弱いから、信頼性が低いからである。 信頼性の高いがちがちのDRM、露骨なDRMを使おうとして失敗した例は枚挙にいとまがない。
個人的にもDRM保護されているメディアの鍵を買うためにお金を払ったことなどほとんどないが、 オープンソースのソフトにはその何千倍も金を払っている。 性善だからでも思想でも倫理でも何でもなく、作者のファンだから、ミーハーだからに過ぎない。 自分が敬愛し尊敬する作品、その作者に直接支払い支援している確かな実感があること、 それがどんな快感かをみんなが一度体験してしまえば、勝負あったと言っていいくらい、 状況が変わると思う。すべてがオープンになるべきだなどと極論するつもりはないが、 オープンソースは性善説で成り立っている存在ではない、それは断言できる。 OSS開発者の多く(全員とは言わないが)は平気でペイウェアをクラックする。 ストールマン自身がクラックはいいけど隠れて使わなければいけないのが問題だ、と言い切るくらいで、 オープンソースは善人だから・善人だと思われたいからソースを公開するという思想ではない。
企業だってユーザーともっとつるむべきなのだ。 ソニーだって、昔はかっこいいイメージがあった。 機能的には大差なくても、好きだから…という“いい加減”な理由で選びもした。 技術的保護の強弱自体より、好き嫌いうれしい悲しいといった“いい加減”な感情の方が影響力が大きい。 人間を相手にする以上、やはり技術より人間なのだ。 「消費者はこっちが作るものを買うしかないのだから」「作る側が偉いのだ」というやり方は、 徐々に機能しなくなるだろう。1%未満の超特別なものだけは例外で、その地位やそれ自体の力によって何をやっても平気だが、 99%以上の一般ケースでは、客を泥棒扱いすれば失敗するに決まっている。 客を信頼しないなら、ファンを信頼しないなら、自分も信頼されないだろう。
第一、何のために音楽をやるのか。儲けたいから有名になりたいからなのか。 そんなんなら、滅んでも滅ばなくても損も得もない。 歌わずにはいられない書かずにはいられないどうしようもない内的必然性があるのではないのか。 考えるより先に口が開き、詩があふれ出て、指が動く、探る、見つける、発見する、 ピアノの前で止まらない、止められない、それが音楽ではないか。 音楽がおまえの奴隷なのではなく、おまえがミューズの奴隷なのだ。 詩人であることは権利ではない。義務なのだ。 おまえはミューズから選ばれた特権階級などではない、ミューズのためだけに生きて死ぬことを課せられた奴隷なのだ。 そして誰も二人の主人に仕えることはできない。
要はミュージシャンなるものはミューズの国とつるんだ存在で、 直接的には社会を変えるだの、どう変わるべきかだの、そんなことはどうでもいい、というべきだろう。 CDもレコード屋もRIAAもAppleも滅ぶが、歌は続く。 この歌もあの音楽も、同じオリジナルの劣化コピーに過ぎない。 別にしくみとして音楽家を保護しなくても、向こうから勝手に来続けるのだし、 どちらかといえば、音楽家をもっと社会的に迫害したほうがいいくらいだ。 音楽家の社会的地位が下がれば「有名になって大金持ちになりたい」みたいな勘違いがさまよいこむこともなくなる。 呼吸が歌である「リンゴかじ~って オ・ン・ガ・ク♪」(注)な者だけが、 音楽をやることになり(意識して「やる」というより本人には止められない)、 相手が貧し過ぎて中間流通もたいして搾取できなくなる。
中間の無駄を省いて、音楽家とファンが直接やりとりした方が楽しいし無駄がない…というのは、 確かにそうなるように思えるが、そうなると別の問題も出る。
中間の無駄を省けば、確かに音楽の値段は今の10分の1くらいになって、 音楽家の収入は変わらないか逆に増えるだろう。けれど、このことは、 音楽家が、資本力のある機関からの直接交渉で容易に買収されやすくなることをも意味する。 相手が、今の10分の1の金で動くようになるからだ。この観点からは、 音楽家の自由を確保するために、直接取引ではなく、あえて第三者を介在させ、 直にコンタクトをとれないようにした方が都合が良い。 少なくとも、ある日、突然、制度が変わると、過渡期の混乱で、一方では約10倍のお金を払う従来型ファンがいて、 他方では10分の1で流通させられる者が出るため、良心的ではない行動が可能になる。 今でもオークションで転売することだけを目的にレアものを買っておく人などがいるのを考えれば、 急激にしくみが変わると、情報格差によって、そこから甘い汁を吸う「新寄生商売」が成り立つ。 よって、いくら現在のしくみに問題が多いと言っても、 いきなり著作権や現在の流通システムを全廃することは適切ではなく、 徐々に変化しないといけない。 その意味では、物理CDが長期的にはすたれるといっても、急に中抜きになるのでなく、 オンライン販売というワンクッションが入るのは過渡的に好ましい。
第二に、音楽家とファンが直接やりとりというと、人間的な心の交流も増えて良いことも多いのは確かなのだが、 心ないファン、ストーカーのたぐいも発生する。 ファン一人が年に500円払うだけで音楽家は十分に暮らしていけるようになるかもしれないが、 そのとき、あえて100倍の5万円を払う人がいたら(50万円でも払えない額ではない)音楽家はその1ファンを特別扱いしなければならなくなる。ましてや、マイナーな立場で、余裕がないとすると、50万円払った相手は音楽家にとって特別な存在となる。 そしてその一人は結果的に、創作活動に口をはさみ影響力を持つだろう。 ファンのための音楽、エンターテインメントとしての音楽なら、それでも良いかもしれないが、 純粋にミューズにささげられるはずの絶対音楽の場合、たとえ音符1個でもたった50万円で影響されてしまうのは好ましくない。 中間の無駄を省くことは、音楽をより純粋に成立させる方向にあるはずなのだが、 実際には、このように、音楽に不純な要素を介入させる道を増加させるのである。 現在でも、音楽に不純な要素は入るが、混入の道はスポンサーなどごく限定されている。 音楽が「オープン」になると、音楽は「自由」になると同時に、たくさんの予期せぬ危険にも直面するのである。 長い目で見れば克服しなければならない試練の道であるが、 中間の寄生が消えてお金のやりとりさえ解決できればすべてうまくいく、という単純な問題ではない。
(注)「 ONGAKU」…地図帳を広げるのも音楽、ピアノによじ登るのも音楽、 リンゴをかじる音、電車の走る音、すべて音楽。な多幸症っぽい曲。 サティーの家具の音楽に類似? そんな無邪気で単純な信仰なのだが、 他方、歌が始まるときは前奏から3全音上の一番遠隔調まで来ているというひねりまくっている曲。 全部のキーが好きで好きでたまらないのでそれが楽しいというだけの理由で12調の180度反対側まで転調しまくったと解釈できないこともないが、 3全音の距離というのは現代の音楽から見るとむしろ「ありがち」(技術的に言うと、 同じ減七の和音が、どちらにも解決できるので) でも何となく分かるなあ… 「ラピュタの美しき魂が…」みたいなばかげたパロディーでさえラピュタの「ピュタ」とプリキュアの「キュア」が脚韻を踏んでいる、 みたいな。