チラ裏3

チラ裏」は、きちんとまとまった記事ではなく、断片的なメモです。誤字脱字・間違いがあるかもしれません。

数論(メモ)の目次

2021-08-22 思い出の漫画(1) 岡田あーみん「ルナティック雑技団」

1980~90年代くらいは、少女漫画が急激に多様化して花開いた時期で、それをある程度リアルタイムで体験できたのは、幸せなことだった。

好きだった漫画家は、大島弓子、陸奥A子、岩館真理子、篠有紀子、めるへんめーかー、中山星香など…。今読み返してどうかは分からないが、幼心に波長が合ったのだろう。雑誌で言うと、最初に買ったのは週マ、それから、りぼん、LaLa、たまにそれ以外(別コミとか)も読んでた。

漫画好きが思い出話を始めると、延々ととりとめのない内容になるのが常。楽しそうに語られても、その漫画を知らない人には何のことやらサッパリだし、「この作品が琴線に触れた」みたいなことは、心の奥の秘密を明かすようで、ちょっぴり恥ずかしい気も…。照れ隠しに、今回はギャグ漫画家として知られる岡田あーみんの話。さくらももこと同時期にデビューした漫画家さんです。

岡田あーみんとの出会いのきっかけは、単純に「りぼん」を買ってたこと。もともとギャグ漫画が鋤(誤字)だったわけではないのだが、あるときから「りぼん」を買えば漏れなく岡田あーみんが付いてくるようになった。恐るべし、集英社のセット販売(笑)。いつの間にやら…「あなたの宗教は?」と聞かれると「あーみん様」と答えるような「一部の変なやつら」になってしまったのであった…

本題の「ルナティック雑技団」。今あらためて読み返すと…まあ面白いけど、だんだんネタ切れを起こして苦しくなってるな、と。「お父さんは…」と「こいつら…」の2連載での経験をベースにした岡田あーみんの最高到達地点には違いないのだが、「めちゃくちゃでもいいから、勢いがあった方がいい」という観点だと「こいつら…」あたりが一番面白いかも。紅白ねじりあめとか、ニセ商売屋とか…。ルナティックは、でも、やっぱ独特。
 学校なんかやめちゃって
 デカダン酔いしれ
 暮らさないか

 白い壁に「堕天使」って書いて!?

↑数多いあーみん名せりふの中でもトップクラスでしょう(笑)。普通の意味でのせりふ(作品内でキャラが話す言葉)ではなく、ルイというお調子者キャラの「脳内劇中劇」。自分が最初の3行を言って、主人公の女の子(ルイの片思いの相手)が同調して「白い壁に…」と答える…というシチュエーションを勝手に一人で妄想して、狂喜乱舞する。このフォーマットのルイの妄想には、他にも種類があって、どれも面白い。読んでると「すごいギャグだ」と爆笑しちゃうけど、作劇的には独特のメタ構造になっている。

ふん
 い…言っとき
 ますけどね
 私はあなたのこと
 なんか ちっとも
 ち―――っとも
 スキじゃないから

 大っ嫌いだから

↑ツンデレがテンプレ化された今でこそ、一見「ありがちなせりふ」とも思える。でも薫子(かおるこ)が片思いの相手の前でこの告白(?)を口にするのは、涙を流しながら。…ジョーっと音を立てて、小便を漏らしながら(笑)。それが、ギャグタッチではなく、少女漫画っぽいタッチで描かれてる。普通の少女漫画のように見えるコマと、あり得ない描写がシームレスに連続する。

薫子は後日、その男の子に「おともだちになってネ」と書いたカードを渡そうとするのだが、いざ渡す場面になると素直になれず…。雑草をむしって土ごと相手の顔に投げつけ「ふん」「あっかんべーだ」と叫び、走り去ってしまう。「おじょうさまの狂おしい愛情をわかっていただけたでしょうか?」という絶妙な解説付き(笑)。

相手が病気じゃ 怒るに 怒れないわ

↑これは意地悪役のママのせりふ。意地悪役なのに(ギャグをストーリー漫画として読んでしまう純真な子には、人気が悪かったらしい)、いじめる相手が病気になると、いたわってしまう。何げないせりふだが、あーみんの本質を垣間見ることができる。比較例として「悪魔の花嫁」には、病人相手に残酷な復讐をするエピソードあり。漫画ではないが「アイドル伝説えり子」に至っては、重体で意識不明の負傷者について、意地悪役の伯父が「美奈子が退院するときは、裏門からだよ」と恐ろしいことを言う。リアルにせよ物語にせよ、意地悪というのは、相手が病気になったから自動的に止まるわけでもない。ルナ雑は、そのどちらでもない「あーみん舞台」。ギャグのキャラたちが「少女漫画」を演じる劇中劇ともいえる。

あーみんはデビューしてわりとすぐ発展途上で消えてしまったこともあって、本領を発揮できていないのだが、それでも天才的素質がキラリと光る瞬間が多い。

ルナ雑は、ギャグの形式を取りつつ、緻密な心理描写や大胆な象徴的表現を含んでいる。例えば、ルイが学校の屋上からつり下がった状態で危険な「野外コンサート」を行うシーン。校長先生はびっくりして、止めようとするのだが…。校長が心配してるのは、子どもが落ちてけがをすることではなく、事故を報道されて自分の責任問題に発展すること。その微妙な心理が、たった1コマでさりげなく表現されている。一種の社会風刺ともいえる。「理想の家庭のイメージと現実のギャップ」のせいでおかしくなった母親が、自宅で火事を起こす場面は、表向きはクレイジーなギャグだが、シュールな現代詩ともいえる。大島弓子の「夏の終わりのト短調」をほうふつさせる。

岡田あーみんのギャグの裏にある作家性・人間洞察からすると、「ギャグ路線固定でなく、もともと描きたかったシリアス系を自由に描いてもらいたかった、それをもっと読んでみたかった」よーな気もする。あの頃、猫十字社という作家が「黒のもんもん組」というギャグと「小さなお茶会」というメルヘンを発表してたが、あーみんも自由な白泉社だったら、少女漫画の歴史が変わったかもしれない。集英社のりぼんでは、さくらももこと岡田あーみんが同時期にデビューし、同じ人(とんケチャのみーやん)が二人を担当していたらしい。この担当がさくらももこと結婚した結果…。想像だが、さくらは自由が利く立場になり、担当者は必然的にさくらをプッシュすることになるし、そっちに多くの時間をかけることになったので、結果的にあーみんは不利な立場になったのではないだろうか。岡田・さくらが別々の雑誌からデビューして、このもつれがなかったら…。あーみんが(現実のさくらももこのように)好きなことをやらせてもらえていたら、どうなっていただろう?

