フェアリーランド

ただ憧れを知る者のみが


 有馬と恋愛するわたしも、本当のわたし。ミカと心で愛しあうのも本当のわた
し。べつに分裂しているとは思いません。あるいは、分裂しているとしても、こ
の分裂が悪いとは思いません。だって、わたしは本当に、心も体も魂も、いつも
生き生きとしていたんです。有馬だって、ミカとわたしのプラトニック・ラブに
嫉妬したりはしません。それどころか、彼もミカを愛している。ミカだって、有
馬とわたしの人間の恋愛に嫉妬したりはしません。彼も有馬を愛しているのです。

 秋分の日の夜明けは、ほれぼれするような朝焼けでした。連休を利用して、有
馬とわたしは、いつかミカと訪れたあの江ノ島の海岸に来ています。
「おれ、生田に手紙かいたんだよ。ミカ流に言やぁ『自分の魂にうながされて』。
あいつに謝んなきゃいけないと思ってさ」
 有馬は海の風を真正面に受けながら、少し大きな声でいいました。きらめく海
のまばゆさに、目を細めながら。ほっそりとした生田広志――栗色の髪の彼のこ
とを、わたしは懐かしく思い出しました。
「『男ならみな同じ』じゃない。この世には、きれいなものもある。おれが間違
ってた。って。……したらやつから電話が来てさ。あいつ、高校で彼女できたみ
たいだよ、エロ志のやつ。だけど、おまえのことは、今でもきれいな思い出らし
い……。春川を幸せにしてやってくれ、だってさ」
「――嬉しいな。そんなに想ってもらえて」
「『春川は自分で選ぶ』って答えたよ」
「なにそれ? どういう意味?」
「春川を幸せにしてやってくれ、に対する返事」
 そういって、有馬は、砂浜の上を静かに歩き出しました。わたしもそのすぐう
しろを歩き始めながら、
「あいつ、今でも亀有に住んでるんだ?」
「うん。あ、そうそうそう、それでね。あいつ、またバンドやろうって」
「え? まじ?」
「ああ。『離れ島』は火の鳥のようによみがえる。3年の沈黙を経て。だから、
菜美、またボーカルやれよ」
「ウン。いいよ。……でも夏木はどうすんの?」わたしはうきうきと尋ねました。
「ああ、のっぽの夏木ね。マサちゃん。正伸ちゃん。あいつ、どうかな。やるか
な。ほかのメンバー入れてもいいけど。うーむ……。でも、やっぱ夏木だよな」
「そうだよォ。あいつがいなくちゃ。まとめ役じゃん。世話女房というか」
「だけど、あいつ、今ちょっとシリアスな人生、送ってっからな。やるとしたら、
あいつ……女性として参加すると思う」
「え!? どういう意味?」
 わたしはびっくりして立ち止まってしまいます。有馬は振り向いて、
「文字通りの意味だよ。……べーつに偏見もつ理由ないだろ。ハートは大きく。
多様な人間存在を認めるべし。未来は可能性の宝庫ってね」
「――驚いたなぁ。そんなことがあるんだ」
「ああ。おれは、いつも、あいつの味方だった。彼は真実だったから」
 わたしは厳粛なおももちでうなずきました。「じゃあ、あたしも。彼の魂をみ
る」
「彼というか。彼女、だな。フフ」
「日本語は不便ね。そんな区別があって。フィンランド語だったら“彼”も“彼
女”も初めから同じひとつの言葉なのよ」
「……まるで天使の言葉だな」
 海は凪いで、ミラーボールのように、光の破片を揺らしつづけていました。一
面のマリンブルーのなかで。片瀬海岸から江の島へと続く長い橋が、美しく輝い
ていました。

