フェアリーランド

衝突


 そしてそれは起こったのです。

 わたしはなんとかまたミカを部屋に呼ぼうとしていました。彼は花粉症を理由
に外出をしぶっていたのです。せっかく受験が終わったのに。貴重な春休みなの
に。……ひどいと思いませんか?
 4月7日にA高の入学式がありました。桜は満開。天気は雨。柔らかな春雨が
通りの桜並木を灰色に煙らし、歩道に落ちたうすべに色の花びらが、行き交う新
入生に踏みにじられてゆきます。
 その日は午前で帰れました。高校の授業が始まってしまうとなおさらミカに会
えなくなると思い、
「今日なら雨が降ってるから、花粉症でも平気でしょ」
 学校前の電話ボックスから、彼に電話しました(当時はまだケータイとかが普
及してなかった)。
「ミカ、雨が降るとだるくなるしるし……。雨の日のミカはとことん眠い」
 などと出しぶる彼を、
「ダメッ。きょう会ってくれないと、嫌いになるからね! ね、お願い。お願い
だから」
 おどしたり、すかしたり。フランス語の鼻母音のような鼻にかかる甘い声で
「おン願いだから~。おン願い」と繰り返し、なんとか彼と時間の約束をしたの
も、あさましいことでした。
 彼が部屋に来るのは本当に久しぶりでした。でも、受験も終わって、ようやく
ふたりきりの時間を持つことができるのです――密室のなかで。いやがうえにも
期待で胸が高鳴ります。高校にも合格したことだし。ついに。いよいよ。今日こ
そは。唾をゴクリと飲みこんで。会ったら思いっきり甘えてやるんだから……。
高校に合格したんだからご褒美ちょうだいって。うふ。さぁ、早く帰って着替え
なきゃ。♪春の陽気にルンタッタ、デートの前にはきれいなパンツ(有馬が伝染
ってばかな歌を歌うわたし)
 ミカは車で来ました。外出のついでに楽器屋さんに寄って、楽譜を買ってきた
のだそう。雨が降ればすぐタクシー、それで気軽に買い物に行ったり――お金持
ちはいいなぁ(そのときにはもう雨はやんでいたのに)。ミカは楽譜に夢中にな
っていました。なんの曲のどういう箇所だったかよく覚えていませんが、ピアノ
曲なのに譜面が3段に分けて書いてあるというのです。ピアノの楽譜はふつう2
段になっていて、右手で上を左手で下を弾きます。3段……手は2本なのに、ど
うして3ついっぺんに弾けるのでしょう? 彼は机の上に楽譜をひろげて1ペー
ジずつ説明してくれたのですが、でも、そのときのわたしは、そんなことはどう
でも良かったのです。だって、半としぶりにやっとふたりきりになれたんですよ!
 しかも、来週から学校が始まれば、こうしてゆっくり会うこともできなくなっ
てしまうのに。楽譜に夢中になってわたしを見ようともしないなんて、2ぜった
い 許せません。
「とんとん。キスしてくださいません?」
 わたしはふざけていいました。彼の背後からしのびよって。右側から、そっと
ほほをすりよせます(母の左耳が不自由なので、長い習慣で無意識のうちに右側
へ行ってしまう)。
 いつかのように、ミカは横を向いて、ほっぺにキスしてくれました。
「もっと。ちゃんと。唇にィ」
 わたしはすねた声でいいました。彼を無理やり椅子から立ち上がらせて。
 それで。
 キスはしたのです。
 ミカは本当にほっそりとして、まるで花の精のようでした。きゃしゃで透明で
……。植物しか食べないせいか、男臭さが全然ありません。まるでカスミソウの
花束を抱きしめているみたい。抱きあっていると、脚がガクガクするほど幸せで、
うっとりと、体の芯がほてってしまいます。
 でも、ミカはシャイなのか、なかなかその気になってくれないんです。キスで
止まってしまって。前は胸までは自然と行けたのに。久しぶりだから照れている
のでしょうか。前よりおとなになっているはずなのに。「自分にだってしたい気
持ちはある」って手紙にも書いていたのに。したいなら、していいのに。してほ
しいのに。据膳がすえてしまいます。
 ええい、こうなったら……。
 ままよ、とばかりに、わたしは自分で勝手にどんどん服を脱いでいったのです。
さすがにちょっと恥ずかしいとは思いましたが、彼が勇気を出せないのなら、わ
たしが出すしかありません。そうでなければ関係は停滞し、いつまでたっても一
線を越えられないでしょう。ミカだって男のハシクレ。目の前にたたずむ全裸の
若い女性を見れば、その気になってくれるはず。
 恥じらいがちに、彼の前に立ちました。ハチミツのようにきらきらしているの
が彼にも見えたはずです。これでその気にならないなんて、男じゃないぞ。
「ハイッ」
 といって、それをミカに手渡しました。こういう場合に必要なものです。中学
の保健室にいっぱいあったので(エイズの関係でしょうか)、卒業の前、行きが
けの駄賃に少しもらってきて。生田エロ志は、こともあろうに、これをふくらま
せて、仲間とバレーボールをしていましたっけ。
 ここまでやると、肝もすわって、急に強気になりました。あとは、ミカにベッ
ドに運んでもらうだけ。そして……。
 ところが、なのです。
 ミカはおびえた目でわたしを見ました。それから自分の手を。まるで怪物でも
見るかのように、こわごわと自分の手を眺めて。
「あなたはミカに会いたいのですか?」少女のようなか細い声で、彼は尋ねまし
た。「それとも、ミカに抱かれたいのですか?」
 質問の意味を考えるまもなく、瞬間、ムカッときました。「ひどい!」――感
情と口が連動して、彼を一瞬にらんでいました。それから、急に、自分がやって
いることが恥ずかしくなって。まるで夢から覚めたように。その気もない男の子
の前で、女の子が勝手に脱いで一人芝居……。恥ずかしくて、穴があったら入り
たいほどでした(今の今まで逆のことを考えていたのですが)。と同時に、やっ
ぱり腹が立ちました。さらに同時に、自分がみじめなような、ミカが理解できな
いような、混乱した気持ち。心がこわれて、ぜんまいがほどけて、ハートのガラ
スが粉々に砕けて。気持ちのみじん切り。たくさんの思いがごちゃごちゃになっ
て。あんなに強気だったのに、気が動転してしまって。
 とにかく、ミカは今はわたしを抱く気がないらしい。それなら、わたしだけす
っぽんぽんでそこに立ってるなんて愚かしいことです。元どおりに服を着ました。
脱いだのと逆の順番で。「ごめんね……あたしって、ふしだらな女なの。嫌いに
なった?」今にも泣きだしそうな声でそんなことを口走っていたようです。
「菜美のことは好き」
 ミカの優しい声がしました。
 ホッとして気が緩んだとたん、涙が出てきて。嬉しいのか悲しいのかよく分か
らない。とにかく泣けて。
「でも、菜美の体は怖い。それに……」
 ミカは続けていいました。「ぼくが怖い」

