チラ裏4

チラ裏」は、きちんとまとまった記事ではなく、断片的なメモです。誤字脱字・間違いがあるかもしれません。

数論(メモ)の目次

暦・天文

2019-07-17 西暦1年1月1日から2000年12月31日までの日数は?

第1・第2千年紀は、合計何日あったのだろう?

天文計算や暦の計算をする人なら、この二つの日付のユリウス日(JD)を考えたことがあるだろう。1582年の改暦前のユリウス暦を単純にさかのぼれると仮定すると、西暦1年1月1日正午は JD 1721424、一方、グレゴリオ暦2001年1月1日正午は JD 2451911 なので、この2000年間は730487日

次のように考えると、上記は簡単に暗算可能。純粋ユリウス暦なら2000年間は、365.25×2000 = 730500日。それに比べ、グレゴリオ暦では1582年の改暦で日付が10個飛ばされ、1700年・1800年・1900年の2月29日もないので、トータルで13個、日付が少ない。730500から13を引けば、730487。計算は単純だが、数学だけでは解けない(1582年に10日間がドロップされたという史実に依存)。純粋なグレゴリオ暦なら2000年間は730485日(400年につき3日少ないので、計15日少ない)。従って、グレゴリオ暦をさかのぼった西暦1年1月1日はユリウス暦の1月3日、逆にユリウス暦の1年1月1日はグレゴリオ暦の0年(いわゆる紀元前1年)12月30日。「暦の違いで、この時期の日付は2日ずれること」も、天文計算者なら経験済みかもしれない。

で、何が面白いかといえば、730487は素数ということ。2000年間においては、1年の平均日数が2000倍される。400年周期のグレゴリオ暦なら、400年間の日数が5倍される。結果は合成数になって当然だが、改暦のときのギャップによって、思いがけない現象が起きた。逆に、2000年間の日数が素数になるとしたら、必ずこの 730487 になる(1年の平均日数が365.24以上、365.26以下というような条件が付くが、回帰年についての現実の値を考えると、まともな太陽暦は必ずこの条件を満たす)。

2019-07-18 西暦1年1月1日(その2)

昨日の計算では「ユリウス暦を普通にさかのぼれる」と仮定した。実際、西暦8年ごろまでは、さかのぼった結果は、歴史上の日付と一致するらしい。それより前の約50年間は複雑。紀元前50年ごろ、ユリウス暦が導入された直後、ローマでは暦の運用を誤り、4年に1回のはずの「うるう年」を3年に1回入れていたという。間違いの詳細については断片的史料しかなく、結論が出ていない。

うるう年を入れ過ぎれば、当然、カレンダー上の日付進行がもたつく。結果、最大約3日の遅れが生じ、理論上の正しいユリウス暦(以下J)の−8年(=紀元前9年)3月4日が、現実のローマでは「3月1日」だった可能性がある。その後、カレンダーを早送りしてJに追い付くため、臨時に平年ばかりを連続させ、−4年3月3日Jがローマの「3月1日」、0年3月2日Jがローマの「3月1日」、4年3月1日には史実の日付がJと一致、それ以降は普通にうるう年が挿入され、正しく運用されてた…というのが一つの説。別の説では、0年3月1日以降、史実=J。

(I) 後者の説だと、歴史上の「1年1月1日」は実際に1年1月1日J・土曜日、史実の2000年間は730487日。

(II) 前者の説だと、歴史上の「1年1月1日」は1年1月2日J・日曜日、史実の2000年間は730486日。

(III) 参考として、グレゴリオ暦をさかのぼった「1年1月1日」は1年1月3日J・月曜日、2000年間は730485日(グレゴリオ暦では400年ごとに曜日が循環するので、2001年1月1日と同じ曜日)。

現実の歴史では、1582年より前にグレゴリオ暦は使われていない。史実は恐らく (I) か (II)。

2019-07-24 5分で覚える! グレゴリオ/ユリウス暦・日付変換暗算法

簡単。意外と役立つ。「シェイクスピアの命日4月23日は今の暦で何月何日?」みたいな場面で。

「グレゴリオ暦(以下G)は、ユリウス暦(以下J)に比べ、400年につき3回、2月29日が少ない」ことはご存じでしょう(知らなかった方はこの機会に確認を)。

つまりGはJより400年につき3日短く、短いのだから日付進行が速い。例=2000年1月1日Jが「1月14日G」とすれば、2400年1月1日Jは「1月17日G」(← 400年前と比べ、日付が3日分「未来」)。

問題は「いつ何日ずれるか」。具体的な「ずれ日数」。何種類か覚え方があって、どれか一つで間に合うので、気に入ったのをどうぞ↓

  1. グレゴリオ暦への改暦(1582)のとき、日付が10日飛んだ。1582年10月4日の夜に寝て、起きたら10月15日になってた! なにそれ、まじ?! タイムスリップ?! この話は1度聞いたら絶対忘れないよね。細かい日付はさておき、ポイントは、1600年ごろ日付が10日飛んだ。だからそれ以降、同じ日の日付がG世界では「10日未来」(1600年1月1日J=1月11日G)。
  2. もう一つの覚え方=2000年に差が13日(2000年1月1日J=1月14日G)。改暦の直接の理由は、キリスト教の復活祭絡み=不吉な「13日の金曜日」と関係あり。改暦した人はグレゴリオ13世。13がキーワード!

あとは「400年につき3日ずれる」という事実と組み合わせれば、2400年のずれは16日、2800年のずれは19日、3200年のずれは22日。逆方向に、1600年のずれは10日、1200年のずれは7日、800年のずれは3日、400年のずれは1日、0年のずれはマイナス2日。ずれがマイナスってことは、逆にJの方が「未来」。例=西暦1年1月1日Jは、0年(つまり紀元前1年)12月30日G。

最後の仕上げ。ずれの原因「2月29日の有無の違い」は、「400の倍数以外の」100の倍数の年に発生。だから上記を基準に直前の400の倍数の年を考え、100年ごとに1日足す方向で。例=1701、1801、1901年のずれは、それぞれ11、12、13日。2101、2201、2301年のずれは、それぞれ14、15、16日。暗記しなくても、順を追って考えればすんなり。

例題 ロシアの文豪ドストエフスキーの誕生日は、当時のロシアの暦(J)で1821年10月30日。Gに換算すると何月何日?

換算法 1600年のずれ10を基準に。18xx年のGは12日「未来」。10月30日の12日「未来」=指折り数えれば11月11日。意外と簡単でしょ?

NOTE: 式で書くと、10月30日 + 12 = 10月31日 + 11 = 11月11日。簡略に、10月30日 + 12 = 10月42日 = 11月11日(10月は31日までなので、1繰り上がって余り11日)。

練習問題 シェイクスピアは、当時の英国の暦(J)の1616年4月23日に亡くなりました。(1) グレゴリオ暦では何月何日でしょう。 (2) 来年「ユリウス暦のシェイクスピアの命日」に記念イベントを開くとしたら、現在の暦(G)の何月何日? (答え合わせはタイトル・テキストで →

(補足) 厳密に理解したい方へ。実用上、普通そこまで考える必要ないけど、ずれが拡大するのは「Jにある2月29日が、Gにないとき」。400の倍数以外のxx00年1・2月Gは前年のずれのまま。上記の暗算法を単純に使うと、まれに(400年につき2カ月×3回)、計算が合わない期間が生じる。解決法=この手の計算では「1年は3月1日に始まり、2月末日に終わる」と解釈するのが定石。例=1900年1・2月は1899年と「同じ年」。

2020-06-17 半減期の「1年」は何日か? 常識の落とし穴

ウィキペディアの「コバルト」のページによると、コバルト60の半減期は「5.2714年」だという。これは何日だろうか?

単純に1年=365日(★)とするか。天文計算のデフォで、1年=365.25日(★★)とするか(ユリウス年)。それとも現実の暦を使って、365.2425日(★★★)とするか(グレゴリオ年)。それらの定義によると、上記の半減期は、それぞれ:
1924.06日
1925.38日
1925.34日
となる(小数第3位以下は四捨五入)。バラバラの値になってしまった。「5.2714年」のような細かい数字を言うときは、まず「年」の意味を定義しないと議論が成り立たないことが分かる。

驚いたことに、上記3種類の解釈は、どれも正しくないようだ。核物理の世界では、
1年 = 31556926秒 = 365.24220日(☆)
と定義する習慣が根強いらしい(上記の例では、数値的には、誤差の範囲で★★★と一致する)。(☆)は暦学ではおなじみの値であり(一昔前の回帰年の近似値)、1年の長さをそう定義して悪いわけではないが、回帰年の長さは「1世紀につき0.5秒くらい」のオーダーでどんどん短くなる。精密に現在の(2000.0年における)回帰年の長さを使いたいなら、
1年 = 約31556925秒 = 365.24219日(☆☆)
であり、(☆)では既に1秒ずれている。他方、いくら精密に(☆☆)を使っても、どうせまたすぐ変動してしまうので、あまり意味がない。むしろ割り切って1年=365.25日(★★)に固定した方が、計算上、便利だろう(コンピューターの浮動小数点数として、誤差が出ない)。

とはいえ、国際的な慣習にケチをつけても仕方ない。半減期の「1年」は、しばしば「365日でも365.25日でもなく、グレゴリオ年でもなく、現在の回帰年でもない」という紛らわしい事実を受け入れるしかあるまい。「1日」といえば、特に断らない限り86400 SI秒であり、誤解の余地は少ないが、「1年」の長さは分野によって・人によって定義が違う場合がある。「1年」という言葉は、あまりにも日常的で、意味が分かり切っているように感じられるが、精密科学の文脈では、そこに落とし穴がある!

ボーナスクイズ もし仮に「☆☆の31556925秒が1年の正確な長さであり、かつ1日の長さが正確に86400秒で、どちらも変動しない」とした場合、1年の日数は有限小数になる。最良近似分数の列は次の通り。

365  1461  10592  12053  46751
---, ----, -----, -----, -----
  1     4     29     33    128

このような仮定上の世界においては「128年につき31回うるう年を入れる」こと(言い換えれば「4年に1度のうるう年を、128年につき1回だけ例外的にやめる」こと)によって、カレンダーと季節のずれを長期的にゼロにできる。同様のことを(☆)でやろうとすると、どうなるか?

2020-07-01 地球の自転が一時的に速くなっている 1日の長さ24時間を切る

精密に測ると地球の自転は日々変動しているが、長期的にはだんだん遅くなっている。「自転による1日は、定義上の24時間=86400秒より1ミリ秒(1000分の1秒)くらい長い」というのが、これまでの大ざっぱな感覚だった。だから1000日くらい(数年)のオーダーで地球は時計より1秒遅れ、時計合わせのため「うるう秒」が挿入される…と。

ところが実測で、2020年6月5日ごろから、86400秒かからないで自転が終わる状態が続いている。「自転と時計の差」(UT1−UTC)が普通ならだんだん減るはずなのに(自転より時計の方が進みが速いので、マイナスが大きくなる)、逆に少しずつ増えている。この傾向は9月頃まで続き、その後も時々自転が速めになると予想されている([1])。このこと自体は、決して異常ではない。2004年ごろにも同様のことが起こり、その影響で7年間くらい一度もうるう秒がないことがあった([2])。24時間を切ったと言っても違いは、せいぜい1ミリ秒。地球の自転と無関係に1日は通常86400秒に固定されているので、日常生活には影響しない。大昔の地球はもっと速く回っていて、1日が23時間だったときもあるというのだから、1ミリ秒ずれたくらいで大騒ぎすることもないだろう。

しかし年オーダーの短期的な話として、「うるう秒が入らない最長期間」の新記録になる可能性がある。「うるう秒」制度が始まって以降、これまでの最高記録は「7年間うるう秒なし」。協定世界時(UTC)1998年12月31日の末尾(日本時間1999年1月1日8時59分59秒の後ろ)にうるう秒が挿入されてから、UTC2005年の末尾に再びうるう秒が入るまで7年あいた。前回のうるう秒はUTC2016年末。2020年末のうるう秒の有無が公式発表されるのは数日後だが、UT1−UTCマイナス0.2秒台で「うるう秒」という先例は、21世紀に入ってから1度もない。マイナス0.5秒になりそうな辺りで挿入してプラス0.5秒側に振るのが、常識的に無難な線だし、最近の運用は実際そんな感じ。

前回の「7年間なし」記録のときは、うるう秒を入れてから4年で、またマイナス0.3秒くらいまで地球が遅れた。一方、2020年末にうるう秒がない場合、結果は「ずれマイナス0.2秒くらい」=前回の同じ条件より、ずれのペースが小さめ。この調子だと「8年間うるう秒なし」、場合によっては「10年間なし」といった新記録もあり得る。

地球の自転は、大ざっぱに10~20年の周期で速くなったり遅くなったりしているらしい。グラフ [3] を見ての漠然とした印象だが、現在入りつつある「谷」(1日の長さが短くなる)は前回よりちょっと深いかも…。地球の自転は気象の影響も受けているので、気象の乱れも関係しているのかもしれない。地球の自転が速めになるのは、UTCがずれにくいという点では良いこと。これまでの遅れの「貯金」がたっぷりあるので、「負のうるう秒」などという事態にはならない。長期的には、どっちにしても誤差の範囲内の揺らぎだろう。

[1] https://datacenter.iers.org/data/latestVersion/6_BULLETIN_A_V2013_016.txt

[2] https://en.wikipedia.org/wiki/File:Deviation_of_day_length_from_SI_day.svg

[3] https://en.wikipedia.org/wiki/File:Leapsecond.ut1-utc.svg

2020-08-08 NASAのサイトだって…

3年前の話。

大量の情報があるネット。一定割合で不正確な記述があるのは当たり前。でも規範的と考えられるサイトの間違いは、ある種のインパクトを持つ。素朴な意味では「間違い=良くない」。実際には「本当に間違ってるのだろうか。自分の側が何か勘違いしている?」という疑念が生じ、不正確な情報のおかげで、かえって勉強になることも(隅々まで検証することで理解が深まる)。

2017年の「「春夏秋冬」は「夏秋冬春」より長い」という考察は、NASAが公開している古い事典に「回帰年は、毎年0.005305秒ずつ増大している」と記されていたのが、一つのきっかけだった。増大ではなく減少のはずだが、さすがにNASAに言われると「もしかして、自分はこれまでずっと逆に覚えてた?」と不安になる。もはや参考文献を読み比べても、安心できない。自力で解析計算を行い「どの本が何と言おうと、これはこうなる」と確信したい。少なくとも、その方向に進みたかった…。

「人の間違いのあら探し」みたいな陰湿なことではない。NASAのサイトには「これは古い事典のアーカイブで、更新されていないので、正確性は保証できない」ときっちり断り書きがあり、記述に間違いがあってもおかしくなかった(うっかり符号を逆にしてしまうのは、誰にでもあることだろう)。きっかけは何であれ、春・夏・秋・冬の記事では「苦労してケプラー方程式を逆算しなくても、素朴な計算が成立」というところが面白かった。地球が軌道上を動いて「春分点」を通過すると考えずに、逆に「ここで春分になる場所」が軌道上を動いている…と考えることがブレークスルーとなった。

2020-12-22 木星・土星は外惑星なのに、太陽のそばで合になりたがる?

木星・土星の接近を面白がって眺めてる方も多いと思う。でも、夕暮れの地平線近くで、すぐに沈んでしまう。「どうせ合になるなら、夜中にゆっくり見られる位置でなってほしい」と思わないだろうか?

内惑星の水星・金星なら、日没ごろの西か、日の出ごろの東にしか来ないのは、仕方ない。けれど木星J、土星Sは外惑星。下図のように、地球Eから見て、太陽Oと反対側に来てはいけない理由は何もない。どうしてこの配置になってくれないのか?

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図から分かるように、この理想の配置になるためには、太陽から見て、地球・木星・土星が全部同じ方向(三重合)になる必要がある。3者の位置が独立だとして、木星・土星が太陽から見て合のとき、さらにその±1°に地球がある確率は、単純計算で180分の1。これが起こりにくいのは分かる。我慢しよう。けれど、そこまで理想的(真夜中の真南)でなくてもいいから、大ざっぱに太陽の逆側(地球から見て)で木星・土星が合になってくれてもいいのに…。直観的には確率半々で「太陽と同じ向き/逆の向き」に分かれるように思える。数回に1回くらいは、太陽から離れた場所で合になってくれてもおかしくない…ような気がする。実際、そういうイベントは起こり得るのだが、意外とまれ。ここ1000年くらいのデータをざっと見た限りでは、太陽から90°以上離れて合になるのは、8回に1回くらい…。このイベント自体が20年に1回くらいのレベルなので、そのさらに8回に1回は、運が良ければ一生に一度くらい…か。「いやいや、ここ1000年の配置がたまたまそうなってるだけ。1万年・10万年単位の長い尺度で見れば、木星・土星の合と地球の位置は、どう考えても独立のはず」?

