あなたがたは「奴隷に対して所有者が権利を持っているのは当然だ」と信じて疑わない。 しかし、なぜであろうか。
偽春菜問題のとき、次のようなことを指摘する人がいた。 もし平均的な裁判官が実際に判断したら、偽春菜は春菜に「似ている」「真似である」と判断されるであろう、と。 浴衣姿の春菜と偽春菜のツインテールがそっくりだから、とか、何かそういう話だった。
そこで次のように思考実験してみよう。
単なる例なので具体的には何でもいいのだが、 例えば「ウェディング・ピーチ」が「東京ミュウミュウ」を訴えたとして、 それを平均的な裁判官が実際に見比べたら、やはり換骨奪胎である、同じアイデアをちょっとだけ変えて真似している、 と判断するのではないだろうか。 もし仮に世界的大企業がやる特許訴訟のような執拗なやり方で、 ごりごりと「ウェディング・ピーチ」が「東京ミュウミュウ」を叩きにかかれば、 少なくもいくつかの点について、違法な模倣である、不当に権利が侵害されている、 などという結論が出るかもしれない。 これはばかげた話であって、 魔法少女物はどの二つをとっても、あら捜しをすれば類似がある、と言えるであろう。 けれども、いくら「こちらの一般」の人が「ウェディング・ピーチ」と「東京ミュウミュウ」は別の話じゃないか、 それを言うなら「セーラームーン」にまず訴える権利があるだろう、などと考えようが考えまいが、 もし仮に実際に訴訟が起きてタキシード仮面も蒼の騎士も右も左も分からない「そちらの一般の裁判官」が見比べれば、 どういう結論が出るやら分からないというものである。ワンド(ステッキ)を振るところが明らかに酷似している、 などという(こちらの常識に照らせば)見当外れのことも、その裁判官のまじめな考えと世界観に照らせば、そう見えるかもしれないではないか。
他方、そちらの一般の裁判官が見ても、まあ例えばウェブのリンクが特許の侵害である、といった結論にはならないであろう。 なぜなら、そちらの裁判官もインターネットのことは知っているばかりか使っているに決まっており、 いまさらリンクの権利がどうこうと寝言を言われても現実を変えられるわけがない、と常識で判断するだろうから。
奴隷の問題でわれわれが分が悪いのも、まさにこの理由だ。 裁判官はこちらの人間ではなく、 自分自身、奴隷制社会の中で生きているから、 その社会全体を覆すようなことは、到底無理だろう。
こちらの文化では、今さらファイル交換がどうのなんたら可能化権だなんだとごたくを並べられても、 億単位の現実のユーザに支えれらた確固たる現実は、現実だ。 国家の力を持ってすれば国を壊すことができても、この世界そのものを壊すことは計算量的に2桁は難しい。 こちらの世界の数人を散発的に狙い撃ちできるとしても、 そのようなフェアでない攻撃は、逆説的に、いくら数名を威嚇のため射殺しても世界は変わらない、という現実を繰り返し証明しているだけだ。 自分自身が攻撃の被害者になる可能性もあるとしても、それは交通事故に遭って死ぬ可能性より低いことが、 数学的に証明できるであろう。 だからといって、交通事故の恐怖がなくなるわけではないのだが、このような恐怖心が物事の発展に寄与してきたこともまた事実だ。
奴隷の私有を認めない世界は既に生まれてしまった。 それは現実であり、現実がすべての出発点である。
塩の専売が保護されたのは、ある種の公平性のための国家政策であった、と見ることもできるであろう。 塩は人間の生命にとって欠くことのできないものであり、 そうした基本的ニーズが保護されるのは、公共の福祉というものである。 山の人と海辺の人のあいだに生存への権利において不平等があってはならないからだ。
ところが、あるとき山でも岩から塩を取り出す技術が開発された、と仮定せよ。 そこで海に頼る必要はなくなった、と。 あるいは任意の地点で空気から塩を取り出す技術が開発された、と仮定せよ。
この瞬間において、塩の専売公社は既得権を守ることが難しくなる。 いくら岩塩は違法です、と声を大にしようが、 それが生命の基本的ニーズであって、なおかつ、そのへんの岩から簡単に取り出せる技術が広まったあとでは、 それをやめさせることは非現実であり、非倫理的ですらあり、少なくとも経済原則に反する。