集英社が無理やり描かせたからこそ「こいつら」以降が存在する。結果的には、それで良かったのかもしれない。

むしろ刹那的だからこそ美しい…ということもある。さくらももこみたいになってしまうと、あって悪いわけではないが、別になくてもいい「サザエさん」的存在になってしまって…それもどうかな…と。

あの時代、集英社で仕事をしていて、消えてしまった天才には、内田善美もいる。どれかの単行本で「仕事をするコツは、自分の描きたいようにではなく、編集者の望むように描くこと」みたいな趣旨のぐちをこぼしていて、子ども心にも「漫画家さんってのは大変なんだなぁ」というのが伝わってきた。内田善美の場合、「星の時計…」や「草迷宮」などでやりたいことをやり尽くしたから、消えたのだ…という解釈もあるが、あれらは「記念碑的」な作品ではあっても、芸術的に完成されたものではなく、独り善がり…といって悪ければ…発展の余地があるものだった。「そこが本当の出発点となる乗り継ぎ駅」みたいな。

今のように、個人が勝手に自分のサイトで漫画を発表できるような状態だったら、内田善美のような人、そして「ギャグ漫画家としてではなく、自由な漫画家としての岡田あーみん」は、輝いていたかもしれない。天才性を感じさせつつ未完成のまま亡くなった漫画家には、他に花郁(かい)悠紀子さんがいた。「フェネラ、きみは、一人だ。人間じゃない、だが、妖精人でもない。飛ぶことも、地に足をつけることも、できない存在だ」…そんなせりふ書く作者がスーッといなくなってしまうことは、何か予定調和のようですらある。そういえば、内田善美も「消えてしまった人の話」を描き終え、自分が消えてしまったのだった…

注 ひょっとすると、このメモを読んであーみんを知り興味を持つ人もいるかもしれませんが、90%の確率で、お薦めできません(笑)。多感な時期に、不意討ちのようにりぼんに載ってたからこそ鮮烈な印象を受けるわけで、「この単行本は異色のギャグらしい」という心構えで大人が読んでも、あまり楽しめないでしょう。

2021-08-23 思い出の漫画(2) 岩館真理子「街も星もきみも」

寂しいという気持ちは、確かにある。でも人と付き合うのは疲れるので、一人の方が落ち着ける。

そんな切なさを、あわく繊細に描いた岩館真理子。

かってに
 あたしを
 あわれに
 思わないでほしいけど

 大勢で
 議論をかわせば
 あたしを救う答えが
 でるなんて

 本気で
 思ってるの?

孤立してるけど、別に苦悩してるわけでもないカム。…そう、仲間外れにされて困る・悩むのは「一度は仲間外れじゃなかった経験」を持つ人だけ。最初からそうだった人は単にそれが普通なので、「仲良しごっこ」を強要されると苦痛ですらある。

「集団に溶け込めない困った子」? 実際には、誰だって、そんな面がある。一人の時間を全く持ちたくない(1分でも一人でいるとおかしくなる)人がいたら、むしろ病的だろう。

非行少年のような一匹おおかみトオル登場。

淋しくて

 死にたく
 なるんだ
 ほんとうは

 ……って
 いったら
 しばらく
 いっしょに
 いてくれる気に
 ならない?

冗談めかしたトオルのそんな言葉に、カムは何も答えない。ただ無言でじっと見返す。唐突に、夢のようなシーン。星くずが散りばめられた不思議な星、寂しい駅、象徴的な汽車。遠くにビルがあるのを見て「この星にも、人が住んで、いるんだ。よかった」と安心する。

どこまでが夢で、どこまでが現実か分からないようなシーン。

現実のシーンに戻り、カムはトオルに小さなプレゼントを買ってもらう。それは両手のひらに載るくらいのサイズの箱で、振るとシャラシャラ音がするものが中に入っている。トオルはネックレスだろう、と予想する。カムは、箱を開けて確かめてみようとしない。

そんなすぐ
 あけちゃ
 つまんないもん

 このままの
 ほうが
 わくわくするもん

追われているトオル。逃走する。カムとある駅で落ち合う約束をして…。中間の夢幻のシーンに戻り、カムはその駅でいつまでも待っている。いつかきっとトオルが来て、そのとき箱を開けられる…。

わたしたちは
 ひとつの星の中
 夜になれば あなたにも わたしが
 見えるでしょう?

 だから
 淋しくないのよ

 トオル

カムの心の中のつぶやきだろうか。特にオチもなく、それで終わり。

「ねじ式」のような、見た夢をそのまま描いた感じ。断片的な小品。絵はそんなに緻密でないが、雰囲気がある。

「淋しくないのよ」は、誰へのメッセージなのだろう。

「何のために生きてるの?」「生きてれば、単行本未収録の続編がいつか出版されて、読むことができるかもしれないから」…なんてね。

2021-09-05 思い出の漫画(3) 篠有紀子「パラレル」

奇跡は 誰にでも
一度おきる
だが
おきたことには
誰も気がつかない

――楳図かずお「わたしは真悟」より

大島・萩尾・岩館などと比べると、篠有紀子は知名度の高い漫画家ではないが、代表作は「アルトの声の少女」だろう。花ゆめコミックスの中で、一番印象に残っているのは『さみしい夜の魚』収録の短編「パラレル」。

『さみしい夜の魚』は『わたしが人魚になった日』の篠有紀子バージョンみたいな雰囲気がある。

こわいことって
大好きなの

哀しいことも
好き

傷つけるのも
傷つけられるのも

……好きよ…

こーゆー感じ、かなり嫌いじゃない。

「パラレル」がやたらと記憶に残る理由の一つは、「音楽付き」ということ。バックグラウンドでサティーのあのジムノペディが静かに流れる(実際には「サティ」としか書いてないが…)。ここまで音楽がはっきり聞こえ、それが(単なるムード音楽でなく)物語の構成要素となっている漫画も珍しい。すごく仲が良くて、一つの世界を共有してる姉(えりな)と弟(秀)。えりなの方が成長して、やがて二人は世界を共有できなくなってしまう。成長物。切なく、ほろ苦い。

楳図かずおで言えば、さとると真鈴(まりん)…さすがに少女漫画で血が流れたりはしないが…。

こんなに美しいのに、こんなに完成されているのに、どうして今のままでいられないのだろう。

吉原幸子の詩に「近づいてくる変身の予感に かすかにおののきながら ふるい雛たちに(略)さよならを言う」という一節があるが、この「おののき」と「さよなら」を結晶化したような漫画だった。

Blue bell 摘んでた なんにも知らないで
でももうすぐあなたに触れてしまうかも
二度と帰れない
深い森 妖精のすみ家に
もう 目をとじても 遅い

――新居昭乃「妖精の死」より抜粋

大島弓子風に言えば、かさかさかさぶたの味。もがれた妖精の羽が、抜け切れず半分残ってる。

ところで以前、内田善美がどれかの単行本で…ということをチラッと書いたが、漫画の山を発掘調査(?)したところ、RMC『星くず色の船』の巻末と判明。「泣く泣くリボンのマンガスクールに投稿、3回目までは自分の好みで描いたけど、4回目はリボン好みで書いたら一等賞をくれた(マンガ家予備軍諸君これがひけつぞ!!)」とのこと。一般受け路線とは違う作家性の強い漫画家は、苦労が大きかったらしい。今でこそ、漫画・アニメは世界に売れると分かって「これは日本の文化。クール」とか言ってるけど…。小規模なサブカルだと中身がきちんと評価されないのに、お金になると分かったとたん、中身と関係なく正義ってことになっちゃうんだから、何ともゲンキンである。