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この疑問を追究するため、常に木星が図のJ位置にある座標系を考えよう。もちろん現実の木星は、恒星に対して、軌道上を動いている。けれど、発想は柔軟に…木星がどこにあるかと無関係に「木星がある方向が、太陽から見て12時の方向」と定義してしまおう。

※ この定義に納得できない場合、「座標系が木星と同じ速度で回転している」と解釈してください(太陽系を見下ろす方向にカメラがあって、木星の公転と同じ角速度でカメラの視野が回転しているので、モニター画面では木星が静止しているように見える)。

天文計算では、春分点を原点とする座標系を当たり前に使うが、春分点は黄道上を動いている。「座標系自体が回転している」というのは、天文学の文脈では、ありふれた設定。

「地球から見た木星と土星の合」イベントに限定すると、土星Sの位置に自由度はない。地球の位置Eを決めれば、EJを延長した先にSがある。さて、最初の「確率半々」という直観は、地球Eの位置が第1・第2象限にあるか、第3・第4象限にあるかが半々の確率…という考えだろう。それは太陽中心の感覚で、地球を中心とする見え方とは異なる。地球Eが3時の方角(真横)にあったとしても、地球から見た太陽・木星の離角OEJは90°より小さい。従って、Eが第1・第2象限にあっても、依然として、一般にはJは比較的太陽のそばにある。太陽と離れてほしい…という願いについては、少なくとも「五分五分」よりは分が悪い。

もう一つ、第一印象では分からないような、思い掛けない問題がある。理想の配置またはその付近に惑星たちが来たときには…

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地球の1公転の間に、次のように、短期間で3連続、木星・土星の合が起きるのでは? 地球がE、F、Gと動くとき、土星の位置がS、T、Uなら、そうなる。理想に近い配置が3連発。これが本当ならおいしい…。

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土星の(恒星から見た)公転周期は、木星のそれより長いので、木星から見ると、土星は「遅いランナー」。木星は何度も土星を追い越し、どんどん周回遅れをつけていく。従って、木星が止まっているように定義した座標系では、土星は常にバックしていて、概念的には上記の状態になる。とはいえ、このバックの速度は、木星と土星の(角運動の)速度差。1年で1周する地球(北極方向から太陽系を見下ろした場合、反時計回り)から見ると、10倍くらい遅い。よって上の図のS、T、Uのような「地球より速いバック」は不可能であり、これは成立しない。

ところが、次のようにE&GをFとほぼ逆側に設定すると、土星の遅いバックと、地球の速い前進が釣り合うポイントがどこかにあるはず。「理想に近い形で木星・土星が合になったときには、地球の1年のうちに、木星・土星の合が3連発で起きる」ということ自体は、確からしい(注: 木星と一緒に回転する座標系での1公転なので、普通の意味での1年とは微妙に異なる)。

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この状態になるためには、土星が「12時の方角±5°くらいの細いゾーン」にあることが必要…。「地球から見て、せめて太陽から90°くらいは離れてほしい」というささやかな願いのつもりだったのに、それを実現するためには木星と土星の位置関係が厳しく限定されてしまう。そして「合が3連発で起きる」というお祭りイベントが漏れなく付いてくる。そこまでレアなことを注文したつもりではないのだが…

地球がE、Gにあるとき、木星・土星は太陽とほぼ同じ方向にある。つまり地球がF付近での「良い合」が1回起きるたびに(それ自体レアだが)、「嫌な位置の木星・土星の合」が2回、起きる。そのせいで「良い合」の確率は、さらに少し下がってしまう。もっとも「3連発のシーズン」に地球上にいる天文ファンからすれば、1回はゆっくり合が見られる上、運が良ければ残り2回もそこそこ楽しめるのだろう。

「夕暮れの西(あるいは夜明けの東)じゃなくて、夜中の南で見られたらなぁ…」というのは「もう少し位置がずれてたらなぁ…」という小さな希望ではなく、全体の配置に関係してくる。「木星と土星は外惑星なのに、地球から見ると、内惑星のような位置で合になりやすい。今回もそうだった…」と。

本当にこの考え方で全てが説明されるのか? 実際の軌道は楕円だし、傾斜があるし、惑星の位置が真に「独立」かは分からない(軌道共鳴)。楕円と傾斜はとりあえず無視できるとして、軌道共鳴は…。その影響の有無・大小について、別途検討する必要がある。それと同じことかもしれないが、惑星たちの距離・公転周期の比がちょっと違っていたら、全然違う結果になっていたかもしれない。

2022-07-21 今日は火星の冬至 火星暦(Mars Year)36年・冬…

火星にも四季がある。火星の1年は、地球上の約2年――

火星が太陽の周りを一周する平均所要時間は、地球上の約687日。

火星上の四季の一巡の周期(回帰年)は、上記の公転周期(恒星年)より10分ほど短いが、地球時間で1年11カ月弱ということには変わりない。

一方、火星の自転周期(1日の長さ)は、地球時間で24時間40分ほどだという――地球の1日より少し長い。火星上の1日を基準とすると、火星の1年は669日弱。火星人にとって、669回の朝と夜を繰り返すと、季節が巡る。1年を12カ月とするなら、火星のカレンダーの1カ月は55~56火星日となりそうだ。

地球時間の20歳を成人とするなら、火星移民の赤ちゃんは火星暦の10歳半で成人する!

【1】 米国ジェット推進研究所のシルバン・ピコー(Sylvain Piqueux)を筆頭とする5人の研究者は、2015年、火星暦の「年初」を求めるための略算式を発表した。火星の春分の日が、火星暦の1年の始まり。火星暦0年は、地球暦1953年5月24日に始まる…と定義されている。今(2022年7月)は、火星暦36年らしい。

Enumeration of Mars years and seasons since the beginning of telescopic exploration
https://www.lpl.arizona.edu/~shane/publications/piqueux_etal_icarus_2015.pdf

火星の北半球で今は冬…。春分があるのなら、もちろん冬至もあるのだろう。面白いから計算してみよう!

「火星の冬至なんて計算して何の役に立つんだ?」なんて、やぼなことは言いっこなし。

【2】 冬至は、火星から見た太陽の位置 Ls が、火星から見た春分点の方向を基点に270°になったとき。上記の文献によると、出発点となる近似式は:
  《あ》 α = 270.389001822 + 0.52403850205t − 0.000565452T2
ここで α は「火星が円軌道を平均運動していると仮定した場合の Ls」(単位は°)、t は2000年1月1日12時からの経過日数、T = t/100。

この式を信用すると、t = 0 のとき α = 270.389… なので、2000年1月1日には、火星は冬至の少し後だったらしい。t は1日 0.524° ほど増える。360° をこの係数で割ると約687日。上述の通り、火星の1年の日数(地球時間で測った場合)だ。α = 270.389… と見比べると、ちょうど前日、1999年12月31日が冬至となるが、実際の火星軌道は楕円なので、数日程度の誤差はある。2次の係数が負なので、現在、火星から見た太陽の動きは、春分点を基準とする座標系において、わずかに減速中(=火星の1年はほんの少しずつ長くなっている)らしい。

まぁ、遊び半分の計算なので、細かい解釈は気にしないことにしよう!

【3】 2022年7月21日12時は、2000年1月1日12時の8237日後。

2020年1月1日までが 20年 = 365.25 × 20 = 7305日①(2000年もうるう年であることに注意)、そこから2022年1月1日までが 366 + 365 = 731日②、そこから7月1日までが 31 + 28 + 31 + 30 + 31 + 30 = 181日③。7月21日は7月1日の20日後④。①+②+③+④ = 8237。

従って、2022年7月21日0時は t = 8236.5。これを《あ》に代入すると:
  《い》 α ≈ 4586.632° = 266.632°

270°とは少しずれてるようだが、これは円軌道を仮定した値だった。楕円軌道に基づく値にするためには、中心差を補正しなければならない。同じ資料によると、この t に対して:
  平均近点離角 M ≈ 4335.477° = 15.477° ←0.270129869…ラジアン
  軌道の離心率 e ≈ 0.0934228 ←地球の離心率0.016…と比べると、円とのずれが結構でかい
この資料では、6次の中心差の式が与えられている。略算式の分際で6次とはバランスが悪い気もするが(地球軌道の略算なら2次式くらいで十分)、離心率がでかいので仕方ないのかな…。とりあえず言われた通りに計算してみると:
  《う》 中心差 ≈ 0.056125398…ラジアン ≈ 3.215°
これを《い》に足すと Ls = 269.847° となる。1日で 0.5° ほど増えるのだから、24時間後には 270° を超えている。つまり、2022年7月21日0時~24時のどこかで、火星は冬至を迎える。

だが、6次の中心差の計算なんてやり過ぎでは…? 検証のため、ケプラー方程式を直接解いてみる。M と e が上記の値として、ケプラー方程式
  E = M + e sin E  ←この M, E はラジアン単位
を考える。この式を満たす離心近点離角 E を逐次近似で求めると E = 0.297516457…。そのとき真近点離角 v は、次の公式の 2 arctan から v = 0.326247076… となる:

従って、真の中心差は v − M = 0.056117206… ラジアン ≈ 3.215° となり、詳しく調べると、最初の計算は小数点以下4桁目がずれている。この略算式の最終的な有効数字は、角度の小数3桁程度なので、4桁目がずれると有効数字にも多少影響が及ぶ。中心差を6次も補正しているのは「やり過ぎ」ではなく、まぁ妥当な線(というより、これでもまだ精度が足りないくらい)のようだ。

【4】 略算式では、他の天体からの影響(摂動)も考慮されている。それによると、火星の軌道を乱す一番の犯人は、もちろん巨大な木星: 最大0.01°程度の影響がある。地球は、木星と比べれば質量が小さいが、火星のすぐそばにいるので、地球の重力も火星の軌道を乱す。同様の理由から、金星もある程度、火星の軌道に影響する。われわれの t(2022年7月21日0時)における主な「軌道の乱れの成分」を合計すると、計算が正しければ:
  《え》 −0.0087…°
結局、このときの Ls は《い》《う》《え》を足し合わせて 269.8390…°(中心差の補正において、ケプラー方程式を直接解くと 269.8386…°)。

t を 1 増やして、2022年7月22日0時の Ls を同様に計算すると 270.4680…°(ケプラー解 270.4675…°)。つまり1日で、およそ 270.468° − 269.839° = 0.629° 増えている。Ls = 270° になるためには、最初の t に対する値から見て、270° − 269.839° = 0.161° 増えればいい: そのための所要時間は 0.161/0.629 = 0.25596…日 = 約6時間9分。つまり、火星の冬至は、2022年7月22日6時10分ごろと推定される!

同じ略算式を使って Ls の変化を直接1分刻みで調べると、冬至の時刻は6時08分(ケプラー解 6時09分)くらい。誤差は±0.005°程度とあるので、それを考慮すると、誤差±10分くらい。これらの時刻は太陽系力学時であり、通常の時刻UTCと1分ほどずれているが、それは誤差の範囲に吸収される。

火星暦36年の冬至 = 地球の2022年7月21日6時(日本時間15時)ごろ

【5】 木星・地球・金星の摂動は補正されているが、火星の月フォボスとデイモスの影響については、言及されていない。火星のすぐそばにあるので、当然、火星の自転軸の向きに影響を与えるだろうが、地球の月と比べ桁違いに質量が小さいので、比較的影響は小さいのだろう(対照的に、地球は月の重力の影響を受けまくる)。

そもそもこの略算式では、1火星年より短い周期の成分(0.0001°のオーダー)は無視されている。めまぐるしい周期で火星の周りを回るフォボスやデイモスの重力で、火星の自転軸が微妙にふらつくとしても、直接的影響は短周期の振動だろう。

他方において、Including those short-period terms advances the date of Ls = 0 by 0.000377 ± 3.22 × 10−6 days, but would yield a vernal-equinox direction that oscillates through a [Mars Year]. とも記されている。advances が「定数で増える」という意味なら、(振動を除去した)影響の主要部分について《あ》の定数項を補正すればいいし、「線形で増える」という意味なら《あ》の1次の係数を補正すればいいようにも思えるが、真意が不明確。「春分点の方向が複雑に動く」のは地球天文学では当たり前のことで、事実として受け入れるしかないことだが、火星天文学では考え方が違うのだろうか…。

有効範囲500年程度で0.005°精度の略算式なら、歳差を無視しようが、近日点移動を無視しようが、実用になるだろうけど、《あ》は歳差込みなのだろうか。春分の話をするなら、春分の定義をもうちょっと詳しく書いてくれてもいいのに、ちょっと不親切な資料だ(真春分点じゃないことは確か)。

最近、純粋で繊細な数論の遊びばかりやってたので、久々にこういう文献を見ると「天文学者って、なんか大ざっぱだなぁ」って感じてしまう(笑)。sin の引数 M の単位が「角度の度」なのに、並べて書いてある摂動の式の cos の引数がラディアン単位なのは(文脈から意味は明らかとはいえ)いいかげん過ぎるぜ。

ところで「冬至」というのは北半球の話で、火星の南半球では「夏至」ってことになる(逆かもしれないが)。地球でも火星でも、惑星全体の話をする場合にまで北半球基準で「春分」などと表現するのは、ある意味「ヨーロッパ・北米中心思想=オーストラリア・南米などへの軽視」の現れであり、必ずしも好ましいことではない。「北が上」という地図や太陽系の描き方についても、潜在的には同様の問題がある。

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2023-10-08 今年は6年前と曜日が同じ…? バースデイ・メッセージの定理

17歳の誕生日のお祝いメッセージに「今日はあなたが生まれた日と曜日も同じですね♪」と書き添えると、喜ばれるかもしれない。

このバースデイ・メッセージ、約75%の人に対して、21世紀の間は正しそうだ。17歳では曜日が巡回しない人もいるが、大抵、11歳か17歳(場合によってはその両方)のとき、このようなメッセージが成り立つ。正確な仕組みは、以下の通り。

「2000年3月1日が水曜日で、例外なく4年に1回うるう年があるシンプルなカレンダー」を考え、それを単に「ユリウス暦」と呼ぶことにする(1901年~2099年の期間については、この暦は現実と一致)。便宜上、1月・2月は前年に属するものとする――例えば「2023年」という言葉で、西暦2023年3月1日から翌2月末日までの1年間を表す。

規則1 4で割り切れる年の日付は、5年前の同じ日と曜日が同じ。
  【例1】 2024年3月1日は金曜 ⇒ 2019年3月1日も金曜
  【例2】 2025年1月1日は水曜(計算上まだ2024年!) ⇒ 2020年1月1日も水曜
規則2 それ以外の年の日付は大抵、6年前の同じ日と曜日が同じ。
  【例3】 2023年3月1日は水曜 ⇒ 2017年3月1日も水曜
  【例4】 2022年3月1日は火曜 ⇒ 2016年3月1日も火曜
規則3 ただし4で割って1余る年に限っては、11年前と曜日が同じ。
  【例5】 2025年3月1日は土曜 ⇒ 2014年3月1日も土曜(この11年間には「3月1日が土曜になる年」が他にない)

〔補足〕 規則2によれば、2024年2月29日・木曜日(2023年扱い)は「2018年2月29日」と同じ曜日のはずだが、実際には、2018年には「2月29日」がない。このような場合、「2月29日」に当たる実在の日付(2月28日の翌日3月1日)と曜日が一致。

規則1~3(成り立つ理由については後述)を「未来方向」に言い換えると、こうなる。

西暦年数(1・2月は前年に属する)を4で割った余りと曜日の循環
余りその日が同じ曜日になる年循環パターン
次回・次の次・3回目4回目
06年後 17年後23年後28年後6, 17, 23, 28
111年後 7, 12, 18, 29
2 22年後13, 19, 24, 30
35年後 8, 14, 25, 31

「循環パターン」は単なる検算用のツール。基点を2000年~2003年のどれかとして、例えば、余り1の2001年から始めると、次回は6年後の2007年、それは余り3なのでそのまた次回は5年後の2012年、それは余り0なのでそのまた次回は2018年…等々。下位2桁を読んで、71218…としたもの。このパターンから、最初の「余り」(0~3)を引き算したものが、「次回」「次の次」「3回目」…などの、○年後という正味の年数に当たる。