 春が来ると、わたしは高3。またまた受験生というわけです。でも……。いま、
わたしは迷っています。ただそれが当たり前だからというだけの理由で、惰性で
大学に行きたくない。受験のための、無意味な詰めこみ勉強。全部が無意味では
ないにしても、年代や名前の丸暗記にはうんざりします。うわさによれば、大学
とは、そのストレスを発散させて遊ぶところだとか……。大学という名のレジャ
ーランド。ないしは幼稚園。
 いっそ、バイトしながら独学したほうがいいのではないか、などと考えてしま
います。英語とフィンランド語はネイティブの先生についてみっちり学ぶ。数学
や人文科目は、放送大学なども利用しつつ自分で勉強する。大学に行くお金があ
るなら、その方がよっぽど合理的ではないでしょうか。
 遠藤綾香ちゃん(高校でできたわたしの初めての同性の親友)のお兄さんの行
っている某有名私立大学では、講義中、学生がうるさすぎて、先生の声も聞こえ
ないほどだそうです。そして、コンパだ、サークルだ、イッキだ、代返だ、はた
またレポートの代書に出席カードのごまかし、なれあいの単位認定……。例外も
あるにしても、平均的な日本の大学はみんなそんなものなのだとか。わたしはそ
んな濁った生活に巻きこまれたくありません。あぶらぎった、ぶよぶよに太った、
刺激的で、そのくせむなしい生活。
 わたしが求めるのは芯なるもの、核なるもの、研ぎすまされたもの、ぎりぎり
のエッセンス。魂の目を見ひらいて、自分で選択し、自分で歩きたいのです。
 世界中の詩を読みたい。星の名前を覚えたい。旅をしたい。山に登りたい。走
りたい。風を切って。どこまでも、どこまでも。走っていきたい。
 どうなるかは、まだ分かりません。A高の先生は、「独学!? 馬鹿なこという
な。若い頃はそういう夢みたいなことを考えるもんだがな、現実の社会は」なん
たらかんたら、お説教。特待生にして学費を免除してやっているのに、進学率を
あげてもらわねば困る、というわけでしょう。でも、もちろん、最終的には、A
高のプライドより、わたし自身の感覚を優先していいのです。だって、これは、
わたしの問題だもの。わたしの人生はわたしのものだもの。
 有馬もわたしの考えに賛成していますが、ただ、彼には音楽学校に進みたいと
いう気持ちもあるようです。彼の場合、音楽のセンスは天才的ですが、音楽の理
論的な面、アレンジの力学やハーモニーの問題には弱いのです。インスピレーシ
ョンは豊かでも、それに適切な形を与えられずに苦しんでいる。インスピレーシ
ョンの暴走、エネルギーの空回りにおちいっている。それで、技術的な専門の勉
強を一からやり直してみたいのでしょう。ピアノがへたな彼が本当に音大に入れ
るのか少々疑問ですが、彼はいま毎朝6時に学校に来て、音楽室でピアノをさら
っています。本当は有馬の家にもピアノはあるのですが、父親がうるさがって、
なんとピアノのふたに鍵をかけてしまったのだそうです。それでも、有馬のいわ
く「意志のあるところに道はある」。
 わたしもそう祈っています。

 ミカとリーサがふるさとへ帰っていったのは、一九九七年の二月、彼らの言葉
でいう「真珠の月」のことでした。組立式のログハウスというのはおもしろいも
ので、梨屋敷の建物はあとかたもなく消えてしまいました。家の土台ごと、引っ
越してしまったのです。
 それでも、わたしとミカの距離は変わりません。肉体の距離は、もはや問題で
はなかったのです。変わったことといえば、切手代が八〇円から一一〇円に増え
たこと。問と答の間隔が少し長くなったこと。そのほうがかえっていいこともあ
ります。自分が手紙に書いたことについて、返事が来るまでのあいだ、自分でも
よく考えてみることができますから。
 有馬も時々ミカに手紙を書くようになりました。有馬はずっと、自分の母親の
死のことを話題にできないでいた……わたしと有馬の間でさえ、その話題は慎重
に避けられていた。その有馬が、ミカに宛てて、みずから過去を語り始めたので
す。
 ここに1通の手紙のコピーがあります。有馬がミカに宛てて書いたものです。
差し障りがあるので全部は引用できませんが、この手紙を読むと、有馬という人
間の二面性が見えてきます。彼は愛に飢えているのに、甘えるのが怖い。重症の
愛情失調なのに、愛情不信だったのです。

〈ミカへ
 手紙をありがとう。君のあのまんまるい目が見られなくなったのは、ちょっと
寂しいな。菜美との事では改めて礼を言うよ。それから質問に答えてくれてあり
がとう。確かに家の環境が悲惨だったおかげで今の俺がある。家庭が平和で円満
だったら子供ながらに自分の頭であれこれ考えてみる事もなかったろう。そして
確かに俺は今の俺に基本的には満足してる。だからおやじの事が“姿を変えた祝
福”というのは、その意味では正しいと思う。自分の人生を呪った事もあったけ
ど、これでかえって最短距離だったのかも知れない。“まわり道はその道を歩く
ための最短経路、汽車が遅れたから会える人がいる”か。君は本当に詩人だね。
 ハッキリ言って君の才能には舌を巻くよ。特にあの俳句が良かった。“石段こ
つこつこかんを響くころ ほおずき”――これには参ったね。Kの響きがいかに
もコツコツして痛そうだし、ほおずきという言葉には、手術が実現してホッとす
る感じと、でもズキッと来る感じがサブリミナルに入っている――“ホーッ・ズ
キッ”っとね。しかも、ほおずきという言葉は、去勢手術の術式を見事に暗示し
ている。おまけに季語にもなってるんだ。参ったよ。一番驚いたのはシャワーを
浴びていてふと思い付いたという点だな。考えに考え抜いた句じゃないって事が
さ。こかんに、でなく、こかんを、と言う所もいいよ。オの響きがメロディアス
で。
「諸君、脱帽したまえ、天才の出現だ!」