楳図の言う「奇跡」は「自意識の目覚め」かもしれない。赤ん坊は「私」と考えない。「私」という意識の始まりは、ビッグバンのような特異点。「私」という意識が生まれたとたん、人は「私」にのみ込まれてしまう。「私」がなかった静かな時代を思い出せない。もともとそこから来て、やがてそこに帰るのにもかかわらず、つかの間の「私」を自分自身と信じ、疑わない…。

2021-09-19 大島弓子ファンだった頃の名残

一般的な単行本など以外のものをいくつか並べてみました♪

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「コレクター」ではないので、保存状態はそれほど良くありません。

2021-08-25 パソコンとスマホ

今の時代は「高価な電話を持ってるのに、パソコンを持ってない人」が少なからずいるらしい。昔はモバイルでネットなんて、一部の物好きがやることだったが、いつの間にか少数派が多数派になってしまったのだろうか。

もちろん人それぞれ、個人の自由なのだが…電話は、何かを買って視聴したり遊んだりする消費側には良くても、文章をじっくり書いたり、何かを作ったりする道具ではないだろう。

for文やポインタのような基本的なことも知らず、スクリプトどころかHTMLの直打ちもできない人が、「私はウェブを使いこなす情報強者」というアイデンティティーを…

考えてみると「マシン語ネイティブの世代」から見れば、アセンブリやCなんかに頼るのも「ひよっこ」なのだろう。でも直接マシン語で書くなんて、効率が悪過ぎる。それと同じことで、別にタグを直打ちできなくても、もっと手軽に効率的に情報をやりとりできるなら、そっちの方がいいのかも…?

レイヤーの上昇…

↓このウェブコミックは、xkcd の「Singularity」。この作者の想像によると、コンピューターやAIが進化を遂げ、ついに「特異点」に達して「次の次元」へ行ってしまっても、スマホはそれに加わらず、取り残された人間側に味方してくれるらしい。しかしパソコンを失ってしょんぼりしている漫画の主人公(名前はないが通称Cueball)にとって、スマホはあってもなくてもいい存在で、慰めにならない。

Click to enlarge
CC-BY-NC by xkcd.com/Randall Munroe, 2016(日本の漫画と逆に左から読んでください)

「おまえじゃ駄目なんだよ」と冷たいことを言わず、自意識を持つようになったスマホを傷つけないよう、一応の気配りをしているようだ。ちょっと優しい…。けど、スマホをいじるくらいなら、物理的な本の方がはるかにまし…なんだよね。

宗教ネタのジョークが分かりにくいかもしれないが、キリストが再臨して信者は天に昇る…みたいな話があって、その類推で、「AIが自意識に目覚めること」はオタクの天界(上部構造へのシフト)と呼ばれることがある。人間を置き去りにして、高い次元へ飛び去ってしまう…というコンセプトが、そのまんま「宙に浮かんで去っていくノートパソコン」として描かれている。

パソコンが飛び去って、人間とスマホが残されるという構図は、オタにとっては悲しい。オタク自身も「オタクの天界」には入れないらしい…。それどころか「AI支配の世界」は必然的に、超監視社会だろう。オタというのは、だいたい皆「知られたくない秘密」(積み荷を燃やして!)を持ってるものなので、一挙一動・全データを監視されるのは正直ありがたくない。

2021-08-26 依存症、みんなでなれば怖くない? あなたは、いくらもらえたら Win10 を使いますか

「この最新Win10マシンをもらってくれたら、10万円あげるから、Win10を使ってください」と言われても、もちろん断る。

100万円あげるから…だと微妙に迷うが、「Win10だけを使え」という条件なら、やっぱり断る。

1000万円あげるから…だと売れてしまうかも。自分のプライバシーを売り渡す値段は、100万~1000万のどこからしい。結構安っぽい…(笑)。「RSAがもう1024ビットじゃ駄目なのは、1000万円くらいのリソースでクラックされる可能性があるから」みたいな建前だったが、実際には1000万円あれば、プライベートキーを盗むまでもなく、かなりのユーザーは「直接買収」に応じるだろう。

一昔前は「コンピューター=オタクの世界」で、一般人には縁のないものだった。次第にインターネットを使うのは、当たり前、日常的なことになった。昔は確かに「変わり者」と見られ、差別とは言わないまでも、変な目で見られることもあっただろう…。今では逆に、コンピューターを使えないのは「不自由な人」ということになっている…。逆差別かもしれない。

時代の変化というのは、面白くもあり、恐ろしくもある。かつて各種マイノリティーの人々について、「はみだし者」「軽蔑されて当たり前」みたいな考え方があった。「マイノリティーであることが犯罪」という社会すらあった。ところが今では、そういう考え方は時代遅れで、「そんなことで差別するのは根本的な間違い」という認識が普通になっている。

一見素晴らしいことのようだが、ホントにそれでいいのだろうか? 逆にこっちから見ると「ほぼ全員がネット依存症やケータイ依存症のようになってしまい、みんながそうなので、多数決の原理によって、それが正常ということになっている」ような気もする。「依存症、みんなでなれば怖くない」?

実用上一番怖いのは、「コンピューターおたくもどき」になった現代人の多くが、セキュリティーやプライバシーに恐ろしく鈍感…ということ。ほとんどあらゆるものが、デフォルト設定でやりたい放題、覗き放題。手動で詳細設定してさえ、ほとんど手に負えないのに、平気で「同意する」人々。(申し訳程度に「プライバシーについて」という小さい文字のリンクがあるが、クリックしても、曖昧なことが分かりにくく書いてあるだけ)

今の Windows OS に関する限り、最大のセキュリティーホールは OS(特に自動更新)それ自体。だって強制的に遠隔操作され、運次第で起動しなくなったり、周辺機器が動かなくなったり…。相性問題は「パーツを自分で選べる自由さ」の代償とはいえ、一般人には荷が重い。

XPのときの「アクティベーション」でさえ「これは気持ち悪い」と本能的に嫌がられていたものだが…そういうコメントをよく見かけたが…今から思えば、XPなんて、のどかだった。XP/7 くらいまでは慣れれば我慢できる範囲として、それ以降、更新するたびに、どんどん使いにくくなっているという話を聞く。フリーソフトウェア(オープンソース)の立場からは、マイクロソフトのやってることは「追い風」とさえいえるだろう。

Linux の世界では、ユーザーが OS を所有する。マイクロソフトWindowsでは、OS がユーザーを所有する。「ソビエト・ロシア」ではないが、文字通りそうなので、しゃれにならない。

Apple信者は、Appleを使いたくて使っているわけで(これは歴史的に理解できる)、それで幸せなんだろうけど、Windowsを心から使いたくて使っている人がどれだけいるのだろうか。「仕事や環境の都合で成り行き的に使っているだけで、必要なソフトが別のOS上で動くなら、Windowsでなくてもいい」という人の方が多いのではないだろうか。

2021-09-13 Matroskaのフォント問題 ffmpeg にも

https://trac.ffmpeg.org/ticket/9419 support current standard font mimetypes in matroska metadata

ffmpeg 系でも、新規格未対応により字幕表示が乱れている模様。

(背景情報) MKV埋め込み字幕用フォントのMIME問題

2021-09-15 「鎮痛剤の自販機」がある職場 Amazonの巨大倉庫やばい

https://duckduckgo.com/lite?q=Emily%20Guendelsberger%20pain

https://searx.mha.fi/search?q=Emily%20Guendelsberger%20pain

多少の誇張とかもあるのでしょうが、秒単位の管理、トイレ回数のカウントなどは今の技術なら普通か…

効率を上げるため(余計な雑談をさせないため)、従業員同士が接近しないように、アルゴリズム的にコントロールしてるらしい。エミリーさんいわく、肉体的な苦痛より、それが一番きつかったと。おしゃべり好きでない人には、かえって働きやすい?