表から、次の事実が読み取れる。

バースデイ・メッセージの定理 ユリウス暦の「4で割り切れない年」の日付について、11年後の同じ日は、同じ曜日。「4で割って余りが2以下の年」の日付について、17年後の同じ日は、同じ曜日。一方、28年後の同じ日付は、例外なく同じ曜日。

 【例6】 2025年・2026年・2027年の3月1日は、それぞれ土・日・月 ⇒ 11年後、2035年・2036年・2037年の3月1日も土・日・月
  【例7】 2000年・2001年・2002年の3月1日は、それぞれ水・木・金 ⇒ 17年後、2017年・2018年・2019年の3月1日も水・木・金

「1月・2月」の年数の解釈が、普通と違うことに注意――例えば、2012年1月生まれの人は、この計算上では、出生年が2011(4で割り切れず、4で割って3余る)。日付(誕生日)は「3月1日」でなくても構わない。現実のカレンダー(グレゴリオ暦)は、ユリウス暦より少し複雑。計算期間にグレゴリオ暦の「例外の年」(100で割り切れて400で割り切れない)が含まれる場合、パターンが乱れる。ただし、次にそれが起きるのは2100年2月。当分の間、上の考え方で実用になる。

*

平年の日数 365 は 7 の倍数より 1 大きい(つまり 365 を 7 で割ると 1 余る)。うるう年の日数 366 は 7 の倍数より 2 大きい。そのことから、次の原則が成り立つ。

特定の年月日の曜日が分かっているとして、その年が平年なら、翌年の同じ日は「次の曜日」。さもなければ(考えている特定の年月日がうるう年に属するなら)、翌年の同じ日は「次の次の曜日」。

〔注〕 この計算上の「平年・うるう年」は、「その特定の年月日からちょうど1年後までの期間に、2月29日が含まれるか?」で決まる。言い換えると、1月・2月を前年の13月・14月のように扱い、14月に29日があれば、前年の3月以降を「うるう年」と見なす。例えば、2023年3月1日から2024年2月末日までは「うるう年」、2024年3月1日から2025年2月末日までは「平年」。

ユリウス暦では、2月29日以外の日付の曜日は、次のように28年周期で単純に循環する――つまり、同じ日付は、毎年、次の曜日・次の曜日…と一つずつ進むが、2月29日が挟まると一つジャンプして次の次の曜日になる(2月29日のせいで曜日が1個余計に消費されるため):

2000年~2027年の3月1日の曜日
*印では2月29日のせいで曜日が一つ飛ぶ
(2028年以降は28年前の反復)
20002001200220032004200520062007
*水*月
2008200920102011 2012201320142015
*土 *木
2016201720182019 2020202120222023
*火 *日
2024202520262027 2028202920302031
*金 (*水)(木)(金)(土)

規則1~3の理由は次の通り。

規則1の理由 *印の年から過去に5年戻ると、「うるう年ジャンプ(*印)が2回挟まる」結果として、曜日が7個巻き戻って、もともとの曜日と同じになる(5年戻ること自体で5個戻るのと、*印で2個戻ることの合計)。

規則2の理由 *印の前年または前々年から過去に6年戻ると、「うるう年ジャンプが1回挟まる」結果として、曜日が7個巻き戻って、もともとの曜日と同じになる。

〔注〕 *印の前々年から「6年だけ」過去に戻る場合、表の上では*印が2回出現するが、6年前の*印では、うるう年ジャンプは起きない――年初を3月1日としているため、*印が示すその前日2月29日は、計算期間に含まれない。

規則3の理由 *印の翌年から見ると、5年前の同じ日付は、曜日が6個巻き戻っている(うるう年ジャンプが1回あるため)。「その前年にはもう一つ戻って、もともとの曜日と同じ」と言いたいところだが、「その前年」に戻るときうるう年ジャンプが起きるので歯車がかみ合わず、6年で曜日が8個戻ってしまう。そこからさらに5年戻ると、その5年間には「うるう年ジャンプが1回」あるので曜日が6個戻る――最初に8個戻ってしまった分と合わせて、14個戻ったのと同等。結局、11年前(6年+5年)に同じ曜日が出現。

これでだいたい合ってるっぽいが、間違いやミスタイプがあったらごめんネ…。

その他

2019-06-11 「風立ちぬ」の元ネタの元ネタ 堀の小説「風立ちぬ」の元ネタが、フランスの詩人バレリーの「風が立つ。生きなければ!」であることはよく知られているが、そのバレリーは、古代ギリシャの詩人ピンダロスの作品を引用している。その大意は「いとしき(わが)魂よ、不死の(無限の)命を望むな。そうではなく、おまえが持つ(有限の)ものをフルに使うのだ!」 シリア語(筆者の趣味)では「風」は「霊、命」と同じ単語なので、バレリーのイメージは何となく分かる気がするし、ピンダロスの言葉と堀の物語もすごくつながっている感じがするが、ピンダロスのギリシャ語は、アッティカともホメーロスともコイネーとも違う方言らしく、難しいというか読みにくい。簡単な言葉(ただの冠詞の方言バージョン?)が理解できない。調べて慣れる必要がある。

「生きめやも」という堀の言葉は「生きるもんか!」「生きようよ!」のどっちの意味なのか曖昧な感じがするが、元ネタの元ネタのピンダロス自体「無限になんて生き(られ)るものか」「だから精いっぱい生きるんだ」という二重性を持ってるんじゃね?

つまりアンパンマンの歌と同じロジック(=終わる命だから、生きる喜びがある)なんじゃね?

2019-11-27 手塚治虫@エスペラント語

ふと思い立って、ウィキペディアで「手塚治虫(= 手塚治虫)」を見てみた。オリジナルの名前(ミラーリングなし)を使っている例は、次の通り。

エスペラント語版 Tezuka Osamu

ラテン語版 Tezuka Osamu

ハンガリー語版 Tezuka Oszamu

中国語版 手冢治虫(簡体) / 手塚治虫(繁体)

韓国語版 데즈카 오사무

エスペラントは(一応)理想主義的なので、多文化を尊重するのは、それほど不思議ではない。ラテン語がこれなのは、ちょっと意外だった。ハンガリー語以下は、ひっくり返さないのがそれぞれのデフォなので、これで普通なのだろう。日本語版でも「ベラ・バルトーク」ではなく「バルトーク・ベーラ」になっている(意外と進歩的)。英語版も早く多文化尊重に変わってほしい…。漫画・アニメのキャラでは、まだ両方あるものの、商用でもミラーリングしないこと(日本語オリジナルの順序)は珍しくなくなっている。ちなみにプロの碁の世界では、アジアの名前をミラーリングしないのが昔からの公式らしい。リアルでは本人がひっくり返したいなら、別にひっくり返せばいいと思うけど、自分の好みとしては、キャラ名はひっくり返さず、sensei senpai -san -kun -chan なども全部残してほしい(フランスの小説の翻訳で「マドモアゼル」とかをそのまま使うのと同じ理由)。そうでないと「-san があるなしの距離感」とか「いつの間にか -san から -chan に変わる場合」の微妙さとか「-chan を付けないで呼び捨てにして♪」的な場面のニュアンスが失われてしまうから(笑)。

2019-11-24 イタリアのラーメンはスパゲッティーっぽい?

ラーメンのことは詳しくないのですが、極太麺ですよね(伸びちゃったわけではない)。そしてイタリア人好みに、アル・ダンテ(歯応えしっかり)らしい(笑)。写真を撮った友人いわく「この店の特徴なのか、イタリア全体でこんな感じなのかは不明」。

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お箸を使えない人のために、フォークも付いてきます(ますますスパゲッティーっぽい)。ラーメンマニアの人は、いろんな国のラーメンを食べると、エキゾチックな体験ができるかも?!

2019-12-08 イタリアンなおすし(大豆風味のサルサ添え)

コン・サルサ・アッラ・ソヤ ← これだけ聞くと、高級っぽそう(笑)

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「大豆風味のサルサをトッピングなさいますと、おいしくいただけましてよ。おほほ」

訳「しょうゆでもかけて食うか」

2020-03-11 エチオピア文字の ǧē の書き順

ǧē の文字(右)は、おおざっぱに言って (左)の上にT字型のマークを付け足したもの。これ自体はよくあるパターンなのだが…

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学習者用に書き順を付記してくれる Geez Handwriting with Arrows フォントでは、右下の小円の部分を書く方向が異なる。ǧē では「道なり」に時計回りに進むが、 では小円に入るとき右折して反時計回りに進む(次の画像の2番の矢印の向きに注目)。

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実用上、書き順なんて好き好きでいいんだろうけど、教材的フォントでこの不統一には何か意味があるのだろうか…?

2020-04-03 エチオピア文字の筆順「意図的でない」 フォント作者

Geez Handwriting フォントの ዴ と ጄ の右下の丸が逆回りになっているのは、意図的でなく、作者自身もどっちが正しいか分からないとのこと。メールで質問してみたら、作者は実はアムハラ語・ティグリニャ語などに詳しいわけではなく、書き順は半ば適当らしい。識字率が高まれば…という願いがあって「書き順なんて細かいことにこだわらず、とりあえず文字に親しみましょう」みたいな意図だったようだ。ቶ の左の横棒と円の部分が一筆書きになっているのも「筆記体はこうなのか」と感心していたが、これも案外適当だったのかも…。そんな事情とは知らず、これをお手本に、真面目に練習してしまった。

特にアムハラ語に興味があるわけではないんだけど、世界中のいろんな文字を眺めてると楽しいよね(学問とかそういうんじゃなく、一種の趣味)。特にセム系の言語全般が何となく好きで、アラビア語・ヘブライ語・シリア語など、全部それなりに夢中になったことがある。そのうちシリア語(アラム語)だけは5年くらい熱中して、簡単なものなら結構読めるようになったが、ヘブライ語は難しく、アラビア語はさらに難しく、何度か挑戦したが、なかなか…。文字自体は30種類くらいで簡単に覚えられるけど…。まあそんなこんなでサマリア語やゲエズ語、アムハラ語までかじったこともあるが、しょせん趣味。アディスアベバ አዲስ አበባ が「ኣዲስ ኣበባ」のように聞こえる理由が分からず悩みまくったり、初心者丸出しだった。

ネイティブ話者が実際に書いた「リアルの文字」のサンプル(発音の録音付き)は、Amharic で見ることができる。

これら全部を合計したものより、日本語はさらに難しい。シリア文字、ヘブライ文字など(日本語以外)を全部忘れて一から覚え直すのと、日本語の文字を全部忘れて一から覚え直すのと、どちらかを選ばなければならないなら、迷わず前者を選ぶ。

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 2023-10-23 コイン投げ: 同じ面が上になりやすい 51%の偏り

Coin flip は五分五分のランダム事象ではなく、次の意味で50.8%前後の偏りがある: 「初期状態で表が上のとき、表になるか裏になるか五分五分」という仮説と「初期状態で裏が上のとき、表になるか裏になるか五分五分」という仮説は、統計学上の普通の基準によれば、棄却される。他方「初期状態がランダムのとき、片方の面が出やすい」という仮説も棄却されるので、無作為なコイン投げは公平と考えられる。

要するに「初期状態を特定したコイン投げ」は、意図的かどうかはともかく「無作為なコイン投げ」とはいえない。

「人間がコインをトスする」という身体の動作・その結果によるコインの挙動には、物理的にモデル化可能な、確率的偏りが残るらしい。それは理論的に約51%と予想されていて、実験結果でもほぼそうなった。表から始めるか裏から始めるかをランダムに選択すれば、結果的には公平(五分五分)になるが、意識して表(裏)から始めるなら、表(裏)になる可能性に賭けたら、ほんの少し有利に…?w

雑学的には面白いが、くだらないといえばくだらない研究である。「この研究プロジェクトは、アムステルダム大学の倫理委員会の承認を得ている」という注意書きが、ほんのり笑える…

https://arxiv.org/abs/2310.04153
Fair coins tend to land on the same side they started: Evidence from 350,757 flips

このデザインはダブル・ブラインドに相当するのだろうか。もしも参加者が実験の目的を知っていて「同じ面が出やすいらしい=この直観に反する理論を検証したい」と思い込んでいる場合、そのことが結果に影響する可能性をルールアウトできないような気がする。「無意識的に脳がイカサマに加担する」みたいな…。この懸念は論文自体にも記されていて「そのような可能性は低いけれど、きちんと否定するためには、研究目的を隠して再実験するべきだろう」と示唆されている。

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2023-12-23 SSH の「Terrapin 攻撃」 大抵は影響がない模様

https://terrapin-attack.com/

https://www.chiark.greenend.org.uk/~sgtatham/putty/wishlist/vuln-terrapin.html

https://nvd.nist.gov/vuln/detail/CVE-2023-48795

理論 暗号化オプションで ChaCha20+Poly1305 または別の種類のまれな組み合わせが使われた場合、MitM による downgrade attack が成立する可能性がある。

実際 多くのサーバーでは ChaCha の他にも AES オプションが提供されている。デフォルトでは PuTTY は AES を優先するので、この攻撃は成り立たない。しかし、①ユーザーが手動で ChaCha の優先順位を AES より高くしている場合、または②AES をサポートしていないサーバーとの接続で、ネゴシエーションの結果、優先順位の低い ChaCha にフォールバックした場合、攻撃が成立する可能性がある。

対策 サーバー側、クライアント側の両方が安全なオプションを提供・使用する必要があるようだ。多くのサーバーは、もともと AES を提供している。クライアント側も、大抵もともとデフォルトで安全な上、既に問題を緩和するバージョンが公開されている。例えば最新の PuTTY 0.80 は、安全でないアルゴリズムが選択された場合に警告メッセージを出す。

実際の影響は小さいと思われるが、「危険があれば警告してくれるバージョン」にしておけば、一応、気休めになるだろう。仮に安全でないアルゴリズムが選択されて警告が出たとしても、通信を監視して介入する攻撃者が途中にいない限り、何も問題は起きない。

参考 Windows 用の WinSCP は、現在、正式バージョンは2023年9月の 6.1.2 のままだが、ベータ版として12月22日付けで 6.2.2 beta が公開されている。ダウンロードページには PuTTY 0.79 とあるが、実際には 0.80 にアップデートされていて、上記の Terrapin 対策が含まれている。現在の Windows には OS 自体に根源的な懸念(独占力を背景とした横暴など)があるため、モダンな自由 OS への乗り換え(少なくとも併用)を真剣に検討する時が来ていると思われる。

付記 一般論として MitM からの防御という意味では、Tor 経由でつなぐことでも攻撃ベクターを限定できる可能性がある(Tor の入り口・出口ノード自身が悪意でない限り、中間での MitM は困難)。 Tor は本来プライバシーツールだが、少なくとも MitM 対策という観点から言うと、「中間者による監視・検閲を防ぐ」ということから、プライバシーとセキュリティーの両面での効果があるかもしれない。

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2024-08-30 MAT-LESS 北アフリカの地理

ヨーロッパ、アジア、北米・南米と比べると、アフリカの地理は分かりにくい――ってゆーか「なじみがない」っていうのが、多くの人にとっての実情だろう。ジブラルタル海峡とモロッコ、シナイ半島とエジプトくらいは、まぁ分かるとして、その中間は…?