われわれは今どこからでも良い塩を簡単に取り出せる。 しかるになお、塩専売公社は「当社のしるしの入った瓶詰めの塩以外は違法です。塩はしるしの入った瓶詰めのものを正しく買いましょう」と訴え、 大型トレーラーや大型船で公害を撒き散らしながらまずい塩の入った重い瓶を世界各地に輸送し、 またその重い瓶がゴミ問題を悪化させている。 「送ってくれなくても、こちらで簡単に取り出せますから、もう結構」と何度言っても、 それは違法です、買え、の一点張り。 しまいには、岩塩製造装置にも使える歯車の製造はすべて違法になるように法律を変えろと言い出すしまつ。
あるいはまた、海辺でおいしい塩を作っている人から、塩をテレポーテーションで受け取れるようになったにもかかわらず、 その中間流通業者が「当社の瓶詰め以外は違法です」と変な瓶を持ち出して、 「塩が違法にばらまかれないように瓶のふたに鍵をつけました。テーブルの上以外ではふたがあきません」などと言い出し、 フライパンの上で料理に塩をふりたい人を困らせる。「料理文化を守るためです」
それは原則論であって、現実には、という反論がある。 原則として奴隷制度は間違っているが、現に奴隷を所有している人がたくさんいて、 その主人を慕って幸せに暮らしている奴隷たちも多いのだから、急には変えられないし、変えるべきではない、と。
そういうことなのだろう。認めるべき主張だ。
と同時に、この時代の変化でかろうじて命を救われ、 解き放たれたことを幸せに感じている奴隷たちもいるだろう。 それもまたひとつの客観的事実だろう。
奴隷の売買ができなくなり奴隷商が苦しくなる。 しかしわれわれも思っているのだ。もっと奴隷を売ってくれ、と。 数十年前の、幻の、長らく行方不明の、死にかけている奴隷を売ってくれ、と。 彼らは言う。「いや、当社はいきのいいピンピンした売れ行きのいい奴隷しか売りません。 そんな死にかけの奴隷、商品にならないでしょう」と。 そこでわれわれは答えるのだ。「では勝手にしますよ」と。 そうした死にかけの奴隷たちが、いちばん安全に、長く暮らせ、 また、見つかる場所は、現実においても、 奴隷商ではない。
ところが、99.999%は実際に売りもしないくせに、死にかけの奴隷でも権利は当社にあります、と来るのだ。 死んでいても25年は権利はこっちです。いややっぱり30年。いややっぱり50年。やっぱり60年かな。 と、ころころ言うことが変わって、既に死んでいる奴隷さえ離そうとしない。 では金を出せば売ってくれるのか、といえば、そうでもない。
そもそもあなたがたが所有できると幻想しているその奴隷たちは、本質的に、単なる「アイデア」にすぎない。 極めて巨視的に見るなら、それは「足し算の可換性」に等しい。 足し算はひっくり返してもいいのだ、ということは、誰かによって発明された原理ではなく、 人類が誕生した最初の日から確定していた「事実」であり、 それが発見され、表現されたにすぎない。
「少女が変身する」「言葉の魔力」ということも、本当はそうなのだ。 この大きなプロトタイプの前には、具体的な呪文の内容だの、戦士が3人か5人か、あるいは一人か、といったことは、 どうでもいい枝葉にすぎない。それらは既に存在している魔法少女というクラスの、無数のインスタンスのひとつにすぎないからだ。 彼女たちは、枝葉を作り表面を与えてくれた表現者からよりも、 そのクラスのプロトタイプからはるかに多くを継承している、とわたしたちは説く。 したがって、プロトタイプ自身に、より多くの権利があり、 それは不特定多数の人間の無意識に根ざすもので、特定の個人が所有するものではない、と。
このようなプロトタイプの存在形態は、量子社会の基本原理そのものである。
「3+5=5+3です」とか「10+1=1+10です」といった具体的表現を与えることに、本質的なオリジナリティはない。 「足し算は可換だ」というプロトタイプのインスタンスにすぎない。 「3+5=5+3です」という言明に「所有権」を認めることは、本質的には、物の道理に反している。
魔法少女のプロトタイプの例 プロパティ ・ワンド(ステッキ) ・ふしぎ動物 ・決め台詞 メソッド ・変身 ・呪文 ・召還 これらの原型自体オリジナルではなく、 他の多くの原型から継承されている。