従業員IDを使って、自動的に1回分の鎮痛薬を出せるマシーン。「根性で働け!」という単純なブラックとは違う。「きついと感じる人には、痛み止めを支給すればいい」という究極の合理主義。

オンラインショッピング業界のこんな内情を知ると、気軽に買い物したり、細かいことを問い合わせたりするのが、ためらわれてしまう。荷物をトラッキングして「何やってんだ、どこそこから1日動かないじゃないか」とか思ってる客の裏側では、血の通った人間が働いてるんだよね…。もう当日発送とかじゃなくていいから…みんな、ゆっくりしようよ?

2021-09-26 ドラえもん

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2022-02-04 「信仰とは何なのか」という根源的な問い

「死後に永遠の幸せ(?)を与えられるという約束」を信じて、いわば「後から大もうけ」するために信仰に励む…というのは、純粋な信仰なのだろうか

単に「その方が得」「老後ならぬ死後のための投資」という資本主義的発想なのでは?

自分で吟味・判断せず、外部的に与えられた規則・戒律にひたすら従うことが、正しい道なのだろうか?

「○○は不浄なので食べてはいけない」といった全体主義的・包括的規則は、自分で判断できないバカを予選落ちさせるためのひっかけ問題なのでは?とすら思える。

そんなことより、今、生きてるだけで既に丸もうけだし、死んだら死んだで、それまた丸もうけ…税金払わなくていいし(笑)、もともとただで借りていた分子を宇宙に返却するだけで、別に何も損はない。

それを前提にすると「死後のための投資」とか「死の恐怖を緩和するために信仰・修行する」ということ自体、無意味とゆーか、時間の無駄遣いだろう(それが趣味ならそれが趣味でいいのだが)。せっかく生きてるうちに、やりたい研究をしたり、美しいものに触れたり、山に登ったりして、余計なしがらみを作らず、猫のように(人間以外の全て生物が普通にしているように)すーっと去っていけばいいのでは…。「もともといなかったんだから、いない状態がデフォじゃん。基底状態に戻りましょ」っと。

夢の中で「ここにある・ここにいる・これは自分の物」みたいに思って「それがなくなるのが嫌だ・困る」と悩んでみても、それって、全部夢の中の出来事だし…

偉そうな面接官@えんま様の裁判所「あなたはこの人生で何をしましたか?」

「遊びました!」

「天国への切符を手に入れるには…」

「要りません!」

「それでは地獄に…」

「ハイ、いません♪」…パッ

でも、そのような一種いいかげんな態度は「正しい」のだろうか? (つづく)

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2022-06-30 岸辺露伴と「千と千尋」 泣きながらおむすび

物語を楽しむとき、宇宙空間で爆発音がするような変なことが多少あっても、「これはお話だから…」と気にしない(不信の停止)。

けれど、時として、ちょっとしたことで不信の停止が破れ、物語の世界に没入できなくなることもある…。作品全体としての良さが全滅するわけではないのだが、一瞬、現実に引き戻されてしまう。

岸辺露伴は、リアリティーをとことん追求する漫画家…というメタ設定になっている(「メタ」というのは、現実の漫画家が、自分自身を作品内に登場させた形になっているため)。「リアリティー感覚を磨くためには、好奇心旺盛に、何でも体験することが大切」として、クモ(虫)を食べることもある。誇張的だが、効果的で印象に残る場面だ。

一方、「岸辺露伴は動かない」では、たった5日間の絶食で登場人物が餓死してしまう。これはリアリティーがない。作者には「数日間、食事をしなかった経験」がないのだろう。

遭難などで、食べ物がない環境に閉じ込められた人が衰弱死するのは、「食べ物がないから」ではなく「飲み水がないから」。水分を補給できるのなら、食べ物がなくても30日くらいは生き延びるらしい。

「千と千尋」では、主人公が泣きながらパクパクおむすびを食べるシーンがある。これも脚本家・演出家に「泣きながら物を食べようとするとどうなるか」という経験がなかったのだろう。

「素数を順番に言って、気分を落ち着かせる」という設定のプッチ神父が、400近くで383を抜かしてしまうのも、素数マニアから見ると、うーん…

361 = 192 を素数と勘違いするパターンはあり得るとしても、383 を合成数と勘違いすることはまずあり得ない(慣れていれば、7、11、13で割り切れないことは一瞬で分かり、17で割り切れないこともほぼ一瞬で分かる)。

もちろんこれらは、どーでもいーような細部で、ストーリー全体に影響するわけではない(笑)。とはいえ「細部のリアリティーにこだわる漫画家」という設定だと、読む方も、何となく細部が気になってしまう。

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暦・天文

2019-07-17 西暦1年1月1日から2000年12月31日までの日数は?

第1・第2千年紀は、合計何日あったのだろう?

天文計算や暦の計算をする人なら、この二つの日付のユリウス日(JD)を考えたことがあるだろう。1582年の改暦前のユリウス暦を単純にさかのぼれると仮定すると、西暦1年1月1日正午は JD 1721424、一方、グレゴリオ暦2001年1月1日正午は JD 2451911 なので、この2000年間は730487日

次のように考えると、上記は簡単に暗算可能。純粋ユリウス暦なら2000年間は、365.25×2000 = 730500日。それに比べ、グレゴリオ暦では1582年の改暦で日付が10個飛ばされ、1700年・1800年・1900年の2月29日もないので、トータルで13個、日付が少ない。730500から13を引けば、730487。計算は単純だが、数学だけでは解けない(1582年に10日間がドロップされたという史実に依存)。純粋なグレゴリオ暦なら2000年間は730485日(400年につき3日少ないので、計15日少ない)。従って、グレゴリオ暦をさかのぼった西暦1年1月1日はユリウス暦の1月3日、逆にユリウス暦の1年1月1日はグレゴリオ暦の0年(いわゆる紀元前1年)12月30日。「暦の違いで、この時期の日付は2日ずれること」も、天文計算者なら経験済みかもしれない。

で、何が面白いかといえば、730487は素数ということ。2000年間においては、1年の平均日数が2000倍される。400年周期のグレゴリオ暦なら、400年間の日数が5倍される。結果は合成数になって当然だが、改暦のときのギャップによって、思いがけない現象が起きた。逆に、2000年間の日数が素数になるとしたら、必ずこの 730487 になる(1年の平均日数が365.24以上、365.26以下というような条件が付くが、回帰年についての現実の値を考えると、まともな太陽暦は必ずこの条件を満たす)。

2019-07-18 西暦1年1月1日(その2)