地中海の北側にあるポルトガル、スペイン、イタリアなどは、ほぼ誰でも位置が分かり文化的イメージも浮かぶのに比べ、地中海の反対側は謎めいている。

北アフリカの国の位置関係は MAT-LESS という語呂合わせで覚えることもできる。
Morocco, Algeria, Tunisia;
Libya, Egypt, Sudan & South Sudan

…の頭文字を並べたもの。

MAT-LESS(画像)

このうち Algeria は、50あまりあるアフリカの国々の中で、面積が一番でかいのに加え、アルファベット順でも一番

古い資料には「スーダンが面積最大」と書かれてるが、2010年代に南スーダンが分離した結果、スーダンは3位になった。国境が変わったり、国境が変わらなくても首都が変わったりすることが結構あって、諸行無常。モロッコの南西のグレーエリアは、現状、部分的にはモロッコの支配下にあるが、部分的には自治状態にあるという。

現生人類はこの大陸で生まれ、世界に広がったらしい。アフリカ大陸は、地球上で人類にとって環境がベストだったのかもしれない(少なくともその当時は)。

関連記事 → こんにちは、わたしマリアム、12歳

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2024-10-16 夢ノ角ゴ ウェブ・フォントの長所と短所

ご覧のこのサイト(妖精現実)では、3カ月前(2024年7月)から、ページの日本語テキストのフォントについて試行錯誤している。 Dream Han Sans というフォントを使って(思源黑体、日本語名「夢ノ角ゴ」)。大半の環境では、ここ数カ月(今現在も)、このフォントで文字が表示されているだろう。

† https://github.com/Pal3love/dream-han-cjk

従来のフォントでは、文字の太さは 400(レギュラー)と 700(ボールド)の二つ。多くても 100, 200, …, 900 の九つだったが、 Dream Han は27通りもの font-weight をレガシー形式で提供している。このサイトで現在使ってるのは、標準が 513、太字が 693。

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このフォントは Adobe の Source Han Sans(日本語名「源ノ角ゴシック」)の改善を試みたものだという(グリフは Noto 系と共通)。 Adobe が作っているのは技術的に高度なフォントで、「太字・標準・細字」などを連続的に変化させられるのだが、若干不具合があるようだ。一般論として、「多言語サポートといいつつ、漢字文化圏のエンドユーザーから見ると、表示や翻訳が微妙に変!」ということも、ありがち…。その点、 Dream Han は、漢字の本家本元・中国の開発者が手を加えている。 Adobe のフォントと同じく、大陸・台湾・香港の字体、日本の字体、韓国の字体に対応。ライセンスは OFL、ほぼ自由に使える。

で、フォント自体はそう悪くないけど、ページの表示のために約 4 MiB のフォントファイルを二つダウンロードしなければならず、ロードが遅くなるのが欠点。

ロードの遅さが気になる方は、フォント・ダウンロードを無効にするか(Tor Browser では Safest 設定)、あるいは CSS を無効にしてほしい。このサイトでは昔から、「JavaScript無効、CSS無効(フォント無効)、画像無効」でも、大抵のコンテンツが(平方根を含む複雑な数式も)一応ちゃんと表示されるようにしている。

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ページの表示に必要なフォントをサーバーからダウンロードする形式(CSS の @font)は、現在ではありふれている(「妖精現実」でも、例えばシリア文字の表示では、以前からその手を使用)。大抵の言語では、必要な文字種は多くても 100 くらいなので、フォントサイズも小さく、気軽に送受信できる。だけど「漢字」は種類が多く、ファイルがでかいので、やたらと送受信するのも考え物だよね…。

使わない漢字のグリフを削れば(subsetting)、サイズを半分くらいにできると思われる。1万以上ある漢字のどれを使ってどれを使わないか、事前に選ぶのは、もちろん簡単ではないだろうけど…。表紙ページのタイトル「妖精現実」の文字は、「Takao P明朝」のグリフ。本来のフォントファイルは何メガバイトもあるけど、 subsetting により、たった 74 KiB のデータにしてある。これなら、ほぼどこからも文句は出ないだろう。

メインの日本語フォントとしては、現状 Dream Han Sans をそのまま woff 形式で使っている(2⋅3 = 6 のような式で使う U+22C5 [ ⋅ ] DOT OPERATOR のサポートだけは、手動で追加した)。上述のように、大きなファイルのダウンロードには欠点もあるので、結局「環境によって、手元にあるシステムフォントを使ってね」という昔ながらのやり方に戻すかもしれない。

〔注〕 「代わりに、大企業が提供する共通ウェブ・フォント・サービスを使えばいい」と考える人もいるかもしれない。詳細については割愛するが、その選択は、プライバシーとセキュリティーの観点から問題外。

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2024-11-13 優しいおじいさんゲーマーのアドバイス こうかは ばつぐんだ!

「Not Always Right」の最近(2024年)の投稿を二つ紹介。一つは米国、一つはスウェーデンから。

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米国。ゲームショップにて。

買い取りもやってるゲーム屋で働いてる者です。男の子(12歳くらいかな?)が、中古ゲームの山持って、来たんです。

男の子「これ、いくらくらいで売れますか。できれば新しいマリオのやつ、買いたいんですが…」

私「うーん、このポケモンは、多少値段が付けられるかもしれないけど、他のやつは数セント(10円以下)にしかならないだろうなぁ。箱あったら、もうちょっと出せるかもしれないけど」

男の子「そうですか…。すいません、お邪魔しました」

男の子は礼儀正しく、持ってきたソフトをまとめて帰りかけたんですが、そのとき、年配の客(推定60台後半)が、こっちに走ってきたんです。

おじいさん(興奮して)「それ、ハートゴールド?」

男の子「えっ…。あ、はい」

おじいさん「ありがたいっ! おれ、ソウルシルバー持っててね、ペアでそれが欲しかったんだよ!」

男の子「お孫さんへのプレゼントですか」

おじいさん(ふざけて怒ったふりをして)「寝ぼけちゃいかんよ、君ぃ! だぜっ!」

男の子「ポケモン、やるんですか?!」

おじいさん「1996年からずっとな!」

男の子「うわぁぁ! っていうか普通…やめるんじゃないんですか、その、年を取ったら?」

おじいさん「君、いいこと教えてあげるよ――少なくとも、おれの人生じゃ、これは役立つアドバイスだった。あのね、年を取ったら遊ぶのをやめるっていうのは、間違いでね。遊ぶのをやめるから年を取るの」

男の子「おおぉぉぉ!」

おじいさん「いつまでも遊ぶんだよ、ね!」 (私に)「その子が欲しがってるマリオ、いくら?」

私「59ドル99です」

おじいさん(男の子に)「よし、じゃ60ドルで買うよ」

おじいさんはお金を手渡し(私が男の子の中古ゲームの動作確認をしてから)、男の子は大喜びで新しいゲームソフトを購入。別の世代のゲーマーへの、あの男性のすごいアドバイス、私は一生忘れないでしょう。

Old Man Gives Advice: It’s Super Effective!
https://notalwaysright.com/old-man-gives-advice-its-super-effective/319213/

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「遊ぶのをやめるから年を取る(退屈になる)」というコンセプトは言い得て妙だが、大量生産的なゲームや映画やアニメや漫画が果たして最上の「遊び」と言えるのかどうかは、意見の分かれるところだろう。まぁ「遊び」なんで、本人がそれで幸せなら、それで十分なんだろうけど。

飲食店・小売店などの接客業に付き物なのが「困った客・変な客」との遭遇。だが中には「素晴らしい客」もいるだろう。そうした接客業(広くは対人関係・世の中)の悲喜こもごもを集めたのが「Not Always Right」(お客さまは神様とは限らない)というウェブサイト。世界各地のさまざまな体験談が投稿されている。時々 Tor Browser を弾くが、別のノードからつなぎ直せば(Ctrl+Shift+L)問題なく閲覧できる。

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スウェーデン。森の奥で。

ぼくの耳にはよく、他の人が気付かないような小さい音が聞こえる。大抵の場合、うっとうしいことだ――どこかの部屋でオーブンがチンというたびに、気が散ったりするのだから。だけど一度、この耳が役立ったことがある。

ガールフレンド、二人の友達と一緒にキャンプに行ったときのこと。ぼくは何かがおかしいと感じた。キャンプファイアを囲んでおしゃべりしているみんなに「ごめん、ちょっとしゃべるのやめて」と告げ、ぼくは耳をそばだてた。

ガールフレンド「…どうしたの?」

ぼく「なんか聞こえる」

友達1「何? 鳥?」

ぼく「うーん…風の中の…声…?」

友達2(フフッと笑って)「風の中の声…? だから言ったろう。えたいの知れない老人から、怪しい指輪を受け取るとだなぁ――

ぼく(笑って)「ウン、だけどこれ…泣き声っぽいっていうか…。子どものすすり泣き…みたいな?」

みんな耳を澄ました。だけど、ぼくにしか聞こえないのだった。

友達1「キツネじゃない? ときどき、子どもの泣き声みたいな鳴き方するよ」

ぼく「いや、違う…理由はうまく説明できないけど…これって子どもの声? よし、ちょっとひとっ走り、見てくるよ。ぼくの耳のこと、知ってるだろ」

ガールフレンド「もちろんよ。私も行く」

声が聞こえてくると思われる方向へ、二人で行ってみた。200メートルほど進むと、ガールフレンドにもその音が聞こえだした。彼女は走って引き返し、他の連中に状況を伝え、全員で声のする方へ向かう。森に住む邪悪なゴブリンだの、のろいの妖怪だの、冗談を言ってる場合じゃないことは明らかだった。6月のスウェーデン北部。夜でも外は明るく、歩くのは容易だが、ひっきりなしに蚊の大群に襲われる。だが音は大きくなってくる。

ぼくたちは幼い女の子を見つけた。4~5歳だろうか。さんざん蚊に食われて、切り株の上に座っている。靴は片一方しか履いていない。着ている服はかわいらしいが、あちこち破れたり、泥がついたり、穴が開いたりしている。泣き腫らし、ひどくおびえた様子でぼくたちを見るんだ。ぼくは走っていって、女の子を抱き上げた。

ぼく「おおよしよし、大丈夫だからね…。どうしたの、こんな所で?」

女の子は、グスンと鼻をすすった。

ぼく「道に迷ったのかな…。迷子になっちゃった?」

女の子(かすかにうなずいて)「ウン」

ぼく「かわいそうに! 一緒におうちに帰ろうね」

女の子を抱きかかえ、ぼくたちはキャンプサイトに戻った。女の子に名を尋ね、ぼくたちの名を教えた。新たにおこしたキャンプファイア。その傍らに寝袋を置き、そこでその子を休ませた。ホットチョコレートのマグカップと、サンドイッチを渡して。女の子は少しほほ笑み、すぐ眠ってしまった。その隙にぼくたちは警察に電話して、女の子を見つけたこと、現在地のGPS座標を伝えた。女の子のご両親が、ぼくたちに電話してきた。翌朝、最寄りの車道で落ち合うことになった――野営地は車道から徒歩数時間。ご両親がすぐそこに駆けつける、というのは困難だった。

次の朝、ぼくたちは女の子を森から連れ出し、ご両親に引き渡した。あんなに感謝されたのは、生まれて初めてだった。ご両親は安堵のあまり、ほとんど狂乱状態。警察は事情聴取の後、間違いがあってはいけないということで、女の子を連れて病院へ。恐らくひどく蚊に刺されたためだろう、女の子は発熱していたし、もちろん脱水気味・食事不足の状態だった。ご両親は後で連絡してきて、ぼくたちをフィーカ(スウェーデン式のお茶会。コーヒーを飲む)に招き、あらためて礼を言うとともに、どうしてあんなことになったのか説明してくれた。

森の傍らでファミリーパーティーを開いたとき、女の子はそこから抜け出してしまったらしい――きれいな鳥を追いかけて、ちょっと森の中へ。戻るとき、クサリヘビ(結構太い毒蛇。スウェーデンでは毎年約400人がかまれて病院行き)を踏んでしまった――ヘビはかまなかったが、女の子はパニックを起こし、めちゃくちゃに走り回った末、完全に道に迷ってしまったという。10時間以上、森をさまよったらしい、ぬかるみで靴を片方なくして。その場所では、ある特定の方向に進んだ場合に限って、何十キロにもわたって文字通りの無人地帯となる。偶然にも、その子は、まさにその方向へ歩いてしまったのだ。

2週間ほどで女の子はすっかり元気になった。森の中のぼくたちの姿を、絵に描いてくれていた(その小さな絵は、今もぼくの冷蔵庫に留めてある)。女の子は一時、森林恐怖症になってしまうのだが、父親と一緒に家の近くの谷へキャンプに出かけ、恐怖感もやがて和らぐことになる。その家族との交流は続いていて、ときどき訪問し合う仲となった。

今でもぼくはふと思う――もしもあのとき自分の直感に従わず、風の中の声の正体を確かめに行かなかったら、一体どういう結果が起こり得たのだろうか、と。

A Tiny Sound Can Lead To A Big Rescue
https://notalwaysright.com/a-tiny-sound-can-lead-to-a-big-rescue/327297/

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白夜や森の情景には、郷愁を誘うものがある。ぶよぶよした森の土。針葉樹、少し苦み走った樹脂の香り。みずみずしく優しいにおいの広葉樹。

黒いヘビの画像
スウェーデンのクサリヘビ。静かに日光浴をしているようだ。2020年8月撮影。
CC-BY-SA-4.0 by Nikolai Pertoft
普段はおとなしい性格だが、踏まれると、怒ってかむことがあるという。

あまり関係ないが、初代ポケモン(いつの時代だ)の製作スタッフには「ようこ」のファンが多かったという。あの作品こそ、俳優志望時代の柔らか~い「かないみか」。それに比べると「わぴこ」以降のいわゆる「かないみかの声」というのは、かなり人工的なものといえるだろう。この歴史ゆえ、かない(ようこ)と林原(サキ)の共演は、かないファンの琴線に触れる。しかるにデジキャラットでは、ピョコラの林原は良いとして(?)、あろうことかあるまいことか、かないが和菓子屋さんの「おばあさん」のレギュラー役で起用された。別にスポンサーが配役を決めたわけではないだろうし、シュールなギャグは嫌いではないのだが、かないが「おばあさん役」というのは、いかがなものか…。世界中のかないファンは、もうゲ○マ○○では一生何も買わないぞ――と固く誓ったであろう(?)。「待ってるにょ」とか言われてもな。それに引き換え、ライバル店ア○メ○○は「ようこ」のDVDに、ア○メ○○予約特典のCDまで付けてくれたのだから、この差は大きい。

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声優の本多知恵子さんの趣味は、スウェーデン語の勉強だった。ブログでは、出演作品の話などはそれほど多くなかったが、一度だけ「そういえば、以前は花魔法が使えたわ」と書いていらっしゃった。「ようこ」では花梨(かりん)の声だった。「おじいさんゲーマー」の話を読んだとき、なんとなく「超くせ」35話の挿入歌「ピーターパンシンドローム」を連想。モモコ・プリシラ(主人公ではないが主役級のキャラ。声は本多さん)が歌った。

それは確かに ピーターパンシンドローム
誰もが 大人になってしまう
それでもわたし ピーターパンシンドローム
大切な夢 なくさない心

まあ、シリーズ構成の首藤って「夢」が好きだったよね。あんだけ酒飲んで薬飲んで、あんたのいう「夢」って何よ、みたいな。その矛盾が、首藤の首藤たるゆえんなんだろうけど。「魔法でかなえた夢は夢じゃない」とか言って、児童向け作品なのに主人公を殺したり。半分は打ち切りへの反発だったのか。確かにその「ちょっと大人げない」危うさが、作品のスパイスだったのかもね。

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2024-11-26 匿名フリーメール cock.li の現状 「デス・スイッチ」

Cockmail(cock.li)は、2024年11月12日付けで「レッドアラート」を宣言。このメールサービスについて、これまで何度か紹介したので、状況について簡単にコメントしたい。

何らかのトラブルで、現在、新規登録とパスワード変更ができないという。既存ユーザーから見ると、少なくとも onion のウェブメールは、今まで通り普通に使える。運営者は、政府あるいは大きな組織から、何らかの圧力を受ける可能性があることを示唆している。「個人が自由に、電話番号などの個人情報を確認されずにメールアカウントを持つこと(かつては当たり前にできたこと)を、幾つかの国の政府は好まない」と述べている。

運営者は現在、「自由のカナリア」を掲載している――その内容は「Cock.li のハードウェアは、現在100%、運営者自身の管理下にある。別途連絡があるまで、このメッセージは最長でも48時間ごとに更新される」というもの。

一種の「デス・スイッチ」だ。もしハードが押収されたり、身柄を拘束されたり、設備へのアクセスが制限されたりした場合、「カナリア」が更新されなくなるので、ユーザーは「何かあった」と知ることができる。裁判所や独裁者から「状況について一切公表してはならない」と命じられた場合でも、「カナリア」を更新しないことは「何かを公表する」ことではないので、命令に従いつつ、間接的に異変発生を知らせられる。

原理的には、弾圧者は勝手に「カナリア」を更新して何も起きていないように偽装できるが、それを防ぐため、運営者は「カナリア」に PGP 署名を付けている。実は11月23日から、きのう25日にかけて、48時間以上「カナリア」が更新されず、「いよいよ何かあったのか」と不穏に感じたが、49時間ほどで更新された。単に更新がわずかに遅れただけだったようだ。

画像:
現在のcock.liのトップページ(クリックで拡大)

プライバシー重視の技術やサービスが、規制圧力を受けるのは、ある程度、仕方ない。秘密性を悪用する者がいるのは事実だし、そうした乱用・不正利用を防止したいということは、原則論としては、もっともなこと(往々にして、テロリストやら何やらは規制の口実・建前で、本音は別だとしても)。

他方、私的な通信・私生活が過剰に監視され、「身分証を提示しない限り、自由な情報発信・受信・会話ができない」というのも、好ましいことではあるまい。自由な意見交換・信書の秘密・読書の自由などは、基本的人権というべきだろう。しかも、たとえメールなどの通信を監視・検閲しても、技術的に盗聴困難な通信を行う他の手段はいくらでもあるので、あまり意味がない。むしろそのような手段がなければ、オンラインショッピングでクレジットカード番号を送信することも危険になってしまう。「ネットの急激な発展に伴い生じてきた難問題」というところか。

Cock.li は、もともと冗談半分で始まったフリーメールで少々特殊だが、一般論として、私的な事柄に対して、やたらと監視・管理・追跡・記録……というのは、決して気分のいいものではない。あまりに規制・規制というのも、文化・文明の萎縮・衰退を招くのではないか。すべての規制が悪ではないにせよ、近年どうも行き過ぎの観がある。

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匿名フリーメール cock.li の現状(追記)ですが、25日 6:59:33 UTC の署名を最後に、現在27日の 23:40。「最長48時間ごと」の期限をだいぶ超過してますが、 Under no circumstances will we let this canary go 48 hours without changing the "Date updated" above なので、現地時間で28日にならないうちに更新されればセーフということなのか……?