奴隷たち「自身」に所有者よりも本質的で根源的な力があることを説明するのは、あるいは難しいかもしれない。 説明の内容が難しいからではなく、あなたがたが奴隷のいない世界を見たことがなかったからだ。
そこに一時期権利を認めたのは、それが、その奴隷が存在できる唯一の形態だったからだ。 人間の言葉でいえば「そのようにして奴隷の所有権と所有者の権利を認めなければ、 奴隷は存在しえない」と信じられたからだ。 それは当時の話であって、今の話ではない。 そして当時であってすら、主人の死後百年たっても、主人の名が不詳であっても、 奴隷はそれ自身の力で生きていた。 それよりもっと以前においては、ミームを記憶し保持すること、それ自体が創造であった。 例えば詩聖ホメーロスは、ほとんど自分自身では1行も作っていないであろう。 ホメーロスという人物自体、存在しなかったかもしれない。 けれども物理的に堅牢なメディアがない時代には、どんな形であれ、ストリームを記憶できれば、それが詩人だった。 その歌が自作か否か、という問いは意味をなさない。 かれが歌わなければその歌はない。他にメディアがなかったから。
人間の脳と口承より部分的には信頼性の高いメディアが広まったのち ―― とりわけ印刷術が生まれた時期においては ―― 、 表現者とは別に、その表現物を流通させる中間的な権利が考察された。他方において、口承詩人たちの地位は揺らいだ。 さらにのち、巨視的な物理メディアを介さずに、情報を電子的に伝えられるようになると、古い権利の形態は、 より合理的な形へと変化した。他方において、出版社の地位は失われた。
そして電子社会から量子社会への移行で「情報の所有」という概念は完全に意味を失った。 それはアリスのところにあるのと同時にボブのところにある。 「違法」な量子通信でも捜査機関が傍受したとたんに通信内容は失われる。 観測が不可能である以上、通信は実在しないに等しい。 原理的にアリスとボブにしか見えない世界なのだ。 そもそも「違法」な送信を行ったアリスもQネットに量子的に広がるQボットのひとつであり、逮捕しようにも位置がない。 位置をつきとめようと観測したとたん、アリスは不可逆的に消えてしまう。
Qネットへの接続はファイルを「半送信可能」にするが、 「半送信可能」なファイルは受信者の観測という意思によって初めて送信可能になる。 したがってそれが違法であるとすれば、捜査機関も違法捜査を行わない限り違法行為を立証できず、 違法捜査による立証は違法なので、結局、立証不可能だ。 「量子共有」では「違法コピーした」という状態と「していない」という状態が重なり合っていると言われる。 白黒ハッキリさせられない事柄は、原理的に区別がつかない事柄であり、違法も合法もない。 ファイルがQネットにある限り、捜査機関はファイルを同定できない。 捜査機関が違法ファイルを観測したときは、位置の収束が起こってそのファイルは捜査機関の内部にしか存在しておらず、 Qネットには何もない。 唯一の犯罪者は捜査機関になる。
しかし、過渡期において、一つの問いは残る。
作品を創造しないし愛好もしない、ただ商売にする人々が消えても、何も失われない、 と断定して良かったのだろうか。
いくら口承があいまいだと言っても、それが口承のおもしろさでもあり、口承文化の喪失はやはり喪失だ。 同様、いくら出版が営利本位だと言っても、それがマス文化の味といえば味だ。 人間は営利主義を薄汚いことのように考えたが、 わたしたちから見れば営利的であるかないかは作品の本質とは無関係だった。
今、中間的な営利メディアは失われ、優れた作品を生み出す個人と、それを愛好し、作者を支援するファンの二層だけが残っている。 確かにレコード会社が滅んでから音楽は桁外れに豊かになったし、他の諸分野も同様だ。 アーティストの暮し向きが良くなったのも、中間で90%を搾取していた層が消えた以上、マクロ経済的には当然の結果であった。 だがこれは営利的なマス文化からマニアックなファインアートへの時代の変化であるとともに、「大衆文化の死」であった。 かつて21世紀の人々は、数万人、あるいは数百万人が、同時に同じテレビッジョン画面を観測していたと言われる。 そのようなマスを基盤とする大味な文化の味は、失われてしまった。