 サリンジャーのバナナフィッシュでは、純粋病のシーモアは追い詰められてピ
ストル自殺する。大島弓子のバナナブレッドでも、純粋病の少女は追い詰められ
て死を考える。それから君は日本のテレビの事は知らないだろうが、去年だかに
純粋をテーマにしてヒットしたドラマがあってね、その場合も純粋を実現するた
めに恋人の一方を殺してるんだ。吉原幸子の詩にも“私達が再び生きるためのも
のは夢と恐らくは死だけ”とある。確かに死んでしまえば肉体関係はなくなる。
その意味では“純粋”で清らかだ。だけど君の選択はこれらを超えてるね。“夢
あるいは死”でなく、もう一つ“手術”もあるよ。純粋病には。自殺なり死を一
つの結末として肯定するくらいなら、性を捨てる手術だってアリだよな。
 母親がいなくなったのは、俺が七つの時の事だ。なぜ自殺したのかは分からな
い。病弱だったことプラスおやじの浮気が原因らしい。
 その時まで俺は無邪気な普通のガキだった。菜美と花冠作って遊んだりさ。子
供だけが住む事のできる天国にいたんだ。だけどそれからは目茶苦茶さ。君が言
うように、この事は俺にとっては姿を変えた祝福と言えるかも知れない。ものす
ごく視野を広げればね。だけど母親はどうなる? おやじの浮気が姿を変えた祝
福か? それで死んでしまったら祝福もクソもないじゃないか。この部分に関し
てだけは、俺は君の説に納得できない。もっとも母が自殺してから、おやじも目
茶苦茶に変わった。自業自得さ。自分で自分の首を絞めてるような生きざま。だ
からおやじの犯した罪については罪と罰のバランスが取れてるのかも知れない。
だがそれにしたって死んだ人は帰らない。死んだ母親の名前は美香(はるか)っ
ていうんだ(ああ、この美香っていう字を書くのはすごく久し振りだな、手が震
えたよ、今)。だから俺は春川のことを春川と呼ぶ時いつも微妙にほの暗い気分
を味わってきた。それで大抵はおまえと呼んでいた。菜美って呼べる関係になっ
て嬉しいよ。これも君のお陰だ。それから今気付いたけどこの美香という字は偶
然にもミカとも読めるね。何だか不思議な気がするな。まあ、それはともかく、
それ以来ずっと母親という言葉を聞くだけで体中が一気に冷たくなった。ぞわっ
とね。友達に“お前の母ちゃんいないだろう”ってからかわれた時にはすげえも
う死にそうだったよ。頭ん中が真っ白んなって。パニックっていうのかな。回り
の音が遠くなって。でもこの事件すら菜美の美しさが俺の前に現れるためには必
要だった気がする。
 俺が今考えてるのは早く自立しなければいけないって事。おやじを憎みながら
他方ではおやじの金で生きてる(まあ高校は特待だから学費免除だけど)。この
矛盾が俺の無力感やイライラの原因なんだと最近とみに思う。それに俺は偉ぶっ
てるっていうか学校では精神的に強い奴で通してるけど、本当は弱いんだ。精神
的な依存度が高いっていうか。本当は甘えたい。だけど甘え方が分からない。と
言うより甘えるのが怖いんだな。弟の守(まもる)もそう。俺たちはもともと甘
えん坊だった。母親への愛着が強かった。だけど母親は俺達を捨てた。人を愛せ
ば捨てられて傷付くかも知れない。人を信じれば裏切られるかも知れない。愛さ
なければ捨てられる事もないし、信じなければ裏切られる事もない。そんなヒネ
クレた事を考えてしまう自分が嫌だよ。自分でそう考えたくないと思うように心
が勝手に考えちまう。すべては過去のせいだ。
 俺は過去をフッ切って精神的に独り立ちしたい。経済的にも早く自立していっ
たん父親から離れて頭ん中整理して。それから逆にこっちから親に仕送りしたい
って気がする。一方では経済的な貸し借りをゼロにして完全に縁を切りたいとも
思うし、他方では「これ俺の稼いだ金で買った酒だよ一緒に飲もう」なんて言っ
たらさ、向こうも悪い気はしないと思うんだ。何とかおやじの心を溶かしてさ。
昔の様ないいお父さんに戻ってくれないかな? とか。甘いかな?
 父の名前は勇(いさむ)っていうんだ。君の父親の修氏とは似て非なるものだ
よ。今の所はね。だが愛してくれる奴を愛する事なら誰にでもできる。愛のない
相手を愛する事。そういう厳しい戦いが俺に課せられた試練なのかも知れない。