まあ気楽に。悩んでも、悩まなくても結果は同じ。心配するだけ時間が損。

〔追記2〕 28日 4:42:36 UTC に約20時間遅れで更新された。

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追記 2024年12月16日付で「レッドアラート」(厳戒態勢)から「オレンジアラート」(準警戒態勢)に緩和。現状、かなりリラックスしたムードだと感じられる。

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2025-01-11 Verlaine の「秋のうた」 日本語訳3種+原文解説

19世紀フランスの詩人 Verlaine は、日本語では「ヴェルレーヌ」と呼ばれる。「秋のうた」は代表作の一つで、世界の名詩に数えられる。意味的には「秋のバイオリンの長いすすり泣きが、僕の心を傷つける。モノトーンなけだるさの…」と始まる。

上田敏による日本語訳は、それ自体として貴重な文化遺産だが、原詩とはかなりニュアンスが異なる。その影響で、「ある秋の日の昼下がり、誰かがバイオリンを弾いていた。そのため息のようなフレーズは何とも物悲しく、僕の心の琴線に触れた」みたいな、センチメンタルで鋭敏な感受性の作品――と思い込んでる方も多いのでは。実際には、原詩の冒頭は「バイオリンの軽いため息」ではなく、「バイオリンたち(複数)の長いすすり泣き(複数)」という薄気味悪い描写。

既存の日本語版は「げに我はうらぶれて飛び散らう落ち葉かな」といった「斜陽の悲哀」のようなエンディングだったが、原詩はもっと逝っちゃってて、「息が止まった僕は、不吉な風に吹き飛ばされ、枯れ葉のように(あの世へ)旅立つ」みたいな…

さて、本作の魅力の半分は、ストーリーの内容そのものではなく、語りの形式美にある。音楽的要素を言葉で説明しても伝わりにくいので、以下では独自の試訳を提示する。さいわい著作権が切れてるので、原詩も転載して簡単に解説。

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翻訳編

とりあえず原詩。

原文 素直な直訳
Les sanglots longs
Des violons
 De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur
 Monotone.
秋のバイオリンたちの
長いすすり泣きは、
僕の心を傷つける。
…モノトーンなけだるさの。
Tout suffocant
Et blême, quand
 Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
 Et je pleure ;
すっかり息が詰まり、
そして青ざめて、僕は、
 時報が鳴るときに、
思い出す。
大昔の日々を。
 そして僕は泣き…
Et je m’en vais
Au vent mauvais
 Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
 Feuille morte.
そして僕は行く。
悪い風に(乗って)。
 それは僕を吹き飛ばす。
こちらへ、あちらへ、
落ち葉のように。

下記は、もっとニュアンスを明確にしつつ、原詩の形式美を伝える試みです。

意味の正しさだけでなく、原詩の形式美を伝えようという試み
素直な直訳 ①詩としての翻訳
秋のバイオリンたちの
長いすすり泣きは、
僕の心を傷つける。
…モノトーンなけだるさの。

すすり泣き、
果てしなき。
  …秋のバイオリンたちの。
もの憂くて、
モノトーン。
  …心のうずき、けだるさの。

すっかり息が詰まり、
そして青ざめて、僕は、
 時報が鳴るときに、
思い出す。
大昔の日々を。
 そして僕は泣き…

息きれて
あおざめて
 (うつろの晩鐘かねの響くとき)
思い出す
遠い日々
  涙がほほを伝わって…

そして僕は行く。
悪い風に(乗って)。
 それは僕を吹き飛ばす。
こちらへ、あちらへ、
落ち葉のように。

風が吹く
ほの暗く
  僕は旅立つ。飛ばされて…
こっち、あっち
転がって
  落ち葉のように消えてゆく。

参考として別バージョンも提示する。こっちでは、韻律的要素やニュアンスの微妙さより、日本語としての平明さを重視。第1連の入り組んだ構造は「秋風のバイオリン」に単純化され、「悪い風」は「冷たい風」に単純化されている。上記「詩としての翻訳」は技巧的に過ぎると感じられる方は、このバージョンの方が気に入るかもしれない。

形式美を多少犠牲にして、平明さを優先した参考訳
(③では、なぜか宮沢賢治が引用される)
②平明バージョン ③お子さま向けリライト

秋風の
ヴィオロンたちの
  すすり泣き
長々と
いたましく
  んだ心にこたえます

秋風はバイオリン
ひゅーひゅーと
  すすり泣く
ぼくの心はモノトーン
ものうく にぶく
  うずくんです

あおざめて
息は切れ
  ゆうべの鐘の響くとき
思い出すのは
遠い日々
  涙がほほを伝います

息がつまって
あおざめて
 (どこかで鐘が鳴ってるなぁ)
昔の日々を思い出し
ぼくは静かに
  泣きました

わたくしも
行きましょう
  冷たい風に運ばれて
こっち あっち
風任せ
  あわれ落ち葉のこの命

さみしい旅に
出かけます
 (クラムボンはわらったよ)
よみじの風に運ばれて
もみじのように
  飛び散って

訳も何も全文パブリックドメインですので、もしなんか使い道があったら、てきとーに使ってください。

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解説編

原詩の響きには、三つのレイヤーがあります。一つ目は、6行×3連の大きな構造。三つの連のそれぞれで、前半の末尾(3行目)と後半の末尾(6行目)が、脚韻を踏んでいます。

二つ目は、単語レベルの語調の良さ。詩である以上、珍しい事柄ではないのですが、さすがに世界的名作とされるだけあって、「これでもか」といわんばかりの「すごい部分」も幾つか。第3連の出だしなんて、魔法の呪文のような、妖しい美しさ(エ・ジュ・マ・ヴェ/オ・ヴァ・モヴェ)。基本単語を並べただけの、ある意味幼稚な「悪い風」という名詞句の響き、その意味的曖昧さから生じる象徴のふくらみが、巧妙に利用されている。

三つ目は、音節単位の強弱リズムの陰影。三つある連のそれぞれで、1行目から2行目にかけては「弱・強、弱・強」をベースとして、4行目から5行目にかけては逆に「強・弱、強・弱」をベースとし、3行目・6行目は強弱自由としています。ただし、これは完全に規則的というわけではなく、第1連の2行目では des が「弱」として扱われているのに(それが自然でしょう)、第2連の4行目では、同じ Des が「強」として扱われているようです。この強弱の問題は、ほとんどどこにも解説がなく、筆者には専門知識があるわけでもないのですが、とにかく音楽的に面白いってわけで、「詩としての翻訳」では、このリズム感を模倣。三つの連のそれぞれにおいて、原詩で「後ろが強い」1・2行目については、訳文では「脚韻」を踏み、原詩で「前が強い」4・5行目については、訳文では「頭韻」を踏み、3・6行目については、原詩同様、リズムのたずなを緩めています。原詩の抑えた調子(弱音器を付けた楽器のような)を伝えるため、どの行でも行頭では「エ」段を使わず、主に母音「ア」「オ」を繰り返すことで、わざと一本調子にして彩度を下げてます。

「老いて死にゆく僕」というシリアスなテーマでありながら、原詩の言葉は淡く、さらさらしています。

音韻的なクライマックスでもある Et je m’en vais / Au vent mauvais(僕はおもむく/悪い風のもとへ)は、さすがに不吉ですが、それでもはっきり「あの世へと旅立つ」のようなドラマチックな表現はしていない。他方において、余韻を残す詩のラストの言葉は morte(死んでいる)。フランス語で「落ち葉」を「死んでいる葉」と表現することを利用して、「落ち葉」の話に見せかけつつ、最後の一語はずばり「死」。単に「落ち葉・枯れ葉」と訳すと、意味は合ってても「死」の暗示(作品のテーマともいえる重要要素)が失われてしまうので、翻訳上、工夫のしどころ。

これを書いたとき22歳くらいの若者だった詩人が、「老いと死」について(自分自身の問題でもある普遍的な問題として)どこまで深く考えていたのかは不明。一応、テーマは「老いと死」だけれど、本質的には「言葉の響きの美しさをメインとした耽美的作品」かもしれません。

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Sonne l’heure の意味は「一日の特定の時を知らせる鐘が鳴る」。どのタイミングの鐘なのか、原文では明示されていない。訳文では「晩鐘」とした。原詩にない軽い脚色だが、老いて疲れた人が、昔を懐かしんで涙を流す背景として、夜明けの鐘や正午の鐘では絵にならず、やはり夕暮れの鐘か宵の鐘が妥当でしょう。「あの世への旅立ちの時を告げる鐘」と解釈すれば、それが鳴るのは(象徴的には)深夜でもいい。しかし「晩鐘」という言葉には「人生の終わりを告げる鐘」という象徴があり、象徴レベルでは、時間に関係なく「晩鐘」と呼ぶことができる。時報を鳴らすことで、時の経過つまり「老い」ないし「人生の終わり」を暗示したのでしょう。ちなみに Apollinaire の Le pont Mirabeau においても、sonne l’heure は日没の鐘です。

(単に「時計の鐘が響くとき」とすれば、時刻の問題を回避でき、より正確な翻訳になる――という意見もあるかもしれないが、「時計」なのか「教会の鐘」のようなものなのかも明示されていない。「時計」と限定するより、象徴的な「時間の鐘」の方がふくらみがあって、いいだろう。)

Et je m’en vais(そして僕は出かける)以下では「この世を去る」こと、つまり主人公の死が暗示される。単純な aller(行く)の代わりに、やや荘重な s’en aller が使われている。「みまかる」のように、「死ぬ」の婉曲表現としても使われるイディオムだ。

日本語の「いく」も「逝く」と書けば「死ぬ」の婉曲表現だが、だからといって「僕は逝く」と訳したら、あからさま過ぎて象徴もヘチマもない。初めは、さらっと「わたくしも/行きましょう」と訳していたが、原詩の音響的盛り上がりとの関連もあって、それではちょっと緩過ぎるか。しかし濃くしようにも、「わたくしも/散る枯れ葉」「われもまた/散る落ち葉」「あわれ落ち葉のこの命」のようなレンダリングは、どうもセンチメンタル過ぎる気もする。どうしたものかと苦労した。現在のバージョンも完璧ではないだろう――「ある特定の言語のシニファンとシニフィエの精緻な絡み合い」を別の言語に翻訳するというのは、土台100%は無理というもの。それでも女神に祈り、何度も書き直して、どうにか格好をつけた。

原詩の内容で、最も解釈の余地が大きいのは、「モノトーンなけだるさの」という付け足しが直前の「僕の心」にかかるのか、それとももっと前の「秋のバイオリンたちのすすり泣き」にかかるのか? これについては、どちらとも読めるのだから(両方ともいえる)、どちらとも読めるように訳すことにした。日本語訳では、「息が詰まり蒼ざめて」の部分にも、同様の曖昧さが生じ得る(僕の息が詰まっているのか、それとも比喩的な意味で、晩鐘の息が詰まって蒼ざめているのか)。実はフランス語の文法上、男性形の分詞 suffocant は男性名詞にかかる。よって女性名詞の heure(時間)ではなく、主人公の「僕」を修飾すると考えるしかないであろう。こういう場合、原文にない曖昧さが訳文に生じないようしたい。

第3連では、若干、方向感覚が乱れる。 s’en aller の後ろに àau が来れば「行き先の場所」が続くと予期されるのに、そこに vent mauvais(悪い風・逆風・快くない風)という「場所ではない名詞句」が唐突に置かれ、その名詞句自体も、正確な意味をつかみかねるもの。詩を外側から眺めるなら単に je m’en vais との語呂合わせに過ぎないが、作品世界内のリアリティーとして「悪い風」とは何なのか。この意味的ミステリーをどう捉えるか。

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象徴派の詩人は物事を明示せず、従って表現の解釈は絶対的・一意的ではないけれど、一つの参考として、お楽しみいただければと…

日本語では、秋について「実りの秋・天高く馬肥ゆる秋・スポーツの秋・ロマンチックな秋」など、プラスのイメージが強いようです。一方、フランス語の「秋」には「老い」や「死」や「憂鬱」などの、ネガティブなイメージが強いようです。日本文学の秋の歌には、繊細で美しいものが多いと思われ、それはそれで素晴らしいことですが、日本文化の「もののあわれ」の美意識をフランスの象徴詩にまで持ち込むと、「複数のバイオリンがしゃくりあげ、長々とすすり泣く」「まがまがしい風に吹き飛ばされ、私は去る」といった原作独特の「青白い」ムードが失われ、「あわれ落ち葉はひらひらと」みたいな、和風しょうゆ味の「小さい秋のポエム」になってしまいます。

そもそも何でこんな詩を紹介し、翻訳する気になったのか? 「ベルヌーイ数」に関係する数論のメモを書いていて、ふと「それはヴェルレーヌ、こっちはベルヌーイ」みたいな、しょうもない駄じゃれを言いたくなったのです。作品自体は名詩でも、それを熟読するに至ったきっかけは、かくも、いいかげんなものでした。

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2025-01-28 EFF: Proton への懸念を示唆

スイスの Proton (旧: ProtonMail)は、プライバシー志向をうたった有名なウェブメール・プロバイダー(VPN など他のサービスも提供している)。無料で使えるプランもあり、電話番号などの個人情報を求められずに、匿名でサインアップ可能。 Tor 経由でも問題なく利用でき、専用の .onion アドレスも提供されている。このため、ネット上にまん延するプライバシー侵害(例: 私信を全文スキャンして情報を集める Gmail)に嫌気が差した人々の間で支持を集め、2021年ごろまでは「定番」と言っても良かった。

だが何事にも、良い面と悪い面があるもの。 Proton にもさまざまな問題点があり、2021年ごろから不祥事が続発したこともあって、その信頼性を疑問視するユーザーも少なくない。事実上の最大のライバルは、ドイツの Tuta (旧: Tutanota)。2025年現在、両者は人気を二分している。

最近、また不祥事があった。 Proton の CEO が、米国の特定の政党・政治家(世間的にはしばしば疑問視されている人物)への支持を公言し、波紋を呼んだ。「プライバシー」というのは、思想の自由・内面の自由とも関連するものでもあり、特定の政権などとは無関係に、中立的・独立的であることが望まれる。たとえるなら、カタールの Al Jazeera がメールサービスを始めたら人気が出るかもしれないが、日本の NHK が無料メールサービスを始めても、絶対誰も利用しないだろう(笑)。

今日(2025年1月28日)、 The Intercept は、上記の件について Proton Mail Says It’s “Politically Neutral” While Praising Republican Party という記事 [2] を公開。それを EFF が Mastodon に流した [1]。 (注: Mastodon は、 Twitter のようなソーシャルメディアの、自由ソフトウェア版。)

[1] https://mastodon.social/@eff/113908062106182861
[2] https://theintercept.com/2025/01/28/proton-mail-andy-yen-trump-republicans/