〈一九九五年四月七日 No.180
 ミカへ
 きょうは来てくれてありがとう。それに、キスしてくれてありがとう。あたし
は来てもらった、キスしてもらった、の立場だから。
 あなたがいった言葉、あのときは、ムカッと来たけど、否定しない。会いたい
んじゃない。甘えたいの。ただおしゃべりするだけじゃなくて……。
 もっと優しくしてほしいって思ってしまう菜美はわがままですか? あなたに
とって迷惑ですか? こんなにミカが好きなのに。冷たくされると、つらいよ。
涙が出ちゃう。
 あなたにそばにいてほしい。
 あなたが好きだから。
 ミカのすべてが好きだから。
                     春川菜美より
 PS No.179の「花びらの上に寝そべること。銀河をそっと手にすくうこ
と」というところが気に入ったわ。ミカって詩人ね。やっぱり菜美はミカが好き。
花びらをしきつめた寝床にいっしょに寝そべりたい〉

〈カムフェアリ 一九九五年四月十二日
 いとしい菜美 No.180
 今あるミカを好きでいてくださるのなら、どうかミカがミカでいられるように
してください。
 ミカは人形に食べられてしまいそうでした。
 すると、もう、この世界には、いられなくなってしまいます。ミカはいなくな
り、動物のように動くからっぽの人形だけが残るでしょう。
 いとしい菜美。
 選んでください。
 もし、ミカと別れたくないのなら、肉体的なことを求めてはいけません。
 もし、肉体的なことを求めるなら、ミカはあなたとお別れします。
 花びらの上に寝そべること、というのは、しきつめた花びらの上に、という意
味ではないのです。野ずえで揺れる小さな花の花びらの上に、そっと寝そべるこ
と。これは想像力の課題です。チューリップのなかで、虫といっしょにお昼寝し
たり。チューリップなら、ゆりかごのようになっていて、花から落っこちる心配
がないでしょう? チューリップのなかでおしゃべりすると、花びこが響いて、
おもしろいんですよ。妖精は、花に香りのあかりをともします。花の音を聞いた?
 いたずら好きの風の精が、つりがね草を揺らすから。
 最近、夜明けの東の空で、金星と土星が接近しています。十四日の朝には大接
近。もし早起きしたら見てください。輝くビーナス。愛と美の星。土星は制限と
試練を表す陰気な星といわれていますが、ふしぎに清らかな、あわい銀色に輝い
ています。
 フィンランド語では、夜明けの金星を『蛾の星』と呼びます。毒々しいほどの
大粒の星が、空にべたっと張りついているからです。つりがね草は『猫の鈴』、
貝殻は『妖精の靴』、雪の積もった2月は『真珠の月』……。フィンランド語は、
変てこな発想をする言葉なのです。
 土曜日は月食! 晴れるといいですね。でも、日本の春はもやもやもや……。
晴れるでしょうか?
 「星空と大地のあいだで、
  草笛の祝いを申し上げます」
                      北原ミカ〉