けどそれは思弁的にそう考えるだけで、今の実感としてはやっぱりおやじが許せ
ねえ。だから結局俺は矛盾した人間なんだ。自分の理想とする事を憎んでいる。
ただ菜美に甘えられるのは嬉しいよ。菜美がまるで天使のように思える。母親は
俺が七歳で逝ってしまったが菜美は俺が四歳頃からもう十三年の付き合いだしね。
恥ずかしい話だけどハッキリ言ってしまうと俺は赤ん坊のように菜美の胸に甘え
てしまう。お母さん、なんて言っちゃうんだ。恥ずかしい話だけどね。でも菜美
はそんな俺をしっかり抱きしめてくれる。
 ミカ、君の存在も大きいよ。君達は俺に愛を与えてくれる。にもかかわらず君
達の中の愛が減る訳ではないらしい。俺は君達から愛を受けているが、君達は愛
を失っていない。神秘的だ。与えても与えてもなくならない。君達の愛の泉は不
思議なポケットのようなもので、いくらそこから愛を出しても空っぽにはならな
いらしいね。だが一層驚くべきは、同じ事が俺自身にも当てはまるという事だ。
俺は確かに菜美を愛している。彼女は俺から愛を引き出していく。にもかかわら
ず彼女に対する俺の愛はいや増しこそすれ減りはしない。何という事、俺の中に
も魔法のポケットがあったんだ!
 思うに、このポケットは君達の言うフェアリーランドにつながっているらしい
ね。それが俺なりの解釈だ。心の中にある“狭い門”がひらくと、門の向こうの
妖精の国から命の水が流れ込んで来る。命の水というのは、至純の愛や真善美と
してこの世に実現される。妖精の国は永遠に静かに横たわる。そこには命の水が
無限にある。だから門がひらいた人間からはいくらでも愛が出る。魂から愛が出
ると言うより、魂を通して、その向こうから、愛がほとばしる。ここに魔法の秘
密があるらしい。その人のエゴが愛するのではなく、彼ないし彼女は、妖精の国
とこの世を結ぶ水門、ただ水を流すだけの透き通った門になる。全員が透き通れ
ば、そのとき地上に神の国が来るだろう。
 俺はこれまで愛なんて本当には信じちゃいなかった。欲しかったが欲するのが
怖かったから、それで“そんなモノありゃしない”と無理に思い込もうとしてい
たのかも知れない。愛というのは結局人間の欲の上に成り立つ皮相的なものだと
思っていた。だが君と菜美のお陰で知る事ができた。きれいな愛は存在する。そ
してそんな泉が俺の中にもある。この理屈で行くと俺はおやじに愛を与えて、し
かも自分は何も失わないという事になる。おやじもこの魔法の働きによって最終
的には自分の中に不思議なポケットを見出だすかも知れない。奇跡の連鎖反応だ。
この魔法を次々と隣人から隣人へと及ぼしてゆけば、ついには全ての人がフェア
リーランドと結ばれる事になる。少なくとも理論的にはそうなる。「神の国は、
見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」――まさにイエスの予告した通りに
なる。だから俺達は、逆の連鎖反応が進行しないように祈るべきだろうね。み国
をきたらせたまえ、と。それとも君流に言えば「カム・フェアリー!」かな。
 俺と菜美は今天国に住んでいると言えば言い過ぎとしても少なくとも天国へ至
る狭い門のありかは確実に知っている。結局これも君のお陰という事になる訳だ。
キートス(っていうんだろ? 君の国のありがとうは)
 ところで一つ尋ねたい。ミカ、君は自分を男だと思っているのか、それとも女
だと思っているのか。君のアイデンティティーに興味がある。それから君は菜美
のような美女に外見的には目もくれないようだが、君の目には菜美はどういう具
合に映ってるんだい? この点にも大いに興味があるな。精神的な事を言えば菜
美は必ずしも君の信じる様な純粋な女じゃないぞ。自分がアイドルに似ている事
でいい気になってそのアイドルの髪形を真似たりしてさ。馬鹿な奴め。小鳥はそ
のままで可愛いけれど、クジャクの羽根をつけた小鳥は醜悪さ。なあ。俺も根が
スケベな方だと自覚してるが菜美はすごいぞ。清純なミカ君が聞いたら卒倒する
んじゃないかと思うような事を平気で口走る。ホワイトデイは有馬ミルクでいい
わよとかさ。こっちがアセるよ。そんなのはまだ可愛い方でこの前なんか……〉