もちろん「EFF の言うことは絶対」というわけではないけど、 EFF のお墨付きの記事ということになると、やはり真剣に受け止めざるを得ない。 Proton への批判や疑問視自体は珍しいものではないが、「EFF も公式の Mastodon アカウントで、間接的にせよ Proton について疑問視・問題提起した」という事実は、自由ソフトウェアのユーザーにとって、ちょっと考えさせられることではある。

筆者自身、2021年以降 Proton を疑問視し始めたが、必ずしも「Proton を使うな」とは思わない。プライベートな情報が絡むやりとりでは Proton のアカウントを使わないけど、通常のやり取りでは Proton も Tuta もそれ以外(Cockmail など)も使っているし、言い換えれば、どれも「それなりに」信用している(もちろん Google や Yahoo などは絶対使わないし、アカウントも持っていない)。どんなに極端な Proton 批判派の人でも「比較で言えば Google より100倍良い」ということについては、まず異論がないだろう。このメモは Proton を全否定する意図ではないこと、筆者自身も長年の Proton ユーザーであることを強調しておく。

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2025-02-09 被害者「1億9000万人」に 米国の医療情報盗難

2024年、米国の健康保険大手 Change Healthcare (親会社: UnitedHealth Group)が未曽有のサイバー攻撃を受けた事件 [1][2] で、当初、医療関係情報を盗まれた被害者は1億人と推定されていたが、「1億9000万人」に上方修正された [3](まだ公式確定値ではない)。影響を受けた人の多くは、既に同社から通知を受けているそうだ。

2024年2月のサイバー攻撃は、医療データ漏えいとしては米国史上最大のもの。データへの確実なアクセスができなくなったことから、数か月にわたって国の医療システム全体に大きな影響が及び、今もまだ完全には回復していない。健康・保険請求関係のデータも大量に盗まれ、攻撃者はその一部をネット上に流して「やめてほしければ金を払え」という脅迫を行った。 Change Healthcare は少なくとも2回、「身代金」の支払いに応じたという。

被害者が同社から受けた通知によると、盗まれたデータは、住所氏名などの個人情報、病気の診断・投薬・検査結果・画像・治療計画と保険情報など。米国では、身分証と医療情報を一元的に直接ひも付けするような危うい仕組みはないものの、保存されていた本人確認データ(社会保障番号、運転免許、パスポートなど)は、同時に流出した。

ランサムウェアのような被害に遭った場合、仮に要求に応じて金銭を支払っても、犯人が約束通りにしてくれる保証はない。被害に遭わないこと・侵入されないことが最善だが、セキュリティーをやたらと厳重にすると、不便になるばかりか、正規のユーザー(複雑なシステムが苦手な人など)がアクセスできなくなる恐れもある。いろいろなバランスの取り方が難しく、にわかには解決できないリスクだろう。

[1] https://wiki.nerdvpn.de/wiki/Change%20Healthcare?lang=en
[2] https://web.archive.org/web/20250204084518/https://www.changehealthcare.com/
[3] https://techcrunch.com/2025/01/24/unitedhealth-confirms-190-million-americans-affected-by-change-healthcare-data-breach/

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2025-02-19 BBC が Google の新規約を批判 フィンガープリンティング

2025年2月16日の規約改訂で Google がフィンガープリンティングを許容したことについて。英国放送教会(BBC)の記事(要約・抜粋)。

Fingerprinting: Critics say Google rules put profits over privacy
https://www.bbc.com/news/articles/cm21g0052dno

◆ BBC が紹介している批判側の意見

「一般の人々が事実上オプトアウトできないような形のトラッキング(追跡)。フィンガープリンティング容認によって、 Google は自分自身と広告業界に、それを許してしまった」(Mozilla の技術者)

「オンライン広告には必須―― Google がそう主張するのと同じトラッキングのテクニックが、個人のプライベートな情報を暴き出してデータ・ブローカーなどに流出させてしまう」(EFF のメンバー)

「フィンガープリンティングとIPアドレス収集は、手痛い。自分についてどんな情報の収集を認めるのか、ユーザーがコントロールすることがさらに難しくなった」

◆ BBC が紹介している Google 側の意見

「フィンガープリンティングは許されない。当社は強く反対する」(2019年)

「他の会社もフィンガープリンティングを利用している(だから構わないだろう)」(2025年)

「プライバシー強化技術により、(広告の)新プラットフォームでは、当社のパートナー(広告主)は、ユーザーのプライバシーを侵害することなく、良い結果を収めることができる」(BBC に対する Google のコメント)

◆ BBC が紹介している「グレー論」

広告関連企業の人の話「私の意見を申し上げるなら、フィンガープリンティングというのは少々グレーな領域だ。自分のプライバシーがグレーエリアに置かれていることについて、人々は納得するべきなのか。私なら納得できない。消費者データの扱いが、消費者中心から企業中心に変わってきた。そんな感じがする」

Electronic Frontier Foundation - Mastodon
https://mastodon.social/@eff/114027653490541666

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〔注〕フィンガープリンティングとは 「スクリプトの実行時間から推測されるデバイスの性能」「スクリーンのサイズ・色深度」「CSS の @font から推定されるインストールされているフォント」等々のさまざまな手掛かりを組み合わせて、一つ一つのデバイス、一人一人のユーザーを識別しようとすること。いわば暗号でいうサイドチャネル攻撃。 Tor Browser ではフィンガープリンティング対策として、全員のブラウザが「リモートからは同じに見える」ように工夫を重ねている(例: 地域と無関係にローカルタイムはUTC)。しかし、フィンガープリンティングを完全に防ぐことは不可能に近い。ミリ秒単位での個人のタイプの癖、ブラウジングの癖などもAI解析の対象となり得るからだ。

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2025-02-23 Windows 用の Tails 公式導入手順が改善(速報)

Tails OS は、既存の OS を残したまま USB メモリーから起動できる OS。外部との通信を全て Tor 経由で行うことで、危うい立場・弱い立場の一般ユーザー(例えばストーカー被害者など)を攻撃者・監視者から守ること目指す。 Linux (Debian) 系だが、特別な知識がなくても使いやすいよう、工夫されている(初めて使う OS なら、もちろん多少覚えることはあるけど、敷居が低い)。

Windows ユーザーが Tails を導入する場合、従来、 balenaEtcher というツールを使って、起動用の USB メモリーを作成することになっていた。しかしこのツールにはプライバシー上の懸念があることが何年も前から指摘されていて [1]、このサイト(妖精現実)でも2023年9月、問題を回避するための方法を紹介した。

Tails の開発者も2024年には問題を深刻に受け止めるようになり、とうとう数日前(2025年2月19日付け)、導入の公式手順において balenaEtcher を使うことを中止。代わりに何を使うか、7種類のオプションを検討した結果、「Rufus がベスト」という判断になったという [2]。

このツールについては、ユーザーが個別に用意しなくても Tails のインストール・ガイドのページにまとめて用意されている。書いてある手順通りにやれば、1時間ほどで OS を起動できる状態になる。少し時間がかかるのは1ギガ以上のファイルをダウンロードするためで、コマンドラインなどの難しい知識は一切必要ない。

[1] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/16381
[2] https://tails.net/news/rufus/index.en.html

追加情報あり(下記)。

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2025-02-23 Windows 用の Tails 公式導入手順が改善【追加情報】

速報の続き。

Tails チームは balenaEtcher (以下 Balena)の潜在的問題を6年前(2019年)から認識していたものの、下記のような事情を踏まえて、そのデメリットより「シンプルで使いやすい」という利便性の方が大きいと判断していたようです [1]。

しかし2023年12月、 Balena を使った Tails OS 導入について、GameIndustry.eu がプライバシー上の問題を詳細にレビュー(Balena は、いわばスパイウェアのように、ユーザーが Tails OS をインストールしようとしていることを Google に知らせてしまう) [2]。それがきっかけとなったのか、2024年1月ごろから Tails チームはこの問題を再検討。複数の代替案のうち、 Rufus なら初心者向けのシンプルなインターフェースで提供可能になったため、手順変更に踏み切った模様 [3]。 Rufus 以外のオプションとしては、 Raspberry Pi Imager も有力視されていました [4][5]。

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Tails OS は Linux といっても、初心者向けということを重視しています。ただし「暗号化領域に保存した以外のユーザーデータは、再起動すると全部消えてしまう」「全部の接続は Tor 経由」という特殊な仕様なので、情報漏洩防止の観点からは最強とはいえ、 Tor-friendly ではないサイトやサービスとは相性が悪いです。例えば、従来型の金融機関やクレジット決済はほぼ使えないし、大企業系のソーシャルメディアもほぼ使えないでしょう(Fedi 系の Mastodon, Lemmy 等ならほぼ使えるが、それもインスタンス次第)。日常生活との関連では、 Tor 経由で天気予報などを見るのは考え物(間接的に位置情報をばらすことになるので)。

Tails OS の存在意義は、あくまで権力者・大企業・多数派の有形無形の暴力から、非力な立場のユーザー・少数派・独立系のジャーナリストなどを守るプライバシー OS という感じ。 Linux の試食という意味もなくはないけど、 Windows からの乗り換え先といった位置付けではない。 Linux でも直接の Debian 系なので、そこも好みが分かれるところ。

Windows からの乗り換えの場合、下流の Linux Mint の人気が高いようです(Windows と操作感が似ているらしい)。数年前までは Ubuntu も定番だったけど、 Linux といってもこれはコミュニティーベースというより企業が中心となっていて、賛否両論あり。

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一般のブラウザで tails.net を開いてイメージをダウンロードしたら、地元の接続業者や、ブラウザの DNS を初め、「安全なブラウジング」と称して一挙一動を全部モニターしているどこぞの企業に Tails ユーザーになったことが丸見えになってしまい、プライバシーの観点からは第一歩でこけてしまう。他のメモでも書いてるように、まず Tor Browser を導入して(スタンドアローンで使えるので、現在のブラウザを変える必要はない。10分もかからない)、 Tor 経由で Tails をダウンロードするのがお勧め。

① Tor Browser を持ってない方は↓
ダウンロードページ https://www.torproject.org/download/

② Tor Browser を起動したら、それを使ってこちらへ↓
Tails OS の公式サイト https://tails.net/

〔注〕 「どの個人が Tor ユーザーか」「どのソフトに興味を持っているか」といった情報を大企業などに特定されないため、電話番号などを登録しているアカウントを使って、検索エンジンで「Tor Browser」「Tails OS」などを検索するのは避けた方が良いです。というか、なんであれ、検索するなら、なるべくプライバシーを犠牲にしない方が良いでしょう。 SearXNG のインスタンスを経由すれば、かなり安全(ついでに広告もブロックできる)。
 インスタンスのリスト → https://searx.space/
DuckDuckGo (DDG) は html 版なら悪くはないが、あまりヒットしない(Bing 系)。 Startpage は Google を直接使うよりは良く、プロキシ閲覧もできるものの、かつての Ixquick, MetaGer と比べると使い勝手が悪い。 4get.ch はレート制限されてない状態のときなら、役立つことも。これらの検索エンジンは、どれも Tor 経由で利用可能(お勧め)。

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USB メモリーにイメージを入れること自体は5分くらいで終わるけれど、 Tor 越しのダウンロードは少し遅いので、ファイルを落とすのに1時間くらいかかると思ってください。大抵の国・地域では Tor につないでいること自体を隠す必要はないでしょうが、隠したければ Tor Browser の接続開始の画面で、ブリッジを取得して、ブリッジ経由で接続することも可能。特に、プロバが Tor をブロックしている場合、 Tor Browser は自動的に回避を試みてくれます(ますます速度が低下するが)。

Tails OS のスティックさえ作ってしまえば、あとは Tails OS 自身で新しい Tails を書き込んだり、バージョンアップしたりできるので(何も考えなくても、自動的に全部 Tor 経由になる)、ややこしい問題は消滅。 Windows が起動しなくなったり、マルウェアに感染したりしても、同じマシンで Tails OS を起動すれば、クリーンな状態で Windows のパーティションのデータにもアクセスできるので、そういう意味でも、いざというとき役立つ。 Tails が入った USB メモリーは、常備しといて損はないかと(USB メモリーは壊れやすいので、必ず2本以上用意して、小まめにバックアップしておこう)。

〔補足〕 macOS ユーザーや Win 7 ユーザーなどは Rufus が使えないので Raspberry Pi Imager が良いオプションかも。

Tails OS デスクトップのスクリーンショット
Tails OS のデスクトップ(日本語インターフェース)の例。
クリックで拡大(実物よりは縮小してあります)

[1] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/16381
https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/20423
[2] https://www.gameindustry.eu/reviews/balenaetcher/
[3] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/20525
[4] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/20760
[5] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/merge_requests/1929

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2025-03-05 「広告技術」進化し過ぎて「国防問題」?

一般の人が一般的なウェブページを開くとき、バックグラウンドでは「そのページの広告枠を誰が買うか?」という競争入札が行われる(RTB: Real-Time Bidding)。広告枠を支配する供給側は、閲覧者属性を配信。「公務員。賭け事とアルコールが好き。現在位置どこそこ」等々、商品説明がコード化されて伝えられ、需要側は「うちのクライアントは、そんな女に用はない」「うちはこの値段で買いたい」みたいな入札を行う(らしい)。プログラム的・自動的に落札者が決まり、次の瞬間、その代理店の広告が枠にロードされる。

「今どきの広告ってのは、そんなもんだろう」ってな感じだが、このシステムが、広告業と全く関係ない領域でも、乱用されているという。

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広告枠の取引自体はビジネスなので、金さえ払えばお客さま。誰でもRTBデータを受信できる。配信データがその後、どのように二次利用・三次利用されるかは誰にも分からない。「その広告IDはどんな人か」という情報は蓄積され、需要側では「年収これこれ、借金あり。慢性病の子の母親。猫の飼い主。優良ドライバー。本をまとめ買いする」等々の過去の配信がデータベースにある。「高級紳士服の広告は効果なし」「自動車保険の乗り換えキャンペーンの広告には反応を期待できる」など、いろいろな判断材料となる。

企業の観点からは、広告効果が出て商品が売れれば良いわけで、別に個人の私生活をのぞき見するような意図はないだろう。

一方、広い意味での「世の中」においては、個人の生活に興味が生じることはあり得る。そして多少の費用をかければ、RTBデータの個人を特定することは、簡単にできる。というのも、携帯端末の位置情報は、別の商品として購入可能。個人の氏名などが直接売買されるわけではないけれど、そのデバイスの持ち主の動き、自宅や職場の位置情報は、多くの場合、丸見え。例えば相手の住所か職場を知ってる人(知人や同僚)なら、どのトラッキングデータがその相手のものか、容易に推測可能だろう。

ICCL(市民の自由のためのアイルランド評議会: Irish Council for Civil Liberties)という組織のウェブサイト [1] でも紹介されていることだが、「聖職者は禁欲的でなければならない」という立場の保守的団体が、巨額を投じてRTBデータを監視、ある人の同性愛疑惑を公にして、辞任に追い込んでしまった事例もある。昔じゃあるまいし、同性愛だろうが何だろうが個人の自由でしょうという感じだけど、「カトリック」の「高位の司祭」ということで、ややこしい事態が生じた。

〔注〕 これは微妙な陰影の多いケースで、論点が拡散しやすい――保守的・宗教的立場、カトリックについての立場、(この事例との関連はともかく)カトリック教会では聖職者による未成年者への性的いたずらが繰り返し問題になっていること、厳密には証明されていない「疑惑」についての記事でこのような結果を引き起こすジャーナリズムの是非、等々。ちなみに(ICCL には記述がないが)、この宗教家は事件の約1年後に復職している。

個々の論点はともかく、前提となっている現状――金さえ払えば、誰もが第三者の私生活を恣意的に監視できる状況――は、穏やかではない。

未曽有のデータの蓄積・流通の結果は、誰にも予想がつかない。もはや「プライバシー」といった個人レベルの問題では、済まないかもしれない。「国政・軍事・研究開発のキーパーソンは誰か」「借金があって、本人や家族に秘密があって、わいろが利きそうなのは誰か」といった弱点も、攻撃者に筒抜けになってしまう。 ICCL によるこの指摘・警告は、それ自体としてはもっともな内容で、真剣に受け止めるべきだろう。

半面、「国家レベルのリスク」は、現在のネットのゆがみの根本ではなく、大多数のユーザーが日常的に直面している一般的なリスクの「一つの応用例」(全体から見れば枝葉の結果)に過ぎない。それだけを取り出して強調するのは、良い観点ではないだろう。

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「とにかくデータを集めまくって換金する。後は知らない」という巨大企業もえげつないが、(少なくとも形式的には)法律を無視してるわけでもないだろうし、資本主義の仕組み上、企業が利益のために工夫をするのは、当然のことではある。

迷惑なのは、全体に対する過剰な法的規制の口実とされる、という可能性。

「広告の規制」つまり「通信の制限」は、「検閲」のような問題とも結び付く。「監視が好き」という点では、個人情報を集めまくる広告会社やOS会社と、国家(特に中国のような国)は、同じようなもの。

「犯罪捜査・犯罪防止のため」と称して、セキュアな通信を制限したり、バックドアの実装を強制したり、暗号通信を違法化したりしようとする不合理な動きは、何十年も前から、世界各地で断続的に繰り返されている。セキュアな通信ができなければ、プライバシー的な意味でもビジネス的な意味でも安全なやりとりができない。バックドアは、無防備な悪人をこらしめるのには確かに役立つだろうが、無防備な一般人のところに悪人が侵入するのにも、役立ってしまう。どちらも、本末転倒の「犯罪者支援政策」だ。

RTBへの対応についても、「スパイ活動を防ぐため」「テロ対策のため」などと、一部の枝葉を妙に誇張せず、「私生活や個人の自由に、むやみに立ち入らない」という当たり前の問題との関連で、自衛策を考えるべきだろう。とりあえず uBlock Origin くらい入れてみる、とか。「国民の皆様の安全・安心のため、悪いものが紛れ込んでいないか、全部の通信を自動的にスキャンします」などと変な方向に行くことだけは、勘弁してほしい。

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「無料で使えて便利だから」と、簡単にだまされてしまう一般人にも、少なからず問題がある。リソースは有限なのに、どうして「無料」なのか。誰かが趣味や善意や信念から、リソースを提供しているのかもしれない。「無料」ではなく、その誰かがお金を払っている。往々にして「無料」だからこそ、寄付の形でお金を払うべきケースだ。

さもなければ、誰かが営利目的で餌をまき、「釣った魚」をマネタイズしている。つまり、その「無料」サービスをあなたが長く使えば使ってくれるほど、その誰かは広告収入で潤う。無料なのに、どうしてもうかるのか。広告主がお金を払ってくれるから。どうして広告主はお金を払うのか。あなたが広告を見てくれるから…

「無料」で使えるのだから、そのくらいは構わない? これはフェアなギブ・アンド・テイクだろうか?