 毎度毎度のことながら、ミカの手紙はどこかズレてて変てこりん……。
 ミカのつきつけてきた〝選択〟は、わたしには厳しすぎるものでした。いつま
でもいっしょにいたいなら、肉体的なことを求めてはいけない。もし、求めるな
ら、あなたと別れる。肉の交わりを持てば、ぼくはもうここには、いられなくな
る。彼はそういうのです。
 思いあまって、有馬に相談しました。
「美しいね」
 彼は(なぜか)くやしそうに微苦笑しました。「――病むほどに美しい。まる
で妖精と人間の恋愛だね。『オンディーヌ、君の愛は心。ぼくらはそれを体でも
する』」
「どうすればいいのかしら」
「ミカはまだ十四歳だろ。無理にどうこうしないで、自然にそうなってくるまで、
もうちょっと待ってみたらどうなんだ? 今のミカは夢みがちな“妖精”なんだ
からさ。その夢の世界を、大切にしてあげなくちゃ。やつにとっちゃ、自分の夢
の世界が、現実と同じくらい大切なんだよ……」有馬は(なぜか)せつなげな声
でそう言うのです。「このことでおまえがミカに愛想つかして、それでおまえが
おれのものになったら、おれは心の半分じゃ喜ぶと思うよ」狂おしい目つきで、
わたしを見つめました。「だけど、ふしぎなことにさ。おまえにそうは、してほ
しくないっつう気持ちがあるんだよな、おれのなかには。ミカのきれいな気持ち
をもう少し尊重してあげてほしいっていうか……。だいたいさ、フィンランドな
んて、ヨーロッパの端っこの田舎の国だろ。そこで育ったミカと、東京のおれた
ちとじゃ、感覚がハナから違うはずだぞ。向こうは、古風っつうか、純粋っつう
か。結婚するまでは清らかなままでいるとかさ……。だから結局、せんじつめれ
ば、おまえらの問題はカルチャーギャップなんだよ。日本じゃ中高生が平気でセ
ックスしたりエンコーしたりするけどさ。あっちは北欧の田舎だろ。森と湖の国
の。オーロラなんかがひらひらしてる――。そういうミカを日本のただれた文化
に引きこむより、おまえが向こうの清純な文化にあわせる方がいいんじゃないの
か」
 さすがは有馬。鋭い分析です。
 そうか、これはカルチャーギャップだったのか。
 有馬がミカの味方をしたことが、嬉しいような、悲しいような、割りきれない
気分でしたが(クレソンの後味みたい。さわやかなのにほろ苦い)、いずれにし
ても、田舎育ちの無邪気なミカを無理やりわたしのペースに巻きこもうとしたの
がいけなかった――その点は確かなようです。もう火遊びはやめて、結婚までは
清らかな関係でいよう、と反省しました。国際結婚を目指すなら、相手の文化を
尊重しなければ……。
 それでなくても、高校が始まってしまうと、忙しすぎて、デートどころではな
かったのです。A高は遠く、電車とバスを乗り継いでの行き来に時間を奪われて
しまいます。授業も7時間めまであって中学より長いし、宿題も多いし。背伸び
して(というより半分まぐれで)A高の特待などに入ってしまったため、入った
はいいけど授業についてくだけで精一杯。一生懸命、予習復習をしないと、どん
どん置いていかれてしまいそう。
 自分自身が高校生になって、ほかの高校生が目に入るようになると、前とは感
じ方も変わりました。髪を赤やパツキンに染め、ピアス穴をあけまくり、酒を飲
み、煙草を吸い、安易にセックスして、場合によってはクスリまでやって、むし
ろそれを自慢にしているような今の高校生の風潮にうんざりしてしまって。最近
のおもしろければなんでもアリみたいなテレビ番組も、なんかなぁ……。日本中
がただれてるというか、濁ってるというか。A高でもピアスくらいは朝飯前で、
耳は(学校に)バレるからといって舌にあけてるやつもいます。こうなってくる
と、もう刺激はたくさんで、逆に、清らかなものがいい、って思ってしまう。
 天使のように無垢なミカ。テレビも見ず、ゲームもやらず、自分の夢のなかで、
にこにこしている。妖精めいたふしぎな発想……。
〈友達と百八十億年後の待ちあわせをすること〉
〈虹の缶詰。薄くスライスした虹を、おいしい星くずシロップに漬けこみました。
ふみい味とみよらかな歯ごたえ〉
〈天の川をきれいに! 星くずを銀河に捨てるのは、やめましょう。星くずは星
くずかごへ〉
 なんて、すてきなんでしょう。彼こそわたしの魂にふさわしい人。わたしの魂
をうるおしてくれる人。そんな気がして。