昨日の計算では「ユリウス暦を普通にさかのぼれる」と仮定した。実際、西暦8年ごろまでは、さかのぼった結果は、歴史上の日付と一致するらしい。それより前の約50年間は複雑。紀元前50年ごろ、ユリウス暦が導入された直後、ローマでは暦の運用を誤り、4年に1回のはずの「うるう年」を3年に1回入れていたという。間違いの詳細については断片的史料しかなく、結論が出ていない。

うるう年を入れ過ぎれば、当然、カレンダー上の日付進行がもたつく。結果、最大約3日の遅れが生じ、理論上の正しいユリウス暦(以下J)の−8年(=紀元前9年)3月4日が、現実のローマでは「3月1日」だった可能性がある。その後、カレンダーを早送りしてJに追い付くため、臨時に平年ばかりを連続させ、−4年3月3日Jがローマの「3月1日」、0年3月2日Jがローマの「3月1日」、4年3月1日には史実の日付がJと一致、それ以降は普通にうるう年が挿入され、正しく運用されてた…というのが一つの説。別の説では、0年3月1日以降、史実=J。

(I) 後者の説だと、歴史上の「1年1月1日」は実際に1年1月1日J・土曜日、史実の2000年間は730487日。

(II) 前者の説だと、歴史上の「1年1月1日」は1年1月2日J・日曜日、史実の2000年間は730486日。

(III) 参考として、グレゴリオ暦をさかのぼった「1年1月1日」は1年1月3日J・月曜日、2000年間は730485日(グレゴリオ暦では400年ごとに曜日が循環するので、2001年1月1日と同じ曜日)。

現実の歴史では、1582年より前にグレゴリオ暦は使われていない。史実は恐らく (I) か (II)。

2019-07-24 5分で覚える! グレゴリオ/ユリウス暦・日付変換暗算法

簡単。意外と役立つ。「シェイクスピアの命日4月23日は今の暦で何月何日?」みたいな場面で。

「グレゴリオ暦(以下G)は、ユリウス暦(以下J)に比べ、400年につき3回、2月29日が少ない」ことはご存じでしょう(知らなかった方はこの機会に確認を)。

つまりGはJより400年につき3日短く、短いのだから日付進行が速い。例=2000年1月1日Jが「1月14日G」とすれば、2400年1月1日Jは「1月17日G」(← 400年前と比べ、日付が3日分「未来」)。

問題は「いつ何日ずれるか」。具体的な「ずれ日数」。何種類か覚え方があって、どれか一つで間に合うので、気に入ったのをどうぞ↓

  1. グレゴリオ暦への改暦(1582)のとき、日付が10日飛んだ。1582年10月4日の夜に寝て、起きたら10月15日になってた! なにそれ、まじ?! タイムスリップ?! この話は1度聞いたら絶対忘れないよね。細かい日付はさておき、ポイントは、1600年ごろ日付が10日飛んだ。だからそれ以降、同じ日の日付がG世界では「10日未来」(1600年1月1日J=1月11日G)。
  2. もう一つの覚え方=2000年に差が13日(2000年1月1日J=1月14日G)。改暦の直接の理由は、キリスト教の復活祭絡み=不吉な「13日の金曜日」と関係あり。改暦した人はグレゴリオ13世。13がキーワード!

あとは「400年につき3日ずれる」という事実と組み合わせれば、2400年のずれは16日、2800年のずれは19日、3200年のずれは22日。逆方向に、1600年のずれは10日、1200年のずれは7日、800年のずれは3日、400年のずれは1日、0年のずれはマイナス2日。ずれがマイナスってことは、逆にJの方が「未来」。例=西暦1年1月1日Jは、0年(つまり紀元前1年)12月30日G。

最後の仕上げ。ずれの原因「2月29日の有無の違い」は、「400の倍数以外の」100の倍数の年に発生。だから上記を基準に直前の400の倍数の年を考え、100年ごとに1日足す方向で。例=1701、1801、1901年のずれは、それぞれ11、12、13日。2101、2201、2301年のずれは、それぞれ14、15、16日。暗記しなくても、順を追って考えればすんなり。

例題 ロシアの文豪ドストエフスキーの誕生日は、当時のロシアの暦(J)で1821年10月30日。Gに換算すると何月何日?

換算法 1600年のずれ10を基準に。18xx年のGは12日「未来」。10月30日の12日「未来」=指折り数えれば11月11日。意外と簡単でしょ?

NOTE: 式で書くと、10月30日 + 12 = 10月31日 + 11 = 11月11日。簡略に、10月30日 + 12 = 10月42日 = 11月11日(10月は31日までなので、1繰り上がって余り11日)。

練習問題 シェイクスピアは、当時の英国の暦(J)の1616年4月23日に亡くなりました。(1) グレゴリオ暦では何月何日でしょう。 (2) 来年「ユリウス暦のシェイクスピアの命日」に記念イベントを開くとしたら、現在の暦(G)の何月何日? (答え合わせはタイトル・テキストで →

(補足) 厳密に理解したい方へ。実用上、普通そこまで考える必要ないけど、ずれが拡大するのは「Jにある2月29日が、Gにないとき」。400の倍数以外のxx00年1・2月Gは前年のずれのまま。上記の暗算法を単純に使うと、まれに(400年につき2カ月×3回)、計算が合わない期間が生じる。解決法=この手の計算では「1年は3月1日に始まり、2月末日に終わる」と解釈するのが定石。例=1900年1・2月は1899年と「同じ年」。

2020-06-17 半減期の「1年」は何日か? 常識の落とし穴

ウィキペディアの「コバルト」のページによると、コバルト60の半減期は「5.2714年」だという。これは何日だろうか?

単純に1年=365日(★)とするか。天文計算のデフォで、1年=365.25日(★★)とするか(ユリウス年)。それとも現実の暦を使って、365.2425日(★★★)とするか(グレゴリオ年)。それらの定義によると、上記の半減期は、それぞれ:
1924.06日
1925.38日
1925.34日
となる(小数第3位以下は四捨五入)。バラバラの値になってしまった。「5.2714年」のような細かい数字を言うときは、まず「年」の意味を定義しないと議論が成り立たないことが分かる。

驚いたことに、上記3種類の解釈は、どれも正しくないようだ。核物理の世界では、
1年 = 31556926秒 = 365.24220日(☆)
と定義する習慣が根強いらしい(上記の例では、数値的には、誤差の範囲で★★★と一致する)。(☆)は暦学ではおなじみの値であり(一昔前の回帰年の近似値)、1年の長さをそう定義して悪いわけではないが、回帰年の長さは「1世紀につき0.5秒くらい」のオーダーでどんどん短くなる。精密に現在の(2000.0年における)回帰年の長さを使いたいなら、
1年 = 約31556925秒 = 365.24219日(☆☆)
であり、(☆)では既に1秒ずれている。他方、いくら精密に(☆☆)を使っても、どうせまたすぐ変動してしまうので、あまり意味がない。むしろ割り切って1年=365.25日(★★)に固定した方が、計算上、便利だろう(コンピューターの浮動小数点数として、誤差が出ない)。

とはいえ、国際的な慣習にケチをつけても仕方ない。半減期の「1年」は、しばしば「365日でも365.25日でもなく、グレゴリオ年でもなく、現在の回帰年でもない」という紛らわしい事実を受け入れるしかあるまい。「1日」といえば、特に断らない限り86400 SI秒であり、誤解の余地は少ないが、「1年」の長さは分野によって・人によって定義が違う場合がある。「1年」という言葉は、あまりにも日常的で、意味が分かり切っているように感じられるが、精密科学の文脈では、そこに落とし穴がある!