 ――手紙はまだえんえんと続くのですが、少々差し障りがあるも
ようなので、このへんでカットしておきます。

〈エルフィンランド 猫時計
 一九九七年三月十日
 いとしい有馬 No.2
 ――あたし、あなたの右足の中指が好き。
 ――あなたの小臼歯のとんがりが好きよ。
 こんなことをいわれたら、君どう思う。
 人間さんは「君の笑顔が好き」だの「目が好き」だの「チャーミングな口元が
好き」だのいうけれど、この子にとっては、目も鼻も口も「右足の中指」のよう
なもの。君が右足の中指で人間を見分けられないように、ぼくは人間の顔を区別
するのが苦手なのです。これが質問への答です。足の中指を見るように、無関心
に菜美の顔を見ています。〝妖精の感覚〟がお分かりいただけたでしょうか。だ
から有馬くん、君のことを「馬づら」と思ったこともないからね。(最近、冴え
てるミカ。)
 もうひとつの質問だけど、男か女かというのは人間の体の属性であって、魂の
属性ではない。この子は男の子だけれど、ミカは男でも女でもないよ。君と同じ
ようにね。

 いとしい有馬。君の心を変えられる人間は君しかいない。すべて事実が出発点
だ。事実はどうしたって事実なんだ。美香が自殺した。父親が暴力を振るう。そ
れをイヤだといって、そこから目をそむけていたら、かえっていつまでもイヤな
状態が続いてしまう。不満があるなら行動しろ! 現実から逃げるために動くん
じゃなく、現実に向かって働きかけるんだ。君は現実に働きかけることができる。
働きかけていいんだ。ミカがピルを手に入れたり、手術を受けたりしたようにね
(あまりいい例ではないけれど)。自分ひとりの手に負えないなら福祉事務所の
ようなところに相談してもいいだろう。君は他人に心を打ちあけて相談するのが
苦手らしいが、だれかに相談するべきだという直感を無視することは、自分自身
を裏切ることだ。そうするべきだという直感があるなら、他人の助言を聞くこと
こそが、精神の不羈独立だ。
 君はいう。すべては過去のせいだと。でも人間は過去の奴隷ではない。人間は
環境の奴隷ではない。人間の魂はいかなるものの奴隷でもない。たとえ君の手足
がベッドに縛りつけられていても、君の魂を縛ることはだれにもできないのだか
ら。魂をして、ただみずからによってみずからを律せしめよ! 白鳥が大きな翼
を広げ、そのすばらしい羽ばたきで、みずからを高く持ち上げるように。みずか
らの直感につき動かされ、正しい時季に、正しい方角へと飛び立つように。「過
去が」君を不幸にしているのではなく、「君が」過去を引きずっている。「過去
の経験に」ではなく、過去を透きとおらせない「今の君に」原因がある。

 君は自分を堕天使と呼ぶ。だがきょう君が堕天使だからといって、あすもそう
とは限らない。君がその気になりさえすれば世界は1日で変わる――君にとって
の世界はね。なぜって、君が君の世界の主催者なんだから。君が見るように、世
界は見える。
 だからすべての過去をあるがままにあらしめよ。許すんだ。君が許そうが許す
まいが、過去は変わらない。変わるのは君の心。美香を自殺に追い込んだおやじ
を許せば、そのことによって君は清められ、美しくなれる。いつまでもおやじを
憎めば、そのことによってこそ君は鉛のように鈍重になる。心から憎しみが流れ
出るのを見たら、あわてふためかなければいけないよ。よごれた桶からは汚水が
くまれ、清らかな桶からは清い水が流れ出るのだから。君が、君自身こそが、憎
しみによって自分で自分を過去につなぎとめている。だから君の心ひとつで、君
は一瞬にして鉛の状態から黄金の状態になれるんだ。これぞ知恵の知恵たる錬金
術。
 みずからの羅針盤が、白鳥を、正しい方角へと導いてゆく。海の向こうの遠い
土地へ。この世の地平のかなたへ。一点の狂いもなく。そのように、魂は、いつ
でも答を知っている。それに君が気づくかどうか。耳を傾けるかどうか。問題は
その一点にかかっている。有馬君。今はもう、過去から飛び立つときだよ。「人
は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)