 そんなわけで、高校に入ってからのわたしは、かえってカタブツになりました。
結婚までは清らかでいよう、といったん心に決めてしまうと、ふしぎとやましい
気持ちもわかず、勉強に打ちこめて。苦手だった理科関係も、初めから地道にや
り直すとだんだん理解できるようになり、とくに天文は得意になりました。ミカ
の影響でよく月や星を見上げるようになっていたので、三日月は夕方の西の空に
あるとか、下弦の月は夜中に昇るといったことが、いつのまにか〝経験にもとづ
く知識〟となっていたのです。そうなると、
「午前0時の満月? そんなの南に決まってるじゃん」
 テストだって楽勝です。ひとつできるようになると、それで自信がついて、ほ
かの分野もだんだんできるようになって。できないできない、わたしにはとても
ついていけないと思いこんでいたのが、いちばんの障害だったんですね。人間の
脳なんてみな同じ。やりゃーできるのよ。
 それに、わたしは、毎日ちょっとずつ、フィンランド語の勉強を始めたんです。
だって、将来はミカのお嫁さんになって、向こうに住むかもしれないでしょう?
 そういう動機なので、この勉強はすっごく楽しい。「パンはレイパ。じゃがい
もはペルナ。これは将来、買い物するときのために覚えておかなくっちゃ」なん
て、うきうきしちゃって。フィンランド語は音がおちゃめで、本当に妖精の言葉
みたいなんです。クッカ・カウッパ(花屋さん)とか、トゥリ・ティック(マッ
チ)とか。ムーミンは「ムーミ・ペイッコ」だし、スノークのお嬢さんは「ニー
スク・ネイティ」。自分のことはミニャっていうし、さよならはニャケミーン。
あいづちなんてニーン・ニーン。微妙に音色の違う2種類の母音を使いわけて、
歌うように発音するんです。そうそう、わたしの名前「ナミ」は、フィンランド
語では、子供の言葉で「おいしいお菓子」という意味なんですって!
 ミカとはあまり会えませんでしたが、毎週のように手紙のやりとりをしていま
した。かぐわしい文通でした。手紙の最後にフィンランド語で「ニャケミーン」
と綴ったり。ミカの手紙はといえば、ひどく難しいことが書いてあるかと思えば、
とつぜん幼稚でバカげたことが書いてあったり。ミカってほんとにフェアリーシ
ュ……
 ふたたび訪れた心の平安。夢のような、きららかな日々。学校の授業にもそれ
なりについていけるようになり、毎日が充実して。あとは結婚まで清らかにまじ
めに過ごせばそれでいい。そう悟り澄ましていたのです。
 が。

 崖から岩が転がり落ちてくるように、とつぜん恐ろしい事件が起こったのです。

 ことの起こりはこうでした。
 わたしの母は内科の看護婦をしているのですが、その母が、職場の病院でリー
サさんを見かけたのです。といっても、ミカやリーサがなにかの重病にかかって
いるとか、そんなドラマチックな展開ではありません。いや、考えようによって
は、もっとドラマチックなことかもしれないなぁ……
 なんだと思います?
 知らなければ絶対、想像もつかないようなこと。
 なんと、リーサさんは、産婦人科から定期的にピルをもらっていたのです。ド
オルトンという経口避妊薬。……ここで慌ててつけ加えると、わたしがそれを知
ったのは、母が看護婦としての守秘義務を守らなかったからではありません。母
がロビーを通ったら、たまたま薬を渡す窓口にリーサさんがいたのだそうです。
母は当然「あら」と声をかけました。母はプロですから一目でその薬がピルと分
かりましたし、リーサさんの方でも純真すぎる性格がわざわいしてか、正直に、
「毎月ピルをもらいに来てるんです。その……いろいろありまして……」
 と、頬を赤らめたとか。
 リーサさんは二十一歳の若い女性。いろいろあって当然でしょう。女性がピル
を飲むのは少しも悪いことではありません。むしろ、女性として、自分の体を大
切にすることにつながります。リーサはヨーロッパ人だし、欧米人は気軽にピル
を使うらしいし。
 その点はそうなのですが……。あの引っこみ思案のリーサ、外出が苦手な彼女
(そのために、買い物をわざわざ我が家に頼んでいるくらい)――彼女にどうし
てピルが必要なのでしょう? といったら失礼かもしれないけど、リーサさんの
性格を知っているわたしからみると、大きな謎です。避妊薬というのは、妊娠す
る可能性がある人に必要なもの。彼女は恋愛どころか、対人恐怖なのです。人と
口をきくのも怖くて、梨屋敷からは、めったに外に出ない。
 この状況で考えられる答はひとつしかないと思いませんか?
 ――おれに分かるのはさ、あいつ、ミカのこと愛してるぜ。それも、姉として
とかじゃなくね。
 あの雰囲気あやしいぞ。
 姉と弟で愛しあってるようなカットビなんだからさ。

 かつて有馬が語った言葉が、次々とよみがえってきます。

 ――あのふたりのあいだの愛情は、純粋に精神的なものでしょう?
 ――今のところはね。だけど、愛しあう男と女なんて、結局、行き着くとこは
ひとつだろ。あの雰囲気だと、きょうだいでもやりかねないぞ。学校いかずに、
子供ふたりきりで住んでるデカダンなやつらだからな……

 やっぱり、そうなのでしょうか? ミカは、あんなに純粋そうなそぶりで、
「ミカにはいっさい肉体的なことを求めてはいけません」と、わたしに意地悪を
いっておきながら、自分のお姉さんとは……。信じられない。信じたくない。世
界が百八十度ひっくり返ったようなショックでした。