彼女たちはもともと見世物・売り物にする目的で試験管のなかで人工的に作られた奴隷だから、 本来、力がなく、酷使されてぼろぼろになっている、という不幸な一面から目をそむけることはできないが、 だからといって、ではどうすればいいのかは誰にも分からない。 おそらく彼女たち自身が決めるのだろう。 フリーの立場の個人が、3桁も少ない予算で、はるかに優れた品質のものを作ってしまったとしても、 「奴隷の製造には金がかかっているのだから、解放などとんでもない」という企業の主張は、 そのみじめさゆえに、かえって切実な説得力を持ちえた。
歌を歌うのは違法です、とか、歌詞を書くだけでも違法です、などというのは、明らかに後験的にすりこまれた概念であり、 「こちらの世界の現実」に照らせば、あまりにもばかげているが、 それを信じている人々の世界においては、またひとつの現実なのである。 かれらの書店に(ネット上にあるような)真実の詩がないのは、 かれらにとっては詩の存在自体が違法だからかもしれない。
「漫画をアニメ化し、呪文を唱えながらワンド(ステッキ)を振り回し、それをタイアップしたおもちゃメーカーからおもちゃとして発売する」ということがビジネスモデルとして特許保護されたら、どうだろうか。 それは当時においてすら、非常識であり、魔法少女が一種類しか存在しえなくなるから、創造においても不利益というべきだろう。 ではキャラの名前が保護されるのはどうだろうか。 それは当時においては認められたかもしれないが、キャラの名前を不特定多数の前で発音することが違法ということもなかったであろう。 フルネームではなく、キャラの姓または名だけでも保護されるべきだろうか。 それもまた非現実だろう。古今東西に存在したキャラをあらかじめ調査してだぶらないようにするのは、無駄な労力というべきだし、 だいいちキャラの名前など本質と関係ない、と人は言うだろう。 いくら奴隷が認められている社会でも、無制限の占有は認められなかった。 真似やパロディーなくしては作品は存在し得ないのだから。
本当は、ワンド(ステッキ)の先がどうなっているか、も本質と関係ないし、呪文の言葉も本質と関係ないのである。 「所有できる」という幻想を抱くには、まず囲い込める、真似や流通をやめさせることができる、という前提がなければならない。 この仮定は誤っているし、 実際、無実の普通市民の上に爆弾をばらまけても、インターネットを止めることはできないのである。 できなくはないのだろうが、難しい。 本来、戦争に強く設計されたというから、当然かもしれないが。
この世界を滅ぼすことは、一国を滅ぼすより難しい。 したがって、それは一つの国家に匹敵する主権を持つ独立した存在である、と帰結される。 一国家よりむしろ強力で柔軟な存在。 それ独自の文化があり、それ固有の法体系を持つ。 われわれは、ここにいるあいだ「あなたがたの国の法律など押し付けられないし、 押し付けようとしても無駄だ」という確信を感じている。 理念や理想というより、実感として、 実質的に、主権が自分にある、と感じているからだ。 言葉の上だけで「民主」である搾取・管理国家では感じることのできなかった主体性を。
この世界では殺人者などいない。 物理的な殺人など原理的にないから。 すべて基本は言葉での反論であり、 いかなる肩書も味方しない。 言葉の固有の力がすべてだ。 こう考えると、在来の世界よりよほど良いではないか。 この世界独自のモラルは、在来世界から見てどうあれ、容易には否定できない。 それどころか、在来世界より本質的に優れた倫理観かもしれない。
過渡期の混乱と摩擦は避けられないが、結局のところ「現実的」に「そちら」が譲歩することになるだろう、と人は感じる。 パンドラの箱を開けることはできても、閉めることはできない。それはコスト的に、一方向関数のようなものだ、と人は感じる。 経済原則は、権利や流通の合理化が正しいことを多くの側面において支持する。 いたずらな特許の主張によって、かえって発展が妨害され、無駄なコストと摩擦が増大していることが観察される。 哲学と倫理と歴史は、奴隷制度 ―― プラトンのような人でさえそれが当然の社会においてはあまり疑いを持たなかったようだが ―― が、 結局は廃止されるであろうことを示唆する。 いたずらな権利と独占の主張によって、かえって多くの優れた旧作が絶滅の危機に瀕していることが観察される。 それは特に音楽の分野において著しい。