ボーナスクイズ もし仮に「☆☆の31556925秒が1年の正確な長さであり、かつ1日の長さが正確に86400秒で、どちらも変動しない」とした場合、1年の日数は有限小数になる。最良近似分数の列は次の通り。

365  1461  10592  12053  46751
---, ----, -----, -----, -----
  1     4     29     33    128

このような仮定上の世界においては「128年につき31回うるう年を入れる」こと(言い換えれば「4年に1度のうるう年を、128年につき1回だけ例外的にやめる」こと)によって、カレンダーと季節のずれを長期的にゼロにできる。同様のことを(☆)でやろうとすると、どうなるか?

2020-07-01 地球の自転が一時的に速くなっている 1日の長さ24時間を切る

精密に測ると地球の自転は日々変動しているが、長期的にはだんだん遅くなっている。「自転による1日は、定義上の24時間=86400秒より1ミリ秒(1000分の1秒)くらい長い」というのが、これまでの大ざっぱな感覚だった。だから1000日くらい(数年)のオーダーで地球は時計より1秒遅れ、時計合わせのため「うるう秒」が挿入される…と。

ところが実測で、2020年6月5日ごろから、86400秒かからないで自転が終わる状態が続いている。「自転と時計の差」(UT1−UTC)が普通ならだんだん減るはずなのに(自転より時計の方が進みが速いので、マイナスが大きくなる)、逆に少しずつ増えている。この傾向は9月頃まで続き、その後も時々自転が速めになると予想されている([1])。このこと自体は、決して異常ではない。2004年ごろにも同様のことが起こり、その影響で7年間くらい一度もうるう秒がないことがあった([2])。24時間を切ったと言っても違いは、せいぜい1ミリ秒。地球の自転と無関係に1日は通常86400秒に固定されているので、日常生活には影響しない。大昔の地球はもっと速く回っていて、1日が23時間だったときもあるというのだから、1ミリ秒ずれたくらいで大騒ぎすることもないだろう。

しかし年オーダーの短期的な話として、「うるう秒が入らない最長期間」の新記録になる可能性がある。「うるう秒」制度が始まって以降、これまでの最高記録は「7年間うるう秒なし」。協定世界時(UTC)1998年12月31日の末尾(日本時間1999年1月1日8時59分59秒の後ろ)にうるう秒が挿入されてから、UTC2005年の末尾に再びうるう秒が入るまで7年あいた。前回のうるう秒はUTC2016年末。2020年末のうるう秒の有無が公式発表されるのは数日後だが、UT1−UTCマイナス0.2秒台で「うるう秒」という先例は、21世紀に入ってから1度もない。マイナス0.5秒になりそうな辺りで挿入してプラス0.5秒側に振るのが、常識的に無難な線だし、最近の運用は実際そんな感じ。

前回の「7年間なし」記録のときは、うるう秒を入れてから4年で、またマイナス0.3秒くらいまで地球が遅れた。一方、2020年末にうるう秒がない場合、結果は「ずれマイナス0.2秒くらい」=前回の同じ条件より、ずれのペースが小さめ。この調子だと「8年間うるう秒なし」、場合によっては「10年間なし」といった新記録もあり得る。

地球の自転は、大ざっぱに10~20年の周期で速くなったり遅くなったりしているらしい。グラフ [3] を見ての漠然とした印象だが、現在入りつつある「谷」(1日の長さが短くなる)は前回よりちょっと深いかも…。地球の自転は気象の影響も受けているので、気象の乱れも関係しているのかもしれない。地球の自転が速めになるのは、UTCがずれにくいという点では良いこと。これまでの遅れの「貯金」がたっぷりあるので、「負のうるう秒」などという事態にはならない。長期的には、どっちにしても誤差の範囲内の揺らぎだろう。

[1] https://datacenter.iers.org/data/latestVersion/6_BULLETIN_A_V2013_016.txt

[2] https://en.wikipedia.org/wiki/File:Deviation_of_day_length_from_SI_day.svg

[3] https://en.wikipedia.org/wiki/File:Leapsecond.ut1-utc.svg

2020-08-08 NASAのサイトだって…

3年前の話。

大量の情報があるネット。一定割合で不正確な記述があるのは当たり前。でも規範的と考えられるサイトの間違いは、ある種のインパクトを持つ。素朴な意味では「間違い=良くない」。実際には「本当に間違ってるのだろうか。自分の側が何か勘違いしている?」という疑念が生じ、不正確な情報のおかげで、かえって勉強になることも(隅々まで検証することで理解が深まる)。

2017年の「「春夏秋冬」は「夏秋冬春」より長い」という考察は、NASAが公開している古い事典に「回帰年は、毎年0.005305秒ずつ増大している」と記されていたのが、一つのきっかけだった。増大ではなく減少のはずだが、さすがにNASAに言われると「もしかして、自分はこれまでずっと逆に覚えてた?」と不安になる。もはや参考文献を読み比べても、安心できない。自力で解析計算を行い「どの本が何と言おうと、これはこうなる」と確信したい。少なくとも、その方向に進みたかった…。

「人の間違いのあら探し」みたいな陰湿なことではない。NASAのサイトには「これは古い事典のアーカイブで、更新されていないので、正確性は保証できない」ときっちり断り書きがあり、記述に間違いがあってもおかしくなかった(うっかり符号を逆にしてしまうのは、誰にでもあることだろう)。きっかけは何であれ、春・夏・秋・冬の記事では「苦労してケプラー方程式を逆算しなくても、素朴な計算が成立」というところが面白かった。地球が軌道上を動いて「春分点」を通過すると考えずに、逆に「ここで春分になる場所」が軌道上を動いている…と考えることがブレークスルーとなった。

2020-12-22 木星・土星は外惑星なのに、太陽のそばで合になりたがる?

木星・土星の接近を面白がって眺めてる方も多いと思う。でも、夕暮れの地平線近くで、すぐに沈んでしまう。「どうせ合になるなら、夜中にゆっくり見られる位置でなってほしい」と思わないだろうか?

内惑星の水星・金星なら、日没ごろの西か、日の出ごろの東にしか来ないのは、仕方ない。けれど木星J、土星Sは外惑星。下図のように、地球Eから見て、太陽Oと反対側に来てはいけない理由は何もない。どうしてこの配置になってくれないのか?