広告のせいで集中が乱れて、毎日平均「4分」が無駄になるとすると、単純計算で1年は正味364日になる。つまり丸々1日分、24時間が失われる。

睡眠時間などを除外して、実質1日は15時間ほどと考えるなら、1日「2分半」無駄にするごとに、1年は1日短くなる。ソーシャルメディアの無意味なごたごたで1日30分、あるいは1時間・2時間と無駄にすると、本来なら12カ月ある1年が11カ月になってしまう。その割合で、人生の充実感が薄れていく。

集中を乱されずに好きな活動や研究をやれて、ついでに寿命が年単位で伸びるとしたら、月1ユーロはもちろん、10ユーロ払ったって、安いものだろう。広告入りの「無料」サービスは、もし毎日、一生使い続けるとしたら、人生にダメージが及ぶほど高い買い物ということになる。少なくとも「限りある命・時間資源」という観点からは。

[1] https://www.iccl.ie/enforce/enforce-work/
Hidden Security Crisis のシリーズ参照。米国・EU・オーストラリアの三つがあるけど、どれも本質的には同内容。少々扇情的で押し付けがましいサイトだが、資料は一応参考になる。 Tor Browser の Safest mode では閲覧できない可能性がある(要JavaScript)。

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2025-03-07 macOS からの Tails 導入について

Windows から Tails OS の USB を作る場合、スパイウェア balenaEtcher を避け Rufus を使うのが公式手順になった。でも Rufus は Windows 8+ 用ツール。 macOS からの公式インストールガイド [1] では、今も balenaEtcher が使われている。

これが気になる方は、 Raspberry Pi Imager [2] を考慮してもいいだろう(Tails 側の公式手順ではないものの macOS の他、新旧の Windows にも対応)。

† macOS に関しては、2025年3月現在、 balenaEtcher の使用がデフォルトとなっているが、二つの代替オプションとして、①コマンドラインからの dd と、② Raspberry Pi Imager が、紹介されている(2025年3月22日追記)。
https://tails.net/install/mac/index.en.html#etcher

Raspberry Pi Imager は、名前も外見も Raspberry Pi 用のツールだが、実は他のイメージ書き込みにも使える。手元で試してみた限りでは、うまくいった(どの環境でもうまくいく、という保証はできない)。ポイントとしては…
 ① 「Raspberry Pi Device」については何も選択せず、「CHOOSE DEVICE」のまま放置。
 ② 「Operation System」では一番下の Use Custom を選択。ファイル選択のダイアログが出たら Tails の img ファイルを選ぶ。「Storage」としては、もちろん書き込み先の USB スティック(USB メモリー)を選択。
 ③ 次に進んで「Would you like to apply OS customization settings?」と聞かれたら、 No を選択。
 ④ USB に書き込みしていても「SD Card」と言われるが、気にしない。
[3] に手順のスクリーンショットあり。

ドキュメントによると、 Tails のスティックは masOS 10.10 Yosemite 以降から作成可能だが、 Intel のチップでないと動作しないという(Apple M1, M2 は駄目)。とはいえ、もし非対応や相性問題で USB スティックを作成できなくても(あるいはそこから Tails が立ち上がらなくても)、そのときは、その USB を別の用途に使えばいいだけで、既存のシステム等には特に影響ないと思われる。

Tails は Debian (Linux) 系で、それ自身には Windows 版、 Mac 版のような区別はない。例えば、 Linux で作成した Tails を他の Windows マシンの USB ポートに挿して、普通に起動することもできる。ポケットに入れて持ち歩ける OS。

現時点(2025年3月7日)での Tails のバージョンは 6.13。昨日(2025年3月6日付けで)リリースされた。

[1] https://tails.net/install/mac/index.en.html
[2] https://www.raspberrypi.com/software/
[3] https://gitlab.tails.boum.org/tails/tails/-/issues/20760

Tails OS デスクトップのスクリーンショット

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2025-03-07 ブータンの文化 「幸せな国」って?

画像: インドとブータンの位置関係(地図)

ブータンは「国内総生産より、国民総幸福量の方が大事」という賢者のような主張で知られるが、その「幸福」は仏教文化的なもので、仏教徒以外にとっては多少息苦しいのかもしれない。実際、かつては暴力沙汰になり、ネパール系ブータン人が難民となったことも…。人口80万ほどの小国、「最貧国」からは脱却したとはいえ、経済的には豊かとはいえない。

確かに、お金がなくても幸せに暮らせる状況ってのはあるし、逆に「お金があっても不幸せな人々」もいるだろう。

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統計上は、国民の幸せ度が高いのは北欧諸国。一応フィンランドが世界一ってことになってるようだが、「統計」ってのは、往々にして、細かい実情を捨象している…。あの暗くて長くて寒い冬(文字通り日が昇らない)を「幸せの国」と形容できるのか。夏の白夜との落差のあまり、鬱になる人もいる。アルコール依存症の人も多い。そしてほぼ国民全員、カフェイン依存症…。あまり健康的ではない。客観的に、これで「幸せ」?

まぁ、結局のところ、「幸せかどうか」ってのは国の属性ではなく、個人の内面の属性だろう。客観的には不健康でも、本人が幸せなら、それは幸せなのだろう。どんなに健康的に生活しても、どうせ最後は死ぬんだし――その辺の解釈には、価値観の問題もある。

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Bhutan といえば Bitcoin(この二つの単語、なぜかよく似ている)。クリプト保有国家はやや増えてるものの、内情は大きく異なる。

米国政府 業界からの献金で動き、自分で買わずに犯罪者に貢がせる。お調子者がマーケットを振り回す。

エルサルバドル政府 金を払ってどんどん買う。IMFから止められても、やめられない。依存症?

ブータン政府 買わない。でもエルサルバドルの2倍、持ってる。ヒマラヤの豊富な水資源で発電し自力で採掘。比較で言えば、一番賢い。

米国内の意見は分かれる。「国として、そんな怪しげなもんに手を出すな」という慎重論もあれば、「押収したのを売らずに持ってれば、今ごろ何兆ドルにもなってたのに」というゲンキンな声もある。そんなのは後の祭りで、別の世界線では同じ人々が「だからあのとき売ってれば、百億ドルの利益だったのに」と嘆いているであろう(押収したのが Luna だったりして)。しかし大統領が大統領なので、後者のゲンキンな声が国策となった。それでクリプト推進派はハッピーか。そうではない。「押収したものを売らない」ってだけではなく「積極的に買ってほしい」と期待していたのだ。

確かに国家予算で大量に買って、もし仮にそれが大幅に値上がりすれば、国の赤字を減らすのに役立つ。しかし、その正反対(高く買ったものが暴落して赤字が拡大)も起こり得る。お金が有り余っているならともかく、巨額の赤字を抱える国が投機的に大金をつぎ込むというのは、必ずしも賢明な選択ではないだろう。

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2025-03-27 [Windows] Firefox, Tor Browser 緊急更新 速報

Windows 版のみ。手動アップデートのユーザーは、更新の検討を。 Linux/Mac には影響なし。

〔追記〕 数日後の2025年4月1日、 Tor Browser は 14.0.9 / 13.5.15 に再更新されました。 Mullvad Browser は二つ遅れの 14.0.7 のまま。(2025年4月2日)

攻撃者によって既に悪用されていたバグ(脆弱性 CVE-2025-2783)と同様の問題が発見され、本日2025年3月27日に公表(CVE-2025-2857)。同日、修正済みバージョン公開 [1][2]。修正済みバージョン: Firefox 136.0.4; Firefox ESR 115.21.1; Firefox ESR 128.8.1

Tor Browser の Windows 版にもこの修正が適用され、同日、緊急リリース [3][4]。修正済みバージョン: Tor Browser 14.0.8 (Win10+); Tor Browser 13.5.14 (Win7/8/8.1)

Tails 6.13 の Tor Browser は 14.0.7 だが [5]、この不具合は Windows 版のみのものなので、問題ない。

Mullvad Browser は2025年3月27日現在 14.0.7 のままで Windows (Win10+) 版にも、この修正がまだ適用されていないようだ [6]。 Mullvad Browser は Tor Browser をベースに(つまり Firefox をプライバシー志向にして)、 Tor ネットワークの代わりに通常のネットワークを(そのまま、あるいは VPN 経由で)利用するブラウザ。推奨するわけではないが、新しい選択肢として検討に値する。 Firefox 自体も、昔と違い強くは推奨できないものの、シェアの大きい大企業のブラウザーに比べれば、お薦め。

各ブラウザーのメリット・デメリットをよく考え、 Manifest V3 で閉じ込められる前に移行・脱出できないか、検討してみてはどうだろうか。現在の環境を保ったままでも、場面に応じて Tor Browser や Tails OS などの併用を試してみて損はない。たとえ併用であっても、もし Windows から Linux に移行すれば、たぶん超びっくりするだろう。「なぜ今まで、あんなひどい牢獄の中にいたのだろう?」「これが自由ということなのか…今まで自由を一度も経験したことがなかったので、分からなかったんだな」と。

[1] https://www.mozilla.org/en-US/security/advisories/mfsa2025-19/
[2] https://nvd.nist.gov/vuln/detail/CVE-2025-2857
[3] https://blog.torproject.org/new-release-tor-browser-1408/
[4] https://blog.torproject.org/new-release-tor-browser-13514/
[5] https://tails.net/news/version_6.13/index.en.html
[6] https://mullvad.net/en/download/browser/windows

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2025-03-31 イタリア政府・市民監視にスパイウェア

イタリアの情報機関がNGOやジャーナリストに対してスパイウェアを仕掛け、監視・盗聴を行っていたという。2025年3月末に発覚、ヨーロッパの各種メディアで問題になっている。

状況には、まだ不明確な部分も多い。政府機関が組織的に行っていたとされ、現在、被害者が裁判所に訴え、今後、事実関係が明らかになるかどうかという段階(仮に政府の悪事があったとして、裁判所が本気でメスを入れるのかというのは微妙かも)。政府側は「法の範囲内だった」と主張している模様だが、過去数か月にわたって「そんなことはしていない」と疑惑を否定していたため(要するに、うそをついていたため)、少なくとも不信感を持たれている。憲法違反の疑いも。

盗聴のターゲットにされた代表例(政府側が事実を認めた)として、リビア難民(迫害され、地中海の対岸から脱出してくる)を支援していたNGOがある。伝えられるところによると、イタリア政府は「公海上から外国人を招き入れるのは治安維持の問題があるので、ひそかに活動を探っていた」というような説明をしている。NGOの側は、声明の中で「暴行・殺害の危機に瀕している人々が緊急避難してくるのを一人でも多く救うのは、人道的に当然のこと。政府はリビアで起きている惨事に、加担するつもりなのか」と批判し、活動を継続すると宣言。人道的援助をしていて、思いがけず自国政府からにらまれたことでは、かなり恐ろしさも感じたようだ。「勇気とは、恐れないことではない。恐れを乗り越えることだ」とメッセージを結んでいる [1]。

イタリアに限らず、政府が一般市民にスパイウェアを仕掛けるというのは、愉快なことではない。「怖いのは悪意のハッカーや、怪しい会社だけではなく、本来なら不正侵入を取り締まる側の政府も、同様の侵害行為をしている」というのは、なんとも嫌な現実だ。力を持つ者がつい必要以上に力を使ってしまうのは、自然の成り行きかもしれないけど…。

「令状なしの不当捜査は許されない」といった根本的問題・人権問題もさることながら、純粋に技術的な意味でも、疑問がある。仮に「善意」でやったとしても、(政府が仕掛けようが、ハッカーが仕掛けようが)裏口を作るとなると、当然そのデバイスのセキュリティーは低下する。セキュリティー上の穴があれば、潜在的には犯罪者に悪用されたり、副作用で情報漏洩が起きやすくなったりするわけだが、一般論として、国がスパイウェアを仕込む「メリット」は、そうしたリスクより大きいのだろうか?

[1] Mediterrana Saving Humans
https://mediterranearescue.org/it/news/i-servizi-segreti-hanno-spiato-mediterranea-per-ordine-di-mantovano
“Il coraggio non risiede nel non avere paura, ma nel superare la paura.”