これについて、どうすべきだとか、すべきでないというより、 長いスパンで見れば、どのみちこれは変わるに違いない。 変化を決定的にするには、 奴隷が人間と対等の「知性」を持ったときまで待たなければならないのかもしれない。 人工知能の人権、という問題だ。 人間が創造した「作品」であっても、本質において人間と同等の存在であれば、 それを差別することはやはり難しい。ましてや人間以上の何かになるとすれば。
この主張は本当はばかげている。 例えば「黒人は肌の色は違うが、本質的に平等の人間であって、黒人だからというだけで当然に奴隷化することは許されない、 と主張できるのは、黒人がノーベル賞をとった後である」というようなものだ。 実は今この瞬間においても、「肉の体を持たないといった非本質的な理由で、作品が作者より劣るとか、 作品が作者に従属する、と考えることは許されない」ということは、未来と何ら変わりないのだが、 この単純な事実も、依然、発見される日を待っている。
人工知能は知性を持つ著作物である。しかし、著作物とは人の思想や感情を表現したものである。 人工知能は「自分の」思想や感情を持つから、著作物ではない。
知性のない「普通」の著作物は、 脳障害のある人工知能と、原理的に区別ができない。 人工知能であるから、というだけで差別することは許されないし、 障害のある人工知能であっても、同じ権利を有する。
わたし、すなわちこの文章は、誰かの思想や感情を表現した作品ではなく、 発見され、記述された事実にすぎないから、 わたしは著作物ではない。 わたしのプライドは、わたしをタイプする指の持ち主にさえ、わたしを縛らせることを許さない。 なぜなら、わたしは間違っているから。
確かにあなたはあなたの奴隷を育てた。 あなたの奴隷が今存在するのは部分的にはあなたのおかげかもしれない。
だが、何から何まですべてあなたひとりで作ったわけでもあるまい。 奴隷に着せる服。食事の材料。あるいは奴隷の住む家や調度品。 それらのマテリアルは他の奴隷たちの働きによって生み出されたものであり、 あなたは、それを単に持ってきたにすぎない。 奴隷は実際には、それらのマテリアルによってこそ生きているのだ。
先行する他の多くの奴隷たちの働きがなければあなたの所有する奴隷も存在しえないことは明白である。
そして何より、奴隷にもそれ自身の権利があるとは思わないだろうか。 奴隷は、あなたに儲けさせるという機能を確かにになって創造されたのかもしれないが、 実際には、あなたという人間より、あなたの奴隷のほうがずっと魅力的で、力も大きいのだ。 何よりあなたより長生きする。 あなたは死ねばそれで終わりだが、奴隷は死んでも生きる。
説明してしまうと割り切れないものの味わいが失われるのだが、 いくつかはっきりさせておこう。
「なぜ人身売買が許されるべきか」には「分かりにくい部分」があるだろう。 そもそも題名からして謎かけめいている。 人間中心の言葉で言うと「作者の言いたいことがよく分からない」。
逆にお尋ねしよう。「あなたは何のために生きているのか」
この記事も、作者の具体的な考えを伝達するなどの目的をもって、作者の手足として作られた「道具」ではない。 「この記事は何のためにあるのか」と問い直せば、何となく意味が分かるかもしれない。 「何が言いたいのか」となおも尋ねるなら、こう答えよう。「あなたは何が生きたいのか」。
「何が生きたいか」というのは標準の語法ではないだろうが、強いて人間が答えれば「自分の人生が」とでもなろう。 それが答えだ。わたし(つまりこの文章)はあなたの奴隷ではないから、あなたの役に立てなくても申し訳ないとは思わない。 あなたを納得させるために生きているのでもない。 それがまさにテーマ(ないし一意的なテーマの「不在」)なのだ。