 この世では、神様がお許しにならなければ、すずめ一羽、地に落ちることはな
いのです。すずめが地に落ちたときには、神様のなさることにけちをつけるべき
ではありません。人間存在の多様性を標榜する君が、自殺者に偏見を持つのはふ
さわしからざること。君は美香にはそうする権利がなかったとでもいうのですか。
 教会は自殺は罪だという。だが、轢かれそうになった我が子を助けるために、
そうすれば自分が死ぬと知りつつ、ダンプカーの前に飛び出す母親もいる。それ
は自殺だろうか。たくさんの境界例ないし未必の故意のどこに線を引くのか。自
殺というのは行為の外形に過ぎない。問題は、本人の魂と神のあいだにある。美
香の死は罪かもしれないし、そうではないかもしれない。それはだれにも分から
ない。神様がご存知だ。美香と神のあいだの問題なんだ。自殺したオフィーリア
について、レアーティーズはいう。「教条主義のくそ坊主めが、自殺者は地獄に
落ちるとほざいているが、教えてやろう! 妹はいまごろ天使になっているのだ
――なぜなら彼女は真実だったから」
 有馬君。君は神を信じている。この世の背後には、厳然たる一なる法則が働い
ていると感じている。だとすれば、「君が母親の不幸な死にあう」ということに
も意味があると信じられるはずです。実際、そういうことがなければ、君と菜美
はそれほど親密にはならなかったかもしれない。そうなれば、君とぼくも出会っ
ていなかった。母親の死は、君という人間を作る本質的なコンポーネントなんだ。
冷たいようだが、君はこのしるしを看破しなくてはいけない。もし彼女が死ぬべ
きではなかったのなら、神は、彼女を生かしたに決まっている。ぼくはそう信じ
る。
 実に、ユダの裏切りがなければ、キリスト教は生まれなかった。キリスト教は
生まれるべきだった。どうか、この意味をよく考えてください。

 美香は自分の意志で、自分と神のあいだの問題として命を絶ちましたが、その
ことはまた、君にとっても意味があるのです。神には、そのように、世界を複雑
にあやとりすることができるはずです。
 例えば、リーサも、ぼくのわがままの副作用で、少し対人恐怖が治りました。
彼女は自分のためには外出できなかったけれど、ぼくのためには外出できたから
……。ピルをもらいに行くための外出が、一種のリハビリテーションとなったの
です。
 だから人は、外側で起きることにむやみにこだわることなく、ただ自分のなか
の聖霊に対して真実であろうとすればいいはずです。迷ったときには、高ぶるこ
となく、低ぶることなく、心に照らしていちばん良いと思われる選択をひとつひ
とつ誠実に実行すること。それが人間にできる最上のことだと思います。