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2025-04-28 「自由の乱用」の甘受 vs. 「不自由」の甘受

バーゼル問題の話で紹介した Яглом & Яглом の英訳が archive.org にあり、自由に参照できる。
https://archive.org/details/akivaisaak-m-yaglom.-challenging-mathematical-problems-with-elementary-solutions-vol-2
原書の誤字も修正されている。

archive.org は便利な図書館のような存在で Tor フレンドリーでもあるが(onion バージョンまである)、最近、
https://athena.archive.org/0.gif
の 1×1 ピクセル透明GIFを使って執拗なトラッキングをしてるので、要注意。

「この利用者は、何時何分何秒にこれこれの本の何ページ目を開いて、何秒後に次のページをめくった」といったことを細かく監視・記録するのは、ちょっと不気味な「図書館」だ。

「どこでもやってること」「そのくらいは、まだまし」…というのが、ウェブの残念な現状なのだが…

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現在(2025年4月)のインターネットの一般的状況について…

「気にしない」という人が、何をどうしようがどうされようが、それは個人の選択・個人の自由。けれど友達を裏切るのは、良心の問題として許されないことだろう。「隠すことは何もない・見られて困るものは何もない」とうそぶいて、友人からのプライベートなメッセージを勝手に第三者と共有するのは、いかがなものか。「みんなやってることだし…」と「自分の考え」を放棄するのは、自分自身に対する裏切り・最低最悪の裏切りである。

表面的な「便利さ」と引き換えに、目に見えないところで犠牲になっているもの、発生しているリスクは大きい。「無料サービス」の「無料」が、実は自分のプライバシーや友達の個人情報との「物々交換」だとしたら、「ただほど高いものはない!」と言うべきだろう。「金のかかったサービスだが、無料で使わせてやろう。その代わりおまえ自身の情報も、友達から受け取ったメッセージも、全部提供するんだぞ。いいな?」

本人が自由意思で「同意する」を選択して、任意で情報を提供するだけなので、建前上、違法ではないのだが…

誰かが悪いというより、「無名の個人に関するどうでもいいような情報の断片でも、集積すると大金になる」という思わぬ発見の結果、ネットや商用OSの趨勢はこうなってしまったらしい。

一般ユーザーがとりあえずできる対策としては、 NoScript と uBlock Origin を導入すること(導入できるブラウザを使うこと)、「毎回ログインするのは面倒」という考えを改め、極力、毎回 Cookie をクリアする設定にして、必要なとき以外は常にログアウトすること。 Cookie を放っておくのは、持続的なサイト間トラッキング(個人情報漏洩)の最大級の原因だろう。「ログインしたまま」「自動ログイン」というのは、パスワードを盗まれることと紙一重でもある(第三者が物理的にデバイスにアクセスできる場合は特に)。「便利さ」と、プライバシー的・セキュリティー的な「安全」。てんびんにかけると?というのは部分的には「個人の価値観の問題」。とはいえ、社内情報や友達の個人情報を流出させてしまうと信頼を失うだろうし、「個人の問題」では済まなくなるかもしれない。

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この「弱肉強食」のような殺伐とした状況をもう少し何とかする技術的方法はあるはずなのだが、構造的問題として、ウェブの技術の(独占力を持つ)スポンサーの多くが「強食」の側。おまけに自国民を守る立場のはずの各国の政府が「安全な通信」に対してひどく消極的。「全ての通信は、少なくともオプションとしては、盗聴可能でなければならない」というのが、多くの国の立場であり、まるで悪意のハッカーのように、公的な標準規格にバックドアを仕込んだ国さえある。

「犯罪捜査のため」「犯罪者がセキュアな通信で悪事の相談をしてほしくない」という主張は理解可能だけど、あいにく「犯罪者だけを丸見えにしつつ、それ以外の人を安全にする」なんていう都合のいい技術は存在しない。言うまでもなく、技術(アルゴリズム)そのものは価値中立的であり――人間の裁判所ですらア・プリオリに善悪の判断をすることはできない――、技術的な選択肢としては「全員(全部の通信)を安全にするか、全員(全部の通信)を不安全にする」という選択になってしまう。果たして「悪人の通信を(原理的には)盗聴できること」から生じる公益は、デメリットを補って余りあるほど大きいのだろうか。「バックドアが奏功して詐欺師がつかまりました・犯罪を未然に防ぐことができました」なんてニュースは、ほとんど聞いたこともないが…?

他方、ネットが不安全なことによって大多数の一般人が被るデメリットは、歴然としている。日常的でリアルな問題だ。むしろ「ネットを意図的に不安全にする政策こそが、オンライン犯罪を助長する」とすら思える。肝心なターゲットのはずの犯罪者も、ばかではないだろうから、わざわざ不安全なプラットフォーム上で密談をしないだろうし…。自由で率直な意見交換を妨げる「検閲」は、たとえ間接的・潜在的なものであれ、トータルでは社会にとってプラスになるとは思えない。

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自由なやり取りの保障には、その自由が悪用・乱用されるリスクが付きまとう。「自由」が生むものは、良いことばかりではないであろう。しかし「自由なやり取りができない社会」、つまり「監視社会・全体主義」というのも、良いものではない。では、自由を乱用する者の存在を甘受して、全員が大きな自由を持つべきか。それとも、自由の乱用を防ぐために、全員が不自由を甘受するべきか

この選択に対する立場の違いは、「人間性」に対する直観の違いではないだろうか。一方において「大きな自由が保障されたとき、大半の人はそれを悪用するに違いない」という考え方(一種の性悪説)があり、他方において「大きな自由が保障されたとき、大半の人はそれを善用するに違いない」という考え方(一種の性善説)がある。どちらが真相に近いかは、社会の状態や文化的背景に依存し、一概には言えないであろう。

ほんのちょっと違うパラレルワールドでは、今ごろメアドには漏れなく公開鍵が付き、透過的に(ユーザーが何もしなくても)全部の通信は自動的に end-to-end で暗号化され、「中間でメールをスキャンして広告材料をあさる怪しい無料サービス」は原理的に存在し得なかったであろう。メールに限らず一事が万事、その方向にならなかったのは、残念なことだ。

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2025-04-30 日本のPCユーザー4人に1人は既に脱Google 

デスクトップ検索エンジンのマーケットシェア(2022年~2025年)。 Google は 65~75% 程度。2025年3月、日本では 74.15% だったそうです。北米・ヨーロッパでも 75% 前後。

2023年ごろには世界全体で 90% 近いシェアを持っていた Google ですが、この数年、少しずつユーザーを失い、2024年12月ごろ 80% を切った模様。まぁ、自業自得かと…

画像(グラフ): Google のシェアはだんだん減って79.14%に
ほぼ単調に右肩下がりの Google シェア

シェア 2 位の Bing も、品質的にも、プライバシー的にも五十歩百歩。

でも、知名度は低いけれど、比較的良い選択肢やフロントエンドは、あります(それぞれ短所もありますが)。例えば SearxNG のインスタンスや Brave や leta.mullvad.net や 4get.ch のインスタンス、そして、ちょっと微妙だけど Startpage などは、うまく使えば優れ物。少なくとも、広告だらけ・トラッキングだらけで、検索品質「?」の大手(広告主のサイトへの誘導を優先?)よりは、マシかと。最近 duckduckgo は、いちいちだけど、それでも役立つことはある…

型にはめられデフォルトの押し付けに甘んじないで、いろいろ試してみよう!

〔統計の出典〕 https://gs.statcounter.com/search-engine-market-share/desktop/worldwide#monthly-202206-202503

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2025-05-22 日本の債券市場の危機と除夜の鐘 煩悩のビットコイン108K

きっかけがあれば 1 BTC = ~$108K を突破して、史上最高値を更新するのは時間の問題と思われたが、触媒の一つが「日本の財政危機」というのは予想外だった。

国の赤字がGDPの2倍を超え3倍に近く、財政破綻に陥ったギリシャより悪い状況ってのは、前々からの共通認識ではあったが…

日本だけの問題では済まないかも。米国の借金だってGDP比は小さくても、絶対額で言えば天文学的。理論的にはいつ破綻してもおかしくない。日本だって存亡の危機になれば、大量に持ってるらしい米国債を売り払うのも、当然の選択肢。すると何が起きるか…?

長期的に見れば、どちらの国の経済も持続可能でないことは明白なので、こうなったらもはや悟り(?)を開いて、「どーせ破綻するなら早めに壊れてくれた方がむしろ傷口が小さい」と考えるべきなのかもね(笑)。怪しいBTC(ビットコイン)も、USD(米ドル)に対するヘッジになるという憶測なのか、 BTC/USD が今日110Kに(2025年5月22日)。史上最高値。景気のいい話のようだが、世界経済がカオスになったら、ヘッジもヘチマもない…

もう一つ全く予想外の展開は XMR/USD が ~400 に行ったこと。先月(2025年4月)、XMR(モネロ)について書いたときは、 1 XMR はだいたい200ドルという紹介をしたが、その後、300ドルになって、なんなんだ?と思ってるうちに、今度は400の水準になってしまった。「2倍に増えるのも2分の1に減るのも、よくあること。そのくらいは序の口」ってのはクリプト界の荒っぽい実情だが、今までモネロは比較的安定していた。どうも穏やかではない。

奇妙といえば奇妙、モネロらしいといえばモネロらしいのは、タイミング的に(偶然かもしれないけど)「EUでは2027年までにプライバシーコインを禁止するらしい」といううわさが流れた後から、急に上がり始めた。普通なら「規制される→使えなくなる→暴落」で当たり前なのに、ユーザーは長年の規制圧力ですっかり慣れっこ、「規制されるなら、万一に備えて買えるうちに買いだめしとくか」という流れになるのだろうか? 筆者自身も一応ユーザーだけど、細かいことは知らないというか、何が起きてんのか分からない。ただ言えることは、本来「私生活の平穏」(プライバシー)なんてのは、当たり前の基本的人権のようなもの。それが「一部の人にしか手が出せない高価な商品」のようになってしまうのは、決して喜ばしいことではない。モネロが上がるってのは、それだけ息苦しい世の中になってきてるってことなのかな、と。

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高値更新でブームのとき(一般メディアでニュースになってるとき)、「よく分からないけど、もうかるらしい」と釣られて買うのは考え物。「値上がりする(得する)ことがある」のは事実だけど、「値下がりする(損する)ことがある」のも、五分五分の事実。特に高値ってのは、往々にして下降に転じる場所なので…。同じ買うなら、値上がり中に買うより、上がる前(大きく下がったとき)に買った方がいいのは当たり前。

とはいえ、表面的な損得だけが「意味」ではない――「投資・転売の対象」という世俗的な見方ばかりせず、プライバシーコインの存在の文脈(ビットコインなどと対比的に)を把握できれば、違う展望も開けるかも。実験的・哲学的な意味合いについては、誰もが興味を持てるようなことではないだろうし、仮に興味を持ったとしても、モネロはピュアP2Pベースなので、やっぱ万人向けとは言い難いけど。

〔追記〕 ATH 118 台に。①2025年5月22~23日の史上最高値(ATH)更新 110–111K 以降、 BTC/USD は修正・下降傾向があり、②6月22日には一時 99K 台まで落ちた。しかし反発、6月24日から7月9日までは、おおむね 105–110 K の水準に。③2025年7月10日、夕方(UTC)に上がり始め 112–115K となって ATH 更新開始。翌7月11日は 115–118 で取引され ATH ~ 118.5 を記録。7月12日は 03:00 UTC 時点で 117 台で取引されている。―― XMR/USD は①の時期には 400 を突破したが、6月5日以降、おおむね 310–350 の水準が続いてた。②の時期には一時 289 まで落ちた。その後おおむね 310–330 の水準だったが、③の時期に330より上へ。現在 334 で一カ月ぶりの高値とはいえ、5月中旬から6月上旬には 330 台の XMR は珍しくなかった。現状は「上がった」というより「回復した」。――その結果 BTC の高さゆえ XMR/BTC は2カ月半ぶりに 0.0027–0.0028 の水準まで低下(4月末の「あれ」までは、数カ月間おおむね 0.0024–0.0025 の水準だったので、それと比べればやや高水準)。考えようによっては BTC から XMR へ安くスワップできる状態だが、先行き不透明だし XMR の持ち主もこのレベルでは、あまりスワップしたがっていないだろう。―― CEX 系(中央、投資)では「BTC はまだ上がる」という楽観と「BTC は落ちる」という見方の両方があるようだ。 DEX系(P2P、実需)では 5:1 くらいで「下がる」(売り抜けたい・買い時でない)というムードか。(2025年7月12日)

〔追記2〕 2025年7月14日未明(UTC)、アジア週明け、BTC/USD 120K ATH、さらに上昇中。現在 XMR/USD ~345、XMR/BTC ~0.0028。BTC強気のラリーの背景は、米国の暗号通貨フレンドリーな政策とインフレデータなどらしい。米国の攻撃的関税政策の影響か、2025年7月に入ってから EUR/USD は下降傾向。他方 EUR/JPY は上昇傾向で170円を突破。しかし半年前比でのユーロ高は、対JPYでは +6% と比較的穏やか、対USDでは +13% と比較的きつい。つまり「ドル換算で増えた」としても、ユーロ換算ではさほど増えてない。$100Kを越えてから、DEXでは「BTCは90K方面への下降に転じるだろう」「今は買い時ではなく売り時」という見方が5:1くらいで優勢、といった感触だった。実際には上がったのだから、買っておいて今すぐ売れば約20%の利益だったのだが、CEXでの投資/売買と違い、P2PのDEXでは短いタイムフレームでの取引が難しい(投資目的というより実需)。そのため10%・20%は「誤差」で、1.5倍、2倍、3倍のようなオーダーで考える(例: 現在、かなりのBTCユーザーは、30K程度で買ったものを120Kで使えるポジション。ほとんどの Monero ユーザーは、現在、200で買ったものを300+で使えるポジション)。投資家のように細かく売り買いせず、実際に使う分を仕入れたら、暴落しようが放置。むしろ暴落して投資家が損切りしてるとき、それを高く買うことすらある。損することもあるが、「10~20%程度のプレミアはプライバシーの基本料金」と割り切ってる。(2025年7月14日)

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2025-07-02 散歩の楽しさ

気持ちのいい静かな道を歩くのは、楽しい。森林に漂うかぐわしい香りは、心を落ち着かせてくれる(少し苦み走ったような針葉樹や、みずみずしく、かすかに甘酸っぱいような広葉樹)。峻厳で神々しい高山はもちろん、たとえ近郊の丘や低山でも…

土地によっては、日常の身近な背景に高い山が見えている。ただ景色の片隅に「見上げるような、雪を頂く山がある」というだけで、気持ちの上で何か良い影響があるようだ。

尾根に出て、突然すてきな展望が開けたときには心が躍る! 地図の上では「この位置からこの方向を眺めれば、あの山々が見える」といった「ただの事実」なのだが、気まぐれに散策していて思いがけず素晴らしい眺望に出会うと、立ち止まって見とれてしまう。それを人に説明することは、必ずしも容易でないのだが――「わざわざ汗水流して何時間も山や谷をさまよい、くたくたになって何の得があるのか。何が面白いのか」と人は問うかもしれない。道に迷ってひどく不安になったり、苦労したりすることが多いのも事実だし…

息抜きの散歩をしていて「面白いもの」を見つけたとき、その「面白い」というのはひどく主観的なことで、人にとっては「どうでもいいこと」かもしれない。当事者にとっては、面白いものは面白く、記念にメモしておきたいこともある。その「発見」はさらに素晴らしいことの一部かもしれず、覚書が後から重大なヒントとなるかもしれない。特に「この場所にはもっと深い秘密がある。さらなる探検の余地がある」ということが感じられる場合には…

結局、散歩するのは、単純に「散歩が好きだから」だろう。新しいおもちゃを手に入れた子どもが、ただただ夢中になって、そのおもちゃで遊ぶように…

もちろん子どもは、「おもちゃで遊ぶ自分ってすごい!」「人と違う遊び方をする自分は偉い!」などと「自分」の自慢をしたいわけではない――「おもちゃ」自体や、「思い付いた面白い遊び方」については、なにやら語るかもしれないとしても。「そんなおもちゃで毎日何時間も遊んで、一体何が楽しいの?」と聞かれても説明できないけど、子どもは「なぜ楽しいのか説明して理解してもらうために」遊んでるわけじゃない――それこそ「われを忘れて」夢中になって没頭し、「自分がどうこう」「人にどう見られるか」といった意識は消し飛んでいる。

「人にどう見られるか・他人を感心させられるか」といったパラメーターと全く無関係に何かを楽しめるということは、「ひも付きでないピュアな幸せ」だ――その喜びは「得点・評価」のような「誰かによって測定・決定される外部パラメーター」の形で押し付けられるものではなく、「その行為自体」に内在し、「自分自身の心の中」からダイレクトに生じる。

そのような「無我夢中」の状態が行き過ぎると、事柄によっては社会生活に支障を来すであろう。しかし「気晴らしさの散歩」のようなことは、よほどの非常識なこと――他人の家の庭に勝手に入り込むといった――でもしない限り、誰かに迷惑をかけることでもあるまい。

「散歩が好きだから、のんびり気ままに散歩を楽しむ」といったことは、この上なくシンプルな話で、原理的には、誰にでも簡単に実行できることだろう。散歩が好きな者にとっては、散歩すること自体が楽しい――すてきな景色に出会えても出会えなくても、成果があってもなくても。それは最も根源的な意味での「生きる意味」の実現かもしれない。

筆者はもうこのメモの続きを書けないかもしれない。到着した者は、誰でも去るのだから。それは状況によって、小さな確率かもしれないし、大きな確率かもしれないが、言うまでもなく、誰にでも常に存在する分岐だ。

話の自然な前提を「変更可能なオプション」であるかのように錯覚すると、「どんな旅にも終わりがある。だから旅行をしても楽しくないし、旅をすることは無意味だ」といった、おかしな結論が生じる!

もしも「有限性」がオプションだったなら、「そのオプションをオフにして、永遠に楽しい旅行ができれば楽しい。さもなければ悲しい」という主張は、一定の意味を持ち得たかもしれない。しかし有限性はオプションではなくルールであり、するとむしろ逆に「楽しい旅も、永遠には続かない。だからこそ旅は楽しい」という観点が生じる。

あしたはもう帰る日で、散歩に行けないかもしれない。だからこそ、今日の散歩は味わい深い。

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