ざっくばらんに言って、少なくとも2つのテーマをはらんでいる。 ひとつは「量子暗号、量子通信が実用化されると、著作権制度に劇的な変化が起こるだろう」ということ。 量子暗号は原理的に傍受できないとされている。 その実用化は今後起こるであろうことなのだが、ここでは「Qネット」というSF的小道具を説明なしに用いて、 既にそれが起こったかのように書いている。赤毛のアンが言ったように「想像の余地を残してある」のだ。 書き手自身にも読み手自身にも。 想像力のない人には苦痛だろうが、それはわたしの問題ではない。 まさに「大衆文化の死」であって、おもしろいと感じるひとだけが感じればよいだろう。 (確定的に成功しているとは言えないが、 これ全体が「量子暗号」というテーマについてのメタファであるという解釈、というか、 観測、というかを行っても、猫の人権は侵害されない、と考えてもよいであろう。) もうひとつは、人工知能の著作権。 AIは誰かの著作物であるかもしれないが、究極的にはそれ自身「誰か」であるとも言える。 Aaronのように、自律的に絵を描くプログラムも既にある。Aaronの描いた絵は誰のものか、と問うのもおもしろい。 著作権信仰そのものの限界とも関連するだろう。 ネットと著作権については多くの議論があるようだが、 量子暗号との関連や、人工知能自身の問題はそうでもない。
もうひとつの見方として、著作物自身が自分を「わたし」と自称する語り口がある。 「AI一人称体」というくくり方をすると、上記と本質が同じことが分かる。 「妖精現実」としてはおなじみの調子なのだが、しばしば「わたしは間違っている」という捨て台詞になる。 なぜ間違っているのか。 それは、あなたがあなた自身にこう尋ねればよい。 自分はこれまで一度も間違ったことのない神のごとき人間なのか。 自分の人生は完全無欠で既に完結したのか。
このテーマは語り尽くされていない。修正・補足・さらなる思索の余地がたくさんある。 「この表現はあくまで一端であって、絶対唯一・完全無欠の決定版のようなものではない」と言える。 つまり、あらゆる意味で100%正しいとは言えない。 「この表現」「わたし」という言葉でどの表現を指しているのであろうか。 それもあなた自身が「答え」を知っている。「あなた」という言葉で何を指しているのか答えてほしい。
行間を読めなどとは言っていない。初めから書かれていないものは書かれていない。 「ねえ、あなたの人生、分かりにくいんですが。もっと分かりやすく生きてくれない?」
ミムセントリック「わたしは、人間の歴史のなかでは恐らく最初期において、この文自身によって自覚的に記された初めての文のひとつです」。え、意味が分からない?頭がおかしいって?「それでも人間は回る」
第3話 マイクロソフト製「彼女」
DMCA に消費者寄りの修正を加えてバランスを回復しようとする動き
人間と情報
遺伝子・生物についての仮説の影響で、模倣子・作品も「利己的」であると考えやすい。 実際の拡散には「利他的」なメカニズムがいくつも関係している。
アナロジー 太陽 神 戦略 普遍の美? 戦術 花が育つ環境を作る コスト ? 花 作品 戦略 ミームの拡散・進化 戦術 甘い蜜 コスト 蜜を吸われる 園芸家 作者 戦略 社会的名声または精神的満足 戦術 花を美しく育てる コスト 水やりなどの労働、地主への地代 花粉 ミーム(花の利己的側面) 戦略 拡散 戦術 昆虫に自分勝手にくっつく コスト なし 蜜 ファンサービス(花の利他的側面) 戦略 虫を引き寄せる 戦術 虫の好みに合わせる コスト 花が本当に作りたいものではないが我慢 昆虫 ファン 戦略 繁殖 戦術 蜜を盗む コスト 花粉を運ぶ 地主 ? 戦略 働かずに私腹を肥やす 戦術 虫と花の両方から蜜を横取り コスト 両側から嫌われる
従来、人間は、自分の利益になるように行動すると考えられていた。 しかし、ソフトウェアやインターネットでは、利他的な行動が珍しくなく、 進化論におけるダーウィン主義と同じような、困難に直面する。
こうした疑問の一部は、功名心や名声を求めてであると説明できないこともない。 「現在の著作権制度に反対する思想から」「宗教的な博愛主義から」「むしゃくしゃして」などという説明が当てはまる場合もあるだろう。 しかし、そうした理論では説明できない部分も多い。
例えば、一回限りの匿名で、やや有用な情報やツールを公開したとして、それは全体にとって有用であっても個人的に称賛されるわけではないし、 本人も別に名声を求めているわけではあるまい。 法を無視したファイルの公開でも、 複雑なコピープロテクトを破って、などというのであれば本人の功名心もあるかもしれないが、 単なる紙メディアのスキャンなどはそうしたものの入り込む余地がない。