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図から分かるように、この理想の配置になるためには、太陽から見て、地球・木星・土星が全部同じ方向(三重合)になる必要がある。3者の位置が独立だとして、木星・土星が太陽から見て合のとき、さらにその±1°に地球がある確率は、単純計算で180分の1。これが起こりにくいのは分かる。我慢しよう。けれど、そこまで理想的(真夜中の真南)でなくてもいいから、大ざっぱに太陽の逆側(地球から見て)で木星・土星が合になってくれてもいいのに…。直観的には確率半々で「太陽と同じ向き/逆の向き」に分かれるように思える。数回に1回くらいは、太陽から離れた場所で合になってくれてもおかしくない…ような気がする。実際、そういうイベントは起こり得るのだが、意外とまれ。ここ1000年くらいのデータをざっと見た限りでは、太陽から90°以上離れて合になるのは、8回に1回くらい…。このイベント自体が20年に1回くらいのレベルなので、そのさらに8回に1回は、運が良ければ一生に一度くらい…か。「いやいや、ここ1000年の配置がたまたまそうなってるだけ。1万年・10万年単位の長い尺度で見れば、木星・土星の合と地球の位置は、どう考えても独立のはず」?

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この疑問を追究するため、常に木星が図のJ位置にある座標系を考えよう。もちろん現実の木星は、恒星に対して、軌道上を動いている。けれど、発想は柔軟に…木星がどこにあるかと無関係に「木星がある方向が、太陽から見て12時の方向」と定義してしまおう。

※ この定義に納得できない場合、「座標系が木星と同じ速度で回転している」と解釈してください(太陽系を見下ろす方向にカメラがあって、木星の公転と同じ角速度でカメラの視野が回転しているので、モニター画面では木星が静止しているように見える)。

天文計算では、春分点を原点とする座標系を当たり前に使うが、春分点は黄道上を動いている。「座標系自体が回転している」というのは、天文学の文脈では、ありふれた設定。

「地球から見た木星と土星の合」イベントに限定すると、土星Sの位置に自由度はない。地球の位置Eを決めれば、EJを延長した先にSがある。さて、最初の「確率半々」という直観は、地球Eの位置が第1・第2象限にあるか、第3・第4象限にあるかが半々の確率…という考えだろう。それは太陽中心の感覚で、地球を中心とする見え方とは異なる。地球Eが3時の方角(真横)にあったとしても、地球から見た太陽・木星の離角OEJは90°より小さい。従って、Eが第1・第2象限にあっても、依然として、一般にはJは比較的太陽のそばにある。太陽と離れてほしい…という願いについては、少なくとも「五分五分」よりは分が悪い。

もう一つ、第一印象では分からないような、思い掛けない問題がある。理想の配置またはその付近に惑星たちが来たときには…

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地球の1公転の間に、次のように、短期間で3連続、木星・土星の合が起きるのでは? 地球がE、F、Gと動くとき、土星の位置がS、T、Uなら、そうなる。理想に近い配置が3連発。これが本当ならおいしい…。

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土星の(恒星から見た)公転周期は、木星のそれより長いので、木星から見ると、土星は「遅いランナー」。木星は何度も土星を追い越し、どんどん周回遅れをつけていく。従って、木星が止まっているように定義した座標系では、土星は常にバックしていて、概念的には上記の状態になる。とはいえ、このバックの速度は、木星と土星の(角運動の)速度差。1年で1周する地球(北極方向から太陽系を見下ろした場合、反時計回り)から見ると、10倍くらい遅い。よって上の図のS、T、Uのような「地球より速いバック」は不可能であり、これは成立しない。

ところが、次のようにE&GをFとほぼ逆側に設定すると、土星の遅いバックと、地球の速い前進が釣り合うポイントがどこかにあるはず。「理想に近い形で木星・土星が合になったときには、地球の1年のうちに、木星・土星の合が3連発で起きる」ということ自体は、確からしい(注: 木星と一緒に回転する座標系での1公転なので、普通の意味での1年とは微妙に異なる)。

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この状態になるためには、土星が「12時の方角±5°くらいの細いゾーン」にあることが必要…。「地球から見て、せめて太陽から90°くらいは離れてほしい」というささやかな願いのつもりだったのに、それを実現するためには木星と土星の位置関係が厳しく限定されてしまう。そして「合が3連発で起きる」というお祭りイベントが漏れなく付いてくる。そこまでレアなことを注文したつもりではないのだが…

地球がE、Gにあるとき、木星・土星は太陽とほぼ同じ方向にある。つまり地球がF付近での「良い合」が1回起きるたびに(それ自体レアだが)、「嫌な位置の木星・土星の合」が2回、起きる。そのせいで「良い合」の確率は、さらに少し下がってしまう。もっとも「3連発のシーズン」に地球上にいる天文ファンからすれば、1回はゆっくり合が見られる上、運が良ければ残り2回もそこそこ楽しめるのだろう。

「夕暮れの西(あるいは夜明けの東)じゃなくて、夜中の南で見られたらなぁ…」というのは「もう少し位置がずれてたらなぁ…」という小さな希望ではなく、全体の配置に関係してくる。「木星と土星は外惑星なのに、地球から見ると、内惑星のような位置で合になりやすい。今回もそうだった…」と。

本当にこの考え方で全てが説明されるのか? 実際の軌道は楕円だし、傾斜があるし、惑星の位置が真に「独立」かは分からない(軌道共鳴)。楕円と傾斜はとりあえず無視できるとして、軌道共鳴は…。その影響の有無・大小について、別途検討する必要がある。それと同じことかもしれないが、惑星たちの距離・公転周期の比がちょっと違っていたら、全然違う結果になっていたかもしれない。

2022-07-21 今日は火星の冬至 火星暦(Mars Year)36年・冬…

火星にも四季がある。火星の1年は、地球上の約2年――

火星が太陽の周りを一周する平均所要時間は、地球上の約687日。

火星上の四季の一巡の周期(回帰年)は、上記の公転周期(恒星年)より10分ほど短いが、地球時間で1年11カ月弱ということには変わりない。

一方、火星の自転周期(1日の長さ)は、地球時間で24時間40分ほどだという――地球の1日より少し長い。火星上の1日を基準とすると、火星の1年は669日弱。火星人にとって、669回の朝と夜を繰り返すと、季節が巡る。1年を12カ月とするなら、火星のカレンダーの1カ月は55~56火星日となりそうだ。

地球時間の20歳を成人とするなら、火星移民の赤ちゃんは火星暦の10歳半で成人する!

【1】 米国ジェット推進研究所のシルバン・ピコー(Sylvain Piqueux)を筆頭とする5人の研究者は、2015年、火星暦の「年初」を求めるための略算式を発表した。火星の春分の日が、火星暦の1年の始まり。火星暦0年は、地球暦1953年5月24日に始まる…と定義されている。今(2022年7月)は、火星暦36年らしい。

Enumeration of Mars years and seasons since the beginning of telescopic exploration
https://www.lpl.arizona.edu/~shane/publications/piqueux_etal_icarus_2015.pdf

火星の北半球で今は冬…。春分があるのなら、もちろん冬至もあるのだろう。面白いから計算してみよう!