 母によれば、ピルは生理不順などの治療に使われることもあるそうです。母は
梨屋敷のあやしい一面を知らないので、リーサとミカが、とは夢にも思っていま
せん。リーサさんにはどこかに恋人がいるか、それか、なにかの治療のために薬
を使っているのだと信じて。でも、それならそう言うのではないでしょうか。生
理不順なんです、とかなんとか。いろいろありまして……と頬を赤らめるとした
ら、やっぱり、いろいろあるに決まってます。ひどい話。清らかな人たちと思っ
て憧れてたのに。それが近親相姦、だなんて(まあ、戸籍上はいとこ同士らしい
から、いいのかもしれないけど)。
 やっぱり、この世には、きれいなものなんてないのでしょうか。ミカはリーサ
を愛しているから、わたしとは寝ないのでしょうか。信じられない。ミカからの
手紙はあんなに優しくて、愛情たっぷりなのに。あの優しさはぜんぶ嘘だったの?
 水に落とした墨汁のように、心のなかに不安と疑惑がうずまいて。
 悲しいきざしは、それだけではありませんでした。
 ミカとはまったく会わなかったわけではなく、月に1ぺんくらいは会っていた
のです。ところが、最近、ミカの様子がおかしいのです。以前はおびえる目をし
ていた彼なのに、今は満ち足りた仔猫のような表情で、ふにゃけてほほ笑んでい
ます。自分自身の本能的衝動が怖くてわたしに接近するのを避けていたはずなの
に、無邪気にわたしの肩にもたれてみたり。それまでは、ミカって本当にふしぎ
な人だなぁ、で済ませていたけど、リーサさんのピルのことを知ってしまうと、
ふたつの異変が符合するように思えてなりません。ミカの落ち着いた態度は、も
う菜美には欲情しない、ぼくにはもっといい相手がいる、という、そういうこと
なんじゃないかって……。前は異様にやせていた彼ですが、少しふっくらしたみ
たい。これも幸せぶとりなのでしょうか?
 いっそう理解に苦しむのは、それでもミカはやっぱりミカなのです。男が女を
知ればどことなくムードが変わってくるはずなのに、ミカの場合、あくまで無垢
な雰囲気で。姉と寝ているはずなのに、むしろ今まで以上に透きとおったみたい。
ますます人間離れした感じで、本当に、わたしたちとは違う世界の存在……妖精
みたいなんです。肌なんて、わたしよりずっときれいだし……。いったいどうい
う人なの、あなたって?

 例によって、有馬にご相談。
「ホントはいとこなのか! ああ、そうか。ハハハハ。じゃあ、ますますありう
るな。なんも問題ないもんな」有馬は冥い目をして唇を歪めます。「愛しあう若
い男女がひとつ屋根の下で暮らしていればさ、まあ、自然のなりゆきというか。
あのログハウスで、ふたりきりだもんな。当然の展開というか」
「信じられない。天使のようなふたりだと思っていたのに。ミカとリーサが、そ
んなこと……」
 ミカには早くおとなになってほしいと思っていたのに、それがこんな形で実現
してみると、心が引き裂かれるようです。悲しいのはミカが寝た相手があたしじ
ゃなかったから? それともミカがそういうことをしたってこと自体が悲しいの?
 ため息も重く、しおれかけた花のように、首をうなだれてしまいます。「悲し
い……悲しすぎる」
「まあ、だけど、それはいわゆるひとつの可能性ってやつで」しょげかえるわた
しに同情してか、有馬は優しくいいました。「ピルのことだって、ほんとに、リ
ーサさんに恋人ができたのかもしれないぞ。弟ばなれしてさ」
「そう思う? 本当にそう思う?」わたしはすがるような目で有馬を見ます。
「分かんないなぁ」彼は困ったように、わたしの目を避けて、視線をさ迷わせま
す。「リーサさんて、あの内気そうな性格だろ。外出もしないんだろ。男ができ
るっつっても、知りあう機会がなぁ。――本人にきいて確かめてみたら?」
「あなたはわたしのフィアンセと寝てますか、弟さんと寝てますかって?」
「たしかに尋ねにくいなぁ、それは。じゃあ、ミカに訊いてみたら?」

〈北原ミカ様
 変な質問するのを許してくださいね。
 ミカは、リーサさんと肉体関係を持ったことがありますか。
 どうか正直に答えてください。
                      春川菜美〉

 手紙を出すと、いつものように、すぐに返事が来ました。不安な気持ちで封を
切り、おそるおそる読み始めたのです。
 それは意外な内容でした。

〈カムフェアリ 一九九五年十二月二十三日
 いとしい菜美 No.210
 リーサに対して特別な愛情をいだいているのは事実です。でも、肉体関係とい
うのは、あり得ない話です。
 リーサの体には欠陥があります。彼女は先天性膣欠損で、いろいろな器官も未
発達なのだそうです。これは特に珍しい症状ではなく、数百人の女性がいれば一
人か二人は多少なりともこの種の欠陥を持っているといいます。致命的な欠陥と
いうわけでもなく、手術によって治療することができます。リーサも手術を受け
るつもりでした。そうすれば、妊娠は不可能としても、女性としてまっとうな体
になれるのです。
 しかし、ある悲しい事件がきっかけで、リーサは誓ったのです。一生、男性と
は交わらないと。手術は受けないことに決めました。
 リーサは考えます。自分の体の欠陥は、スティグマ、つまり聖痕なのだと。
 いとしい菜美。どうか、イースターのことを思い出してください。リーサは聖
書の次の部分を朗読したでしょう?
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もい
るが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は
受け入れなさい」
 そして、アーメン(受け入れます)といったのです。
 一生、清らかなままでいることを誓っているリーサ。彼女が、菜美のいうよう
な事柄にくみするわけがありません。
 そして、まさにその理由で、ぼくはリーサを愛しているのです。
                      北原ミカ〉