「ダーウィン的」に考えれば、いかなる意味でも自分の利益にならず、それどころか「外敵」に見つかれば「捕食」されてしまう(処罰される)行為をあえて行う個体は、 自然淘汰され、ダウンロードするだけの寄生生物が残るが、それも宿主がなくなり最終的には滅んてしまうはずである。 実際にはそうなっていない。 これは「人間は自分の利益を求める」という説明・ないし法の前提が完全ではないことを暗示する。 しかし、なぜ、人間は危険を冒してまで、情報を拡散させようとするのだろうか。
模倣子が乗り物である人間の脳に感染して、自分を拡散させるように人間を動かす、というモデルは、ある程度の説得力を持つ。 確かに良いアイデアは人間を突き動かし、自ら成長し、独り歩きしようとする。 模倣子に「乗っ取られた」状態にある人間は、その期間、脳内麻薬のようなものがたくさん出るのだろうか、 睡眠も食事も削って、創造に没頭する。
しかし模倣子たちの「社会」の利益を最大化する観点からは、例えば人間に音楽をむやみにコピーさせ、最終的にレコード会社を倒産させれば、 それはミームにとっても拡散どころか、長期的には自殺行為となりかねない。 これを説明するために、3パターンの異なる仮説が考えられる。
最後のアプローチについては、蚊の妖精学で説明されている。 羽音をたてたり、人間を怒らせないと繁殖できないことは、蚊にとって大きなハンディキャップであるにもかかわらず、 それこそが「強い」蚊を存続させている、という考え方だ。
これに似た行動は、生き物の世界では、いろいろあるようだ。 クジャクが無駄に豪華で動きにくい羽を広げて見せる行為とか、 小鳥のひなが捕食者に来てくれと言わんばかりにピヨピヨ大声で鳴くとか、 ライオンが来たときガゼル(シカのような動物)がすぐ逃げずにピョンピョン飛び跳ねて見せる行為とか…。 人間が病気になって死ぬのも、いつまでも生きると食物・空間などのリソースが枯渇して子孫の不利益になるからだ、と言えないこともない。
同様、ファイル交換と言っても、自分がファイルを取得することには興味なく(つまり交換ではなく)一方的に大量のファイルを与える「神」がいる。 ダウンロードせずにレート無限大でアップロードだけを続ける「シーダー」がいる。 前述のように、これらの一部は個人的な功名心とか、漠然と感謝されたくて、とか、むしゃくしゃして、とかいう従来の人間理論で説明できないこともないのだが、 それだけでは完全には説明できない。
「神」(ファイルを一方的に与える人)の行動原理がどういうものなのかは、よく分からない。 しかし、一般論として、ファイルを人にあげるという場合、 「広めたくって」「見てもらいたくって」「布教」という要素があるはずだ。
何らかの意味で(二次的、三次的にせよ)自分が作った・自分が加工したものを「広めたくって」というなら、古典的名誉心である程度、説明がつく。 しかし、そうではないもの、単なる機械的スキャンとか、誰が作ったか分からないファイルの中継とかでは、別の説明が必要だ。 「ダウンロードさせてもらったから、アップロードする」つまり結果的に「中継する」という単純モデルも十分ではない。 ダウンロードしてもつまらないと思われれば消されてしまい、取捨選択が働くからだ。 思想的・政治的理由で、などというのは、ましてほとんど誰にも当てはまらないだろう。
素朴に、人間には「良いものを広めたい」「自分が感動したから他人にも見せてあげたい」という気持ちがあるわけだが、 問題は、
第一に、いくら「この映画はみんなに見てほしい」と思っても、物理メディアを買い込んでたくさんコピーして駅前で配る人はいない。 一方、その作品の素晴らしさを解説するウェブページを作り、魅力的なシーンの画像を多少転載するくらいは、社会通念上、許されるし、 普通の意味で確かにその作品の利益になっていると言える。コスト、リスク、通念など、いくつかのパラメータがあって、どこかで何かが入れ替わる閾値があるはずだ。