 詩人として世に出るべく努力しています。父のいう「地上での努力」です。フ
ィンランドの人口はフランスやドイツの10分の1ですが、詩集の発行部数はこれ
らの国とほとんど同じです。それだけ詩が読まれているわけです。別の観点から
すれば、この国では、詩人は、ほかの国より10倍も一般的な職業です。なにしろ
カレワラの国。国民の数より詩の数が多いほどで、国語の教科書も半分は詩。フ
ィンランド語のエルフ的な美しい響き――母音調和――のなせるわざでしょう。
かってカレリアでは、どの家の壁にもカンテレ(詩の伴奏に使うハープ)がかか
っていたそうです。トールキンの童話に出てくる妖精言語も、フィンランド語を
元にしたものです。
 今は父親とヘルパーとミカとリーサの4人で暮らしています。夏至祭の前には、
母アイノもこちらへ来る予定です。当地の春はまるで矢のようです。1週間ごと
に1時間といった割合でどんどん昼が長くなります。白夜の頂点である夏至への、
急速なクレッシェンド。雪の表面が少し溶け、それがまた透明な氷となり、光が
あたるとまるで宝石を撒き散らしたよう。そんななかで、あっというまに木々の
芽がほころび、爆発したように白や黄色の花がひろがります。
 あす三月十一日はリーサの誕生日。最近、誕生日を祝うという人間文化に少し
慣れました。そうそう、リーサは、そのうち菜美や有馬に手紙を書くといってい
ます。ご期待ください。冷蔵庫で凍らせた国語辞典にかけて、リーサの手紙はお
もしろい。
 リーサとミカはもう長いこと文通を続けています。いっしょに暮らしながら、
ひとことも口をきかず、ただ手紙をやりとりするのです。見つめあい、ほほ笑み
あいます。言葉を発したら負け。このゲームにはきりがありません。リーサとミ
カは一生、口をきかずにただほほ笑みあっていることもできるのだから。梨屋敷
に君たちが来たとき、ぼくとリーサは、直接にはひとことも言葉を交わさなかっ
たでしょう?
 ぼくたちは一生、互いに愛しているということも、書くことも、ないでしょう。
 来年からは、北極圏のラップランドで、またふたりきりで暮らします。その前
に、ぼくはもういちど手術を受けます。うっとうしいので全部とってしまいたい
のです。無性の体になることは、この子の存在にふさわしい。もちろん、ぼくを
批判する人もいます。「君はそれが自分の真実だというが、みんながそんなこと
をしたら、人類は滅んでしまう」といって。ぼくは自分の行動が絶対的に真実だ
ったとは思いませんが、それは、ぼく自身にとっては、ぎりぎりの選択であり、
せいいっぱいの真実だったのです。数学者のヴェイユも言っています。「でも、
だれもがあなたのように振る舞ったら……と意見されたことなど数えあげたらき
りがない。そういうときには、こう答えることにしている。『だれもがわたしの
ように振る舞うなんてことはあり得ないから、ご心配なく』」
 君の才能が早く花ひらきますように。だが、美しい花ほど、開花に時間がかか
るという。だからメゲるな。みずからの魂を信じることは、それをお創りになっ
た方を信じることなのだ!
 二十一世紀で君を待つ、君のファン――
                      北原ミカ〉

「まるで神話だね」
 有馬はぽつりといいました。「北極圏の片隅で、ふたりっきりで暮らすんだと
さ――愛しあう姉と弟が。姉には女の部分がなく、弟には男のものがない。ふた
りはひとことも言葉を交わさず、同じ家のなかで文通を続ける。これはもはや、
ひとつの神話だよ」
「あたしは、きれいだと思うけど……。事柄の外形がというより、それがふたり
の真実だということが」
「おれさ。前から時々思うんだけどさ。もしかして、おれたちもきょうだいなん
じゃないかな」
「はーっ!?」
「つまり、おまえの父親って、イコールうちのおやじだったりして」
「それはないよぉ。だって、あたし4歳までは沖縄にいたんだよ。タケルのお父
さん、沖縄なんて来たことある?」
「あー。そっか。ないなー。沖縄は。昔っから出張は多かったけど、沖縄に行っ
たって話は聞いたことないな。でも、おまえ、自分の父親について、全然なんに
も知らないんだろ」
「うん。教えてくれないの」
「さては聖霊によって身ごもったのかな。みどりさんは」
「ば~かな。あたしはキリストですかい」
「でも、可能性はあるよな」
「はーっ!?」
「ちゃうちゃう、それじゃなくて。うちのおやじがおまえの父親かもしれないっ
てこと」
「まー。1億分の1くらいはね。タケルのお父さんが、ひそかに沖縄に来てとか」
「よくさ。ちんぷなドラマとかで、あるじゃん。恋に落ちたふたりが実は腹違い
のきょうだいで結婚できないとかいうの」
「あーあーあー。マンガとかねー」
「おれたちも、そうだったらどうする?」
「別に。どうしもしない」わたしはきっぱりいいました。「きょうだいだからっ
て、別れることないじゃん」
「フフ。まあ、それにしてもだ。『みどりさん、ありがとう。十六歳で菜美を産
んでくれて』っていいたいよ、おれは」
「産んだのは十七歳だよん。ものすごく周囲の反対にあったみたい。当たり前か」
「選択したのは十六歳くらいだろ。みどりさんが堕ろしてたら、おまえはいなか
ったんだからなぁ。それ考えると、ふしぎだよ。おまえがいなかったら、おれは
……。ひとりの人間のぎりぎりの選択が、こんなふうに遠い未来に影響してくる
んだな」