 この手紙を読んで、すべての謎が解けたような気がしました。リーサさんのふ
しぎな雰囲気。天使のようなほほ笑み。なぜ日本にとどまりフィンランドに帰ろ
うとしないかまで、想像がつくような気がしました。
 じゃあピルは、避妊の目的ではなく、身体的な問題に関係したなにかなのでし
ょう(ホルモンのバランスを整えるとか)。母にこの話をすると、やはり、それ
ならそうなのだろう、との答。片耳が聞こえない母は、同じく身体的な不自由を
持つリーサにとりわけ同情したようで、
「こういうことでは、変に同情を示さず、善意の無関心で接しなさい。こちらか
ら話題にするのも避けなさい」
 と、アドバイスしてくれました。
 わたしは安堵のため息をつき、恋人を疑った自分を悔やみつつ、ふたたび元の
楽しい日々に戻っていったのです。
 ところが、話はこれで終わりにはなりませんでした。というより、このあとに
起きた出来事こそ、この物語の核心なのです。

 病院へは救急車で運ばれたそうです。不意に心臓の発作を起こして。わたしが
高2の夏。ミカは十五歳でした。
 よほどの想像力の持ち主でも、まさかこんなことがありうるとは考えないでし
ょう。先ほど話題になったリーサさんのピル。あれは、リーサが自分で飲むため
のものではなく、ミカが服用するために、リーサが(自分で飲むふりをして)入
手していたものだったのです。 男性がピルを飲むと、性欲がなくなるのだそう
です。男の生理が嫌だったミカは、この理由で、ひそかにピルを飲み続けていた。
それも通常の3倍の量を。女性がふつうにピルを使う場合、毎日1錠ずつ3週間
つづけて飲んで、それから1週間、休みます。この休みは自然の生理の周期を保
つためのもので、休薬によって体を休める意味もあります。ところがミカは、休
みなしで、それも1日2錠ずつを飲み続けていたのです。子供がピルを飲むなん
て、それだけでも危険性が大きいのに……。おかげで血液の粘度が高まり血栓を
生じやすくなったほか、前々からの偏食もあって、血液のなかのミネラルのバラ
ンスが狂ってしまったらしい。血清電解質異常といって、命にかかわる重大な病
気でした。
 彼はずっと、自分の体とのくるしい戦いを戦っていた。自分の体の望む行為が
イヤだった。その行為とは、例えば、わたしと肉体関係を結ぶこととか、あるい
は、自分で自分の体の欲求を処理しようとすることです。そうしたことにある種
の罪悪感なりうしろめたさを感じるのは、思春期の少年においてはそう珍しいこ
とでもないのかも知れません。ただ、ミカの場合、その程度があまりに極端だっ
た。命にかかわるほどに。
 頭の働く子でした。近所の図書館でいろいろな専門書を調べ、エストロジェン
を服用すれば男性の機能が働かなくなること、そしてその目的のためにはいわゆ
るピルを毎日2錠ずつ飲めば充分だということまで、つきとめたのです。フロイ
トが人間のエネルギーの根源と考えた性欲も、ミカにかかれば、マイクログラム
単位の微量の化学物質でコントロールできるただの生化学的現象になってしまう
のでした。極端にスピリチュアルなところのあるミカですが、このあたりの思考
は驚くほど即物的です。もともとそういう子でした。彼の精神は、物事を詩的に・
直感的にとらえ、論理を無視していきなり最終的な結論を見透かします。そうか
と思えば、他方において、彼は高度な数学の定理を緻密に論証してゆくロジシャ
ンでした。分裂しているというより、正反対のふたつの傾向が手を取りあい、互
いに強めあっているのです。「こんな命題が成り立つ」と直感的に見抜き、次に
はそれをロジカルに、厳密に証明する。フェアリーの世界とロジックの世界を結
びつけるフェアリオロジスト。最もかけ離れたものをひとつに結びつけてしまう、
そんな不可思議な精神構造の持ち主なのです。全人類のなかで、ああいうタイプ
はあいつひとりかもしれない、と有馬が評したように。
 ――「気持ちのいいこと」がなんでそんなにイヤだったのだろう? それは子
孫の繁栄・人類の存続とも関係する最も基本的な生命のいとなみではないか。
 そういって首をひねる人もいるでしょう。わたしには、むしろミカの気持ちが
よく分かるのでした。考えてもみてください。セックスをけがらわしく恐ろしい
ことだと思っている十四歳くらいの少女がいるとして、その少女に向かって「ど
うして気持ちのいいことがイヤなの?」と尋ねることが、効果的な説得になりう
るでしょうか。そんなことをいわれれば、少女はますますぞっとして、おとなを
恐れるばかりでしょう。そういった少女たちの気持ちは、人間として未成熟なも
のではあっても、少なくともその瞬間においては、純粋で、真実なのです。むし
ろふしぎなのは、少女たちはなぜそういった気持ちをいつか捨てることができる
のか、という、そちらの点ではないでしょうか。それは、わたし自身を振り返っ
てみても、本当には分からないことなのです。
 ミカは純粋病の少年でした。そういった嫌悪感を、ついぞ乗り越えることがで
きなかったのだから。「人形」である自分の体の欲求に身をまかせれば、「自分」
は人形に飲みこまれ、人形になってしまう。自分は殺されてしまう。そんなふう
に感じていたらしいのです。
 自分の世界と現実の肉体のギャップに悩んだ彼は、ピルを飲めばいいという、
妙な(しかし合理的な?)結論に達し、それをリーサさんに話したのでしょう…
…。リーサはミカの心を愛していました。ミカの心の味方をしたのです。「人形
に食べられて」はいけないと。ミカが毎月六十錠、つまり3人分の薬を必要とし
たため、あちこちの病院をまわって、3か所で毎月、薬を受け取って。わたしの
母のいる総合病院はなるべくなら避けたかったのでしょうが、近所にそうそう産
婦人科もなく、選択の余地がなかったのだと思います。