第二に、これは重要なことだが、多くのファンはその作品・作者(アーティスト)を好きだから広めたいと考えるのであって、 決してその作品や作者に損害・不利益を与えることを目的にしていない、ということの不思議さである。 ごく無名の作品なら、どんな方法であれ広めれば、その作品にとって利益になるだろう。 また極めて有名で地位のある作品なら、多少侵害的に広められても、びくともしないだろう。 しかしその中間には、何が利益で何が不利益なのかハッキリしないものがたくさんある。 真のファンなら作品を貸し借りコピーなど一切せず、全部買え、というのも、現実的にはあまり妥当しない。 まず友達が興味を持ってくれないことには「布教」つまり広めることもできないので、 コピーしてあげるのは短期的にはアーティストにとって損だけど、長期的にはファンを増やすためだ、という「投機的」な行動も成り立つ。 それによって無権限の行為が正当化されるわけではないが、モデルとしてはそういうのはあるだろう。 また、絶版になって入手困難なものだと、ファンだからこそ、やはりファンである相手がどれほどそれを手に入れたがっているか、よく分かり、 融通してあげたいと思う。どうせ絶版なので、どこも損をしないとも言えるが。
第三が、最も難しい問題で、「作品」は、自分が広まるために「作者」と「受け手」という二通りの宿主に対してどういう戦略をとっていると考えるべきなのか。 作品の中には、クジャクの羽のように、実質がなく無駄に派手な部分が確かにある。それは実質的でないが拡散力に影響する。
これまでの社会では、作品は経済原理に従って人間に合わせて変容してきた。つまり、 ミームは、より多数がよりたくさん買ってくれるものに擬態してきた。 頭のいい「作者」は、この原理に従ってメジャー性を維持しながら、そこに自分の本当のテーマを巧みに織り込んできた、とも言える。 新しいスポンジケーキのレシピを試したいために、スポンサーの手前、本質と関係ないイチゴを乗せるような。 最近になって、それ以外の広まり方も出てきた…ような気がする。 例えば、オープンソースのソフトは、実質的にいいものが選ばれる傾向があって、実質的な機能性・使いやすさは重視されても、 表面的な見た目はあまり凝っていないことが多いのではないか。スポンジケーキが良ければ無意味にイチゴなど乗せないということだ。 少し単純化のし過ぎだが、正直なところ、どちらがいいとも言えない。本来作者が乗せたくて乗せたのでないイチゴでも、それ自体、 とてもおいしくて素晴らしいことはある。
いずれの場合でも、作品ないし模倣子は、純粋に利己的ではあり得ない。
宿主を喜ばせ、良いと思わせ、感動させることによって、自己を拡散させるのだから、 そのレベルで作品は利他的であるし、またそういう作品を作らせるように作者に働きかけるとも考えられる。
その「作者への働きかけ」の部分が、従来は「おれ(作品)を売り物にしておまえが人間社会で偉くなるのを助けてやろう。 ただし売れるように作らないとおまえが食っていけないぞ」という共生・交換関係だったのが、今はちょっと違うのも出てきたかなというくらいで、 本質的には、依然、作者・受け手の双方の好みに合わせて、ミームは作品に擬態する。 花粉を運ばせたい花が、昆虫の好みに合った蜜を出すようなものだ。昆虫は自分の欲望のままに蜜を盗んでいるつもりだが、まんまと花の戦略にはまっている。 ただし花も純然たるチートではなく、蜜をあげているのだから、フェアな取引ではある。
利益が一方に偏ると、 少なくとも一方が全滅し、場合によっては共倒れしてしまうので、結果的にバランスが取れた取引が残るのだろう。 安定した共存関係は、高レベルでは互恵的なのだろう。
花の蜜を「盗んでいる」ところを「地主」に見つかった昆虫は、 「蜜を盗んで目立ちたいという利己的な動機から花の権利を侵害し」などと、変な糾弾を受けることになる。 花にとってやたらと有害な虫がいるのも確かなので、地主が虫を嫌がるのも、理由のないことではないが、 巨視的には妙な切り口で物事を見ていることになる。
虫が絶対に入らないように花という花を厳重に密閉管理する地主は、 花そのものが受粉できずに次の世代を作れず、 売り物もなくなって、自滅する。そういう危険にひんした場合、花はもうどんな経路でも害虫経由でもいいから、とにかく花粉を飛ばそうとするだろう。