「火星の冬至なんて計算して何の役に立つんだ?」なんて、やぼなことは言いっこなし。

【2】 冬至は、火星から見た太陽の位置 Ls が、火星から見た春分点の方向を基点に270°になったとき。上記の文献によると、出発点となる近似式は:
  《あ》 α = 270.389001822 + 0.52403850205t − 0.000565452T2
ここで α は「火星が円軌道を平均運動していると仮定した場合の Ls」(単位は°)、t は2000年1月1日12時からの経過日数、T = t/100。

この式を信用すると、t = 0 のとき α = 270.389… なので、2000年1月1日には、火星は冬至の少し後だったらしい。t は1日 0.524° ほど増える。360° をこの係数で割ると約687日。上述の通り、火星の1年の日数(地球時間で測った場合)だ。α = 270.389… と見比べると、ちょうど前日、1999年12月31日が冬至となるが、実際の火星軌道は楕円なので、数日程度の誤差はある。2次の係数が負なので、現在、火星から見た太陽の動きは、春分点を基準とする座標系において、わずかに減速中(=火星の1年はほんの少しずつ長くなっている)らしい。

まぁ、遊び半分の計算なので、細かい解釈は気にしないことにしよう!

【3】 2022年7月21日12時は、2000年1月1日12時の8237日後。

2020年1月1日までが 20年 = 365.25 × 20 = 7305日①(2000年もうるう年であることに注意)、そこから2022年1月1日までが 366 + 365 = 731日②、そこから7月1日までが 31 + 28 + 31 + 30 + 31 + 30 = 181日③。7月21日は7月1日の20日後④。①+②+③+④ = 8237。

従って、2022年7月21日0時は t = 8236.5。これを《あ》に代入すると:
  《い》 α ≈ 4586.632° = 266.632°

270°とは少しずれてるようだが、これは円軌道を仮定した値だった。楕円軌道に基づく値にするためには、中心差を補正しなければならない。同じ資料によると、この t に対して:
  平均近点離角 M ≈ 4335.477° = 15.477° ←0.270129869…ラジアン
  軌道の離心率 e ≈ 0.0934228 ←地球の離心率0.016…と比べると、円とのずれが結構でかい
この資料では、6次の中心差の式が与えられている。略算式の分際で6次とはバランスが悪い気もするが(地球軌道の略算なら2次式くらいで十分)、離心率がでかいので仕方ないのかな…。とりあえず言われた通りに計算してみると:
  《う》 中心差 ≈ 0.056125398…ラジアン ≈ 3.215°
これを《い》に足すと Ls = 269.847° となる。1日で 0.5° ほど増えるのだから、24時間後には 270° を超えている。つまり、2022年7月21日0時~24時のどこかで、火星は冬至を迎える。

だが、6次の中心差の計算なんてやり過ぎでは…? 検証のため、ケプラー方程式を直接解いてみる。M と e が上記の値として、ケプラー方程式
  E = M + e sin E  ←この M, E はラジアン単位
と満たす離心近点離角 E を逐次近似で求めると E = 0.297516457…、このとき真近点離角 v は、次の公式の 2 arctan から v = 0.326247076… となる:

従って、真の中心差は v − M = 0.056117206… ラジアン ≈ 3.215° となり、詳しく調べると、最初の計算は小数点以下4桁目がずれている。この略算式の最終的な有効数字は、角度の小数3桁程度なので、4桁目がずれると有効数字にも多少影響が及ぶ。中心差を6次も補正しているのは「やり過ぎ」ではなく、まぁ妥当な線(というより、これでもまだ精度が足りないくらい)のようだ。

【4】 略算式では、他の天体からの影響(摂動)も考慮されている。それによると、火星の軌道を乱す一番の犯人は、もちろん巨大な木星: 最大0.01°程度の影響がある。地球は、木星と比べれば質量が小さいが、火星のすぐそばにいるので、地球の重力も火星の軌道を乱す。同様の理由から、金星もある程度、火星の軌道に影響する。われわれの t(2022年7月21日0時)における主な「軌道の乱れの成分」を合計すると、計算が正しければ:
  《え》 −0.0087…°
結局、このときの Ls は《い》《う》《え》を足し合わせて 269.8390…°(中心差の補正において、ケプラー方程式を直接解くと 269.8386…°)。

t を 1 増やして、2022年7月22日0時の Ls を同様に計算すると 270.4680…°(ケプラー解 270.4675…°)。つまり1日で、およそ 270.468° − 269.839° = 0.629° 増えている。Ls = 270° になるためには、最初の t に対する値から見て、270° − 269.839° = 0.161° 増えればいい: そのための所要時間は 0.161/0.629 = 0.25596…日 = 約6時間9分。つまり、火星の冬至は、2022年7月22日6時10分ごろと推定される!

同じ略算式を使って Ls の変化を直接1分刻みで調べると、冬至の時刻は6時08分(ケプラー解 6時09分)くらい。誤差は±0.005°程度とあるので、それを考慮すると、誤差±10分くらい。これらの時刻は太陽系力学時であり、通常の時刻UTCと1分ほどずれているが、それは誤差の範囲に吸収される。

火星暦36年の冬至 = 地球の2022年7月21日6時(日本時間15時)ごろ

【5】 木星・地球・金星の摂動は補正されているが、火星の月フォボスとデイモスの影響については、言及されていない。火星のすぐそばにあるので、当然、火星の自転軸の向きに影響を与えるだろうが、地球の月と比べ桁違いに質量が小さいので、比較的影響は小さいのだろう(対照的に、地球は月の重力の影響を受けまくる)。

そもそもこの略算式では、1火星年より短い周期の成分(0.0001°のオーダー)は無視されている。めまぐるしい周期で火星の周りを回るフォボスやデイモスの重力で、火星の自転軸が微妙にふらつくとしても、直接的影響は短周期の振動だろう。

他方において、Including those short-period terms advances the date of Ls = 0 by 0.000377 ± 3.22 × 10−6 days, but would yield a vernal-equinox direction that oscillates through a [Mars Year]. とも記されている。advances が「定数で増える」という意味なら、(振動を除去した)影響の主要部分について《あ》の定数項を補正すればいいし、「線形で増える」という意味なら《あ》の1次の係数を補正すればいいようにも思えるが、真意が不明確。「春分点の方向が複雑に動く」のは地球天文学では当たり前のことで、事実として受け入れるしかないことだが、火星天文学では考え方が違うのだろうか…。

有効範囲500年程度で0.005°精度の略算式なら、歳差を無視しようが、近日点移動を無視しようが、実用になるだろうけど、《あ》は歳差込みなのだろうか。春分の話をするなら、春分の定義をもうちょっと詳しく書いてくれてもいいのに、ちょっと不親切な資料だ(真春分点じゃないことは確か)。

最近、純粋で繊細な数論の遊びばかりやってたので、久々にこういう文献を見ると「天文学者って、なんか大ざっぱだなぁ」って感じてしまう(笑)。sin の引数 M の単位が「角度の度」なのに、並べて書いてある摂動の式の cos の引数がラディアン単位なのは(文脈から意味は明らかとはいえ)いいかげん過ぎるぜ。

ところで「冬至」というのは北半球の話で、火星の南半球では「夏至」ってことになる(逆かもしれないが)。地球でも火星でも、惑星全体の話をする場合にまで北半球基準で「春分」などと表現するのは、ある意味「ヨーロッパ・北米中心思想=オーストラリア・南米などへの軽視」の現れであり、必ずしも好ましいことではない。「北が上」という地図や太陽系の描き方についても、潜在的には同様の問題がある。

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