 やっかいなのは、このあとでした。非常にやっかいな問題が起こったのです。
 まだ子供なのに、大量のピルを飲み続け、体がおかしくなったミカ。そして起
こった心臓発作……。薬をやめれば、解決する。そうすれば、体も元に戻る。け
れど、ミカは、薬をやめることに抵抗してパニックになってしまった。
 せめぎあうミカと「人形」。魂と肉体の相剋。彼はついに、薬を飲めば楽にな
ることをつき止め、1年以上、楽な状態が続いた。そのあとで、また元の苦しい
状態に戻れるのだろうか? ……これが彼の問題の核心でした。いちど楽な状態
を知ってしまうと、元の苦しみに戻るのはいっそう困難になります。といって、
薬を飲み続ければ、血栓や発作で、命にかかわることになりかねません。薬をや
めることは医師からの至上命令。投薬は中止されたのです。するとミカは、自分
の肉体の性の本能が怖いあまりに、極端な拒食に陥ってしまった。
 彼の身体は病院の監視下に置かれました。いっさいの飲食を拒み、口を堅く閉
ざしていたので、彼の身体を生かし続けるには特別な栄養補給が必要だったので
す。ミカ自身は、自分の体に食べられてしまうよりはと、逆に自分の体を殺そう
とたくらんでいた……とにかく彼はパニック状態だったのです。医師は、経中心
静脈高カロリー輸液という手段で、ミカの人形を生かそうとする。ミカはそのチ
ューブを抜いてしまおうとする。だから、彼の手足をベッドに縛りつけておかな
ければならない。それでも彼は抵抗する。自分の体を滅ぼそうとする。悪夢をみ
ているような表情で現実世界を見まわすミカ。彼にとって、現実は夜みる夢のよ
うなものでした。それもきわめつけの悪夢――最も根源的な死の恐怖を突きつけ
るもの――なまなましい肉の刃が、土から生えた百万本の手が、イソギンチャク
の触手のようにたゆたいながらどこまでもどこまでも追いかけてくる。蒼ざめた
月から流星のように血がしたたり、チョウはすべての羽根をもがれ、泥のなかに
踏みにじられてしまった。轟音とともに打ち上げられる巨大なロケットの炎の下
で。優しい草花は一瞬にして灰となって消えてしまった。世界を満たしていた光
は。子供時代に花のなかに見えていたひみつは。子供は名づけることを知らず、
おとなには見ることさえできないものは。それを忘れてしまったという事実を思
い出すことさえできなくなった、なにを失ったのかさえ思い出せない、悼むこと
すらできない完璧な喪失という悪夢の悪夢。いちばんいとしかった子供をあなた
は失い、その子がいたという記憶まで失ってしまっているとしたら……。
 いうまでもなく、病院の人間はミカの体の味方でした。ミカの体に睡眠薬を注
射して、ミカが眠っているすきにミカの体に大量の栄養を注入するという
“卑劣”な補給さえおこなったのです。ミカはただひとり、健全な人間たちに取
り囲まれ、孤立無援でした。自分の人形に食い殺される。そんな恐ろしい刑罰。
罪名は「現実よりも妖精を愛した罪」。

 これがマンガや小説なら、主人公がピンチのときに、思わぬ救いの手が差し伸
べられたりするものです。でも、この冷たい現実世界において、ひとりぼっちの
妖精妄想の少年を、いったいだれが救ってくれるというのでしょう。まわりの人
間たちは、むしろ、彼を妖精の国から引き戻し、現実世界に適応させようと手を
尽くしているのです。にこにこと優しい笑みを浮かべて。「なんで食事が怖い
の?」「なんで気持ちのいいことがイヤなのかな?」「愛の交わりとおいしい食
事、それが人生の歓びじゃない!」
 現実的に考えても、空想的に考えても、まともな人間が、拒食症の少年の死に
いたる気持ちを応援するなど、絶対にありえないことです。

 ところが、現実は小説よりも奇なるもの。まったく思いもかけぬところから、
ミカの味方が現れました。詳しい事情が明らかになるにつれて、驚くべきことに、
治療者自身のあいだに、ミカの心に味方する機運が生まれたのです。ミカの行動
はたしかに病的でしたが、自分の体の性欲が恐ろしい、それにたえられない、と
いう繊細すぎる彼の神経は、ふしぎと周囲の人間の心を打ち、ナースたちをして
ある種の優しい目を彼に向けさせたのでした。ミカの心は現実不適応の困ったも
のだと頭では判断するのですが、それでも、彼の純粋すぎる気持ちには、わたし
たちの心のどこかにある「なにか」に響いてくる部分がある。共鳴が起こるとし
たら、きっと、どこかに同じ波長の音叉があるのでしょう。きっと、わたしたち
の心のなかにも、小さな妖精がいるのでしょう。
 彼は自分の体の性欲にたえられない。それさえなければ「人間の体のなかで」
生きられる。それなら体も生かしてミカも生かす方法があるではないか。性欲の
元になる器官を手術でとってしまえばいいのだ。そんな話が、初めは冗談まじり
に、そして、しだいに強い現実味を帯びて、語られるようになりました。この手
術は技術的には簡単なもので、去勢手術と呼ばれています。ミカも乗り気でした。
自分の体の性をなくしてしまいたいと願っていたのです。
 取引が成立しました。さしあたっては、副作用の少ない特別な薬を使って性欲
をなくしてしまう。そのかわり、ミカは食事を拒んではいけない。きちんと食事
をして、体重がある程度まで回復したら、その時点で手術の可否を真剣に検討す
る。実現を目指す方向で。
 いっけんもっともらしい話ですし、じじつあの状況では最善の選択だったので
しょう。そうでもしなければ、早晩ミカは、自分の体を餓死させるか自殺させる
ことを選んだに違いないのだから。今は彼の体を監視し、無理やり栄養を補給し
ていますが、一生こんなことを続けるわけには行きません。もし退院させれば…
…。彼はまたひそかにピルを飲みだして、結局、心臓発作で死ぬかもしれません。
あるいはこの世に嫌気がさして、もっと直接的に、自分の「人形」を殺すかもし
れません。一生、監視をつけて病院に閉じこめるか、退院させて不幸な結果を招
くか、ということを考えれば、第3の選択として、体の性機能を破壊してでも、
彼がそのまま普通に世の中で生きられるようにした方がいいに決まっています。
 ミカもゲンキンなもので、この取引が決まるやいなや、早く体重を増やそうと
ばかりに大量の食事をとり(果物と野菜しか食べられない彼のための特別の病院
食ですが)、そればかりか、前はあんなにいやがったIVH(高カロリー輸液)
をみずからせがむのです。
 でも、たとえ体重が回復したとしても、手術が本当に行えるかどうかは微妙で
した。難しい問題がいくつもあったのです。問題の第1は法律的なもの。日本で
は、去勢手術は優生保護法によって制限されています。第2には倫理的問題。仮
に法律問題がクリアーできても、そんな変な手術が社会通念上、許されるのでし
ょうか。第3に家族の同意。ミカは未成年なのだから、ご両親が「そんなばかげ
たことは絶対に許さない」といえば、執刀は困難でしょう。
 以上の3つは、どれも大変な問題ですが、もうひとつの問題――4番めの問題
は、わたしにとっていっそう深刻なものでした。つまり、わたしはどうなるのか、
ということです。
 わたしはミカのフィアンセなのです。彼と婚約しているのです。彼がそんな手
術を受けることに対して、いったいどんな態度をとればいいのでしょう。性を捨
てるということは、子供を作ることはおろか、そもそも夫婦の交わりも不可能に
なるということ。
 そんな手術を受けるんなら、結婚なんてできっこない、婚約は解消……。そう
言い切れるなら、話はどんなにか簡単だったことでしょう。わたしの問題は、も
っと複雑でした。わたしは愛しているのです。愛してしまっていたのです。ミカ
の心を。だから、彼が手術を受けることには賛成でしたし、彼の純粋な気持ちに
は共感さえ覚えていた。わたしはミカの味方。小妖精のようなおちゃめな彼とず
っといっしょに暮らしたい。わたしはそれを望んでいる。でも、それにたえられ
る自信がない。だって、本当は、やっぱり彼に抱かれたいのです。それが正直な
気持ちなのです。彼の純粋に惹かれるのも真実なら、肉体的なことに引かれるの
も真実のわたし。彼の心も体も全部一体として愛している。だって、それが人間
の愛でしょう? 心の愛の証しとして体の交わりがある。それが人間の愛でしょ
う?
 でも、そうしなければ彼が死んでしまうというのなら、彼が性を捨て、人間と
交われない体になることにだって同意できる。そこまで彼の精神を愛している。
愛したいと願っている。
 肉の交わりなしに、一生、彼の精神だけを愛しつづけること……それは至高の
愛かもしれません。でもたえられない。そんな純粋すぎる愛。わたしは人間なん
です。心と体があるのです。妖精のようには振る舞えない。
 事ここにいたっては、有馬猛も、もはやミカを単なる精神異常と決めつけ、ミ
カを想うわたしの気持ちを支持してくれようとはしませんでした。そんな結婚を
すれば、おまえが不幸になるだけだ。ミカと別れろ、おれと結婚しよう……。彼
は、わたしが妖精の世界か人間の世界かどちらかを選ばなければならない、と考
えていました。そして、妖精を捨てて人間を選ぶべきだ、とうながすのでした。
わたし自身、結論はともかく、同じような二分法におちいっていました。そして
苦悩の日々を送っていたのです。
 ミカに手紙を書きました。ありのままの気持ちを正直に綴って。純粋なあなた
を愛しつづけたいと切に願う。でも、そんな純粋すぎる愛にはたえられそうにな
い。恐らく、たえられないだろう。それでも、あなたを愛したい。愛しつづける
つもりだ。それがわたしの純粋。
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