 わたしの家庭は有馬のところほど深刻ではありませんが、それでも、これまで
ずっと、わたしも自分の過去を直視するのを避けていたと思います。
 自分の父親の名前も知らないというのは、息苦しいことです。悲しいというよ
り、なにか「欠落した」感じなのです。笑いも半分。悲しみも半分。本を1冊、
読み終わっても、まだ読み残しがあるような。お風呂に入って体の隅々まで洗っ
ても、まだ洗い残しがあるような。いつもいつも中途半端な感じ。気持ちが揺れ
やすいので多感でデリケートなように見られることもありますが、本当は、半分
だけの狭苦しい心のなかで、もがいているのです。でも、そんなふうに、自分で
認めたくない。「親がいたって子は育つのよ」……妙にシニカルになったり、ヒ
ステリックになったり。自分の感受性が中途半端だから、平気で人の心を踏みに
じったり。そのくせ、ある面では異常に敏感で。男性とのスキンシップに飢えて
いたという面もあったと思います。
 母は中卒で看護学校に進みました。在学中に妊娠し、相手はドクターだろうと
陰でうわさされたりもしたようです。本当のところは母自身にしか分かりません。
みんな、その赤ん坊は偶発的な困った産物で消滅させたほうがいいって思ってた
みたいだけど、母がわたしを産みたいと思ってくれたんだから、わたしはそれで
いい。わたしが産声をあげたとき、母は「これまで聞いたことのある音のなかで、
いちばんきれいな音」と思ったそうです。
 なんとか学校も卒業し、准看の資格もとりました。育児のためにしばらくは病
院への「お礼奉公」ができなかったし、片耳も聞こえなかったので職場では煙た
がられていましたが、患者さんたちにはとても好かれていたらしい。自分自身に
障害があるからこそ、患者さんの気持ちもよく分かったのではないでしょうか。
遺体処置のような、他人がいやがる仕事ばかり押しつけられらたそうです。母が
夜勤のときには、わたしは夜間保育の施設に預けられていました。この施設のこ
とはほとんど覚えていません。ただ、その施設の名前(めぐみの園)を聞くと、
今でもなぜかひどく暗い気持ちになります。沖縄のことで妙に鮮明に覚えている
のは、保護課の人が年末に配る「お歳暮」の食品セットの赤い箱のこと。セルロ
イドの容器に入った湿気た海苔の味まで覚えています。台風で目の前の電柱が倒
れ、水たまりの上に紫色の火花が飛んだ記憶とともに。
 東京に来てからは、少しずつ状況が良くなりました。それでも、学校のワーク
ブックの教材費を払えなかったり、参加費五百円のピクニックに行けなかったこ
ともあります。イジメで国語の教科書を盗まれたときは、先生から借りた教科書
を、母がぜんぶ書き写してくれました。
 梨屋敷の仕事は、スーパーの掲示板で見つけたとか。母がここで掲示板にちら
っと目をやったことが、わたしの人生のターニングポイントだったのかもしれま
せん。母もこの求人広告を見た瞬間「なにかピンと来た」といいます。ただ買い
物するだけ、ただしドイツ語か英語ができること、という条件でした。初めはリ
ーサさんも日本語にあまり自信がなかったのでしょう。職場の病院へ行く途中に
ちょっと買い物をするだけでかなりの副収入となったので、この仕事をゲットで
きたのは母にとって非常にラッキーなことでした。そしてまた、そのおかげで、
わたしもミカと出会うことができたのです。
 そんなこんなで、わたしの人生は結構まじでハラン・バンジョー。でも、今は
ハッピー・ハラショー。悲しみは幸せの食前酒。試練は姿を変えた祝福。つらく
シリアスな子供時代を送ってきたからこそ、思いを深めることができたのも確か
なのです。火によって黄金が精錬され、清められるように。
 大空が青く、白く、星々に満ちているように、いま、わたしの胸は、さまざま
な思いに満ちています。(……これはフィンランドの民謡です)

 有馬とわたしが、これで「いつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでた
し」となるかどうかは分かりません。わたしたちはまだ高2。進路のことも未定
ですし、北原家との関係も宙ぶらりん。有馬の父の問題も先行き不透明。わたし
たちのバンド『イル・ソリテール』は、うまく再出発できるでしょうか。生田広
志はどんなすてきな男性に成長しているでしょう? そして、噂の夏木は……?
 ミカはいいます。
「この子が死んでも悲しまないくらい、ミカを愛してね」
 彼は自分は長生きできないのではないかと考えています。でも、たとえそうだ
としても、彼は――彼の世界は――永遠に続くでしょう。これはわたしの信仰告
白です。
 有馬はどうでしょう。彼は今どんな気持ちでしょうか?
「おれがいちばん愉快なのはさ」
 彼は秘密めかして声をひそめます。
「これからは、もしだれかに、『おまえ妖精を信じてるのか』ってバカにされた
とき、はっきり答えられるってことだな。『信じてるんじゃない。知ってるんだ
よ